姪っ子と大自然からのヒント
勢いの衰えない来館者の波に揉まれながら午前中の仕事を終え、戻ってきた事務所の中は、なんだか不思議な感じがした。
「思えばこんな真っ昼間に事務所へ戻ったことは、あんまりなかったな」
閉めたカーテンの隙間から輝かしい日の光が漏れ、落ち着いた色の家具やそこら中に積まれた本などを照らしている。小さな町のカフェと古本屋を足して2で割ったような雰囲気だろうか。もっとも、今は私のデスク上に駄瓶先生の画集や資料がいくつも山積みになっているため、いささか無粋な格好になってはいるのだが。
「あと20分ほどか、約束の時間には間に合いそうだな。駄瓶先生には少しの間ご退出願おう」
デスクにある画集と資料の山を少しずつ少しずつ削り取り、応接間のソファの上や理愛のデスクなどに一時退避させる。ぶ厚い画集を2冊ほど残して、タブレットを立てかけるスタンド代わりにした。
洗面所に行って髪と身だしなみを整えたあと、デスクのタブレットを起動し、ビデオ通話のアプリを立ち上げた。マイクとカメラのテストをして、ついでに顔の傷が目立たないようにタブレットの位置を微調整する。
さあ、これで準備完了だ。約束の時間は5分前。LINEで準備が完了したことを弟に告げて、私は指定されたコードを入力しビデオ通話を開始する。
「おじちゃん、こんにちは!」
ルームに入ってすぐに、姪の叶美ちゃんが放つ元気満々の声が、事務所に響き渡った。
「うおおっ、びっくりしたぁ、叶美ちゃんかぁー! こんにちは、また少し大きくなったかな?」
「うん、身長かなり伸びたよ! パパー、おじちゃんが来たー!」
特に意識なんてしなくても、この子の前では自然と表情も言葉も柔らかくなってしまう。しばらくして、古い木の床が軋む音を立てながら、弟が姿を現した。ニット帽に、厚めのダウンを羽織っている。眼鏡は曇っていて、体のいたる所に雪が付いていた。
「兄さん、久しぶり!」
「久しぶりに会えたな、永介。相変わらず海外をあちこち飛び回っているようだが、元気そうで何よりだ」
「そういう兄さんこそ、また危険な突撃取材をしてるんじゃないだろうね? また顔の傷が増えたんじゃないか」
「ええ? 嘘だろ」
ほとんど反射的に、私は頬をタブレットのカメラへ向けた。画面に映る自分の映像には、傷なんて目立っていないように見えるが……。
「ほら、そんな反応するってことは、またなんか危ないことをしてるんだろ。駄目だよ兄さん、そんなんじゃ運命の女性なんて見つからないよ」
「こいつ……鎌をかけやがったな。それにルポライターとしては一線を退いてるって前に言ったろう。今は探偵も兼業して、以前よりはずいぶんと平和的に日々を過ごしてるぞ」
「ああ、そうだったね。でも探偵だってなかなか危険なもんでしょ? 事件の影に巨大な犯罪組織とかがあったりしてさ」
「そういうのは漫画か小説の主人公にまかせるよ。それに今オレが受けている調査依頼だって、危険とは無縁の穏やかなやつだからな」
「やれやれ、本当に兄さんのそういう所は玉に瑕だね。顔は僕よりも整ってるのに……」
弟が頭を下げてニット帽の上から頭をかくと、頭頂部に残ってた雪がパラパラと落ちてきた。
「そう言えばそっちの山奥はさ、いま雪降ってんの?」
「ああ、ちょいと季節外れの大雪が降ってね。ちょうど僕が帰ってきた後で一気に降り出して、さっきまで雪かきを手伝っていたところさ」
「雪かきかー、懐かしいな」
「おじちゃん、雪たくさん降ったよ! ほら、たくさん積もってる。雪げしきー!」
弟の横へ、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら叶美ちゃんが乱入してきた。弟はちょっと困惑しながらも、実に幸せな表情をしている。
「うんうん、たくさん積もっているね。久司おじさんにも見せてあげよっか」
そう言いながら、弟は端末を動かして、カメラを家の庭のほうへ向けた。確かに雪景色だった。庭の地面が白一色で、庭木にもしっかりと雪がかぶさっている。まだちらほらと雪は降っているようだ。この別世界的な風景。駄瓶先生の作品にもいくつかあったなあ。
「パパ、あたしおじちゃんに写真とってあげるー!」
「いいね、おじさんもきっと喜ぶと思うよ」
私はどう反応していいかわからず、照れくさそうにタブレットの画面を見続けていた。縁側まで走っていった叶美ちゃんは、子ども用のスマホを目の前に掲げて、綺麗な雪景色をフィルターに収めようとがんばっていた。
ん? この光景、どこかで……。
「あれー?」
叶美ちゃんはそう言ってスマホの画面を見つめた後、弟のほうへ駆けていって、スマホの画面を見せつけた。
「パパ、また何か読み込んじゃった」
「えっまたかい? やっぱりカメラの調子が悪くなってるのかな。それともこれは、大自然から叶美へのメッセージかもしれないね」
「メッセージ……? おい永介、叶美ちゃんは何を読み込んだんだ?」
「ん? いやあ、大したことないやつだよ兄さん、単なるエラーさ。これはね――――」
「――――?」
「――――」
「――――!」
これか。いや、おそらく、きっとそうだ。
頭の中を、冷たい吹雪が一気に吹き抜けていくような爽快感だった。
「永介、叶美ちゃん、ありがとう。解読の鍵が見つかったかもしれない!」
「えっ、ど、どうしたんだい兄さん。解読の、鍵って?」
「いやあすまん、仕事の話さ。これから追い込みかけるから、いったん通話切るわ。親父と母さんと、それから奥さんにもよろしく言っておいてくれ!」
「ええっ!? に、兄さん、くれぐれも無茶はやめてくれよ!」
「おじちゃんバイバーイ。あとで写真送るからね!」
カメラに向かって手を振り、私は通話終了のボタンをタップした。
そしてすばやく椅子から立ち上がり、一時避難させていた駄瓶先生の画集を何冊か掴み取った。
「雪景色か、あるいは白と黒を基調とした絵を探すんだ!」
首の後ろが熱くなっているのを感じる。確証があるわけではないが、直感が背中を後押ししていた。駄瓶先生、失礼ながら、あなたの作った錠前をこじ開けさせてもらいますよ。