地獄の魚
地獄の底でした。比喩ではありません。お金がありません。
慟哭の声がうるさいです。耳を塞ごうにも脳髄で反射してどうにもなりません。全身に怪しい虫がぶんぶんと群がっていて、皮膚に触れるたび痒くて痒くて仕方がありません。虫を振り払おうにも腕がありません。
仕方がないので何度も頭を振りかぶり、虫たちを追い払おうとしましたが、一向に飛び去る気配がないのでもうあきらめてしまっています。
しかし、だからといってこの醜悪な虫たちに屈するわけにもいかず、人間であるという尊厳のもと、私は虫たちを睨み付けようとしましたが目がありません。睨み付けることが出来ないのであれば食べてやろうと、口を大きく開けて、首を縦に、横にと羽音を追ってみますが、一向に口に入る気配がありません。
女の子が歩いてきました。私には腕も目も、ついでに鼻もありませんでしたから、私に近づいてくる存在が女の子であると知覚できたのは、かろうじて残った人間としての本能とでも言いましょうか、偶然です。
私は女の子に声を掛けようと思い、息を吸って喉に力を入れてみるのですが、吐き出されるのは嗚咽だけです。声帯もないのでした。
女の子は軽やかなスキップでぐんぐんと近づいてきます。
「まあ、たいへん、たくさんの虫があなたに群がっているわ。さぞお辛いでしょう。早くあなたも潜るべきだわ。そうすればその虫たちも追ってこられないはずよ。ほら、はやく」
私には耳がないはずなのに女の子の声だけは、それはもう鮮明に聞こえるのでした。私は女の子の言う通り、虫の追っ手を逃れるため、地面に潜ろうとしました。
頭を地面に擦りつけ、叩きつけ、血が溢れたところに虫が集まり、血を吸って卵を産み付けていきます。おでこは血と卵と、その卵から羽化した蛆で一杯になりました。
頭を強く打ち付けたせいでしょうか、だんだんと視界の淵に黒い靄がかかり、意識が薄らいでいきます。一向に潜れる気配がありませんでしたが、私は一生懸命に頑張りました。ここで死ぬわけにはいかないのです。
屍に群がる虫たちを嫌と言うほど見てきました。私はあの無様な姿に興味がないのです。生物として瀕死でも、人間として生まれたからには、これが自然の摂理なのだと笑って死ぬことは恥ずかしくてできないのです。
そこで私は一つ決断して、声帯のない喉に精いっぱいの力を込めました。
「お嬢さん、どうやら私には地面に潜る力など、もう一滴たりとも残されていないようだ。どうか私を置いてお嬢さんだけでも潜って逃げておくれ」
私こそ本物の人間らしい、ただそれだけの信念を持ってここで死ぬことに決めました。信念のもとに死ぬ。ああ、なんて素晴らしい響きでしょうか、これならば辛うじて恥ずかしくないでしょう。
私は虫に抵抗するのをやめて、でんと大の字に寝ころびました。正確には腕も足もありませんから一の字でしょうか、とにかく晴天の気持ちで寝ころんだのです。
すると女の子が横になった私を上から覗き、ふふと小さく笑って、
「地面なんかじゃないわ。海に潜るのよ」
と言うのです。私がいたのは地面なんかじゃなかったのです。そんな浅いところではありませんでした。もっと深い、空気のない深淵の世界、人間一人の覚悟など藻屑にもならない雄大な世界、その表面にいただけなのです。
私は一度大きく深呼吸をしてから、思い切り息を吸い込みました。海に潜るためです。さっきまで頭を打ち付けていた地面はいとも容易く通り抜けることが出来ました。女の子の言う通り、虫は海の中まで追って来ません。
「ここまでくればもう安心ね。さあ、もっと深くまで潜りましょう。海って命が始まった所なのよ。なんでもあるわ。きっとあなたがないと思っているものもね」
女の子はそう言って朗らかに笑うと海のずっと底まで潜って行きました。私は両腕を大きく使って水を掻き、目を開けて女の子が泳いで行った軌跡を辿りました。
私が海の底に辿り着いたときには、すでに女の子の姿はなく、ただぽつんと大きな月が漂っていたのでした。
お読みいただきありがとうございます。
地獄の魚は「ムーンフィッシュ」シリーズの1つです。シリーズとしていますが各話完結となっております。
他にも「~の魚」という表題がムーンフィッシュシリーズですので合わせてお読み頂けると嬉しいです。この地獄の魚を含め、~の魚で語られる「ムーンフィッシュ」以外の物語は、酔っ払いのために作られた道化話です。
「ムーンフィッシュ」という物語だけが真実です。