2020年10月21日 自問自答
いくらか酷い出鱈目を聞いた後には、あいつは全くどうしようもないことばかり言うのだ、なんて思い、完璧らしい文章をいくらか書いて、誰が読むわけでもないのに全てを見ている神のような存在に向かって自分は正しいのだ! と不毛な訴えをすることが僕の日常である。確かに、僕は全てをわかっているつもりでいて、どんな賢人よりも素晴らしいことを思いつくのだと自負をしていたものだが、こうして文章を書いてみると酷くまともらしくて、それでいてつまらないことばかりを書く愚行を犯しているどうしようもない人間の所業と気が付くのだ。それ、見たことか。タッタ一文で多くの人間を救うような哲学者がいるというのに、僕なんかはまるで誰も救いにもならないような(もちろん、自分自身もである)仕方のない事しか言えないのだ。例えば、行きつけの喫茶店、トテモ雰囲気のいい喫茶店で昔であれば紙とペンあたりを取り出していくらか文字を書いてみれば、世界すら救えるようなスバラシイ事柄を言ってやれるのだと思いあがって行ってみたはいいものの、喫茶店に着くなり、まるで関係のない小説を読んでは、気晴らしに煙草を吸って、今の瞬間は何も書かずとも、これから執筆する素晴らしいアイディアを模索しているのだ、と妙な安心感を得るのだ。そうして店が閉まるまで何もせずに、家にいる時とまるで変わらない様子でダラダラと過ごすと、自分が世界にタッタこれっぽっちの影響も与えないのだと全くの見当はずれをするのだ。いっそ、自殺でもすれば関係のない人間らも自分の事を話題に挙げるだろうか、と考えて用具品店に行っては丈夫な縄を探して、近くにいた店員に、ここらに丈夫な木はありませんか、と尋ねてみるが、いえ存じません、と冷たく返されてしまう。終いには縄を買う金すら惜しくなって、すっかり頭から抜け落ちていた将来のあれこれに関していくらか思考を巡らせてみるのだ。
なるほど、自分はすっかり心を病んでしまっているが、かと言ってそれほど悪い状況でもないのだ。今から適当な会社に勤めて、貴重な毎日を自分とはこれっぽっちも関係のない労働に費やして僅かでも給料をもらう様になれば少しは立派らしい人間に見えるというものだ。僕がこれをしないのは生まれ持ったものかどうかもわからぬ、愛すべき放浪癖のせいかもしれない。一つのところに留まれないのであれば、生涯を通じて勤め上げることなど出来るはずもない。僕は五体満足で今のところは大した病もないのだから、行動をすればそんな簡単な事は出来てしまうはずなのに、見えもしない心の事情を原因と決めつけて、どうしよもない遊び人のように振舞うのだ。
ここまで書いた物を読み返してみると、全く情けない文章である。下らない三文小説を漁っているような輩でも気にも留めない駄文である。いったいどうして、自分の文章が下らぬ哲学者に勝ると思っていたのだろうか。全く酷い文章である。昔で言うところの掲示板には、僕の心情と似てか違うか見当もつかない輩の「死にます」という仕方のない宣言で溢れているではないか。溢れているから、もはや誰も気に留めないのだ。
全くの駄文であるが、僕はいくらか文章を書いたわけである。そのことで心の中にあるなまめかしい満足感のために、僕は煙草を吸って、次こそは名文を書くぞ、と意気込んでは煙に巻かれながら素晴らしいアイディアを模索するのだ。そして宙に浮かぶ煙を眺めながら、喫茶店の閉店を待つのだ。