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8/12



 窓から射し込む眩しい朝陽で目が覚めた。

 ぴったりくっついている熱い肌から離れて、身を起こす。すぐ隣で、枕に埋まるようにしてぐっすりと寝入っている顔を覗き込んだ。

 いつもは「早起きして夫を起こすのが妻の仕事」と言い張ってきかないリーフェ嬢だが、さすがに今朝はそれも困難らしい。こうなることを見越して昨夜無理をさせたものの、やっぱり少し罪悪感がある。

 疲労困憊で熟睡している顔が、まるで遊び疲れて眠ってしまった子供のようにあどけなく見えた。

 リーフェ嬢ががっかりするところを見たくなくて、普段は俺のほうが早く起きてもそのまま眠った振りをしているのだが、今日ばかりはそうもいかない。彼女を起こさないように慎重に、頬にかかった髪をそっと直し、口づけを落とした。

 そのままベッドを出て、素早く衣服を身につける。最後にもう一度可愛い寝顔を堪能して、微笑を浮かべた。

 出来ればわたくしにメロメロになっていただきたいのですけど、と言われた時には、度肝を抜かれたものだが。

 ──気づけば俺はもう、とっくにそうなっている。



 着替えてから寝室を出ると、廊下の先に、アリーダが直立の姿勢で待っていた。

「……お坊ちゃん、お食事はどうなさいますか」

 いつもと同じ顔、同じ口調で問いかけられる。彼女が懸命の努力でそうしているのが判るから、俺もいつもと同じように「お坊ちゃんはやめろって、俺もう結婚してるんだから」と笑って返した。

「朝食はいい。このまま出かける」

 俺は、朝も夜も食事は一緒に、とリーフェ嬢と約束を交わした。この屋敷の中で、彼女が同席しないのなら、自分一人だけで食事をとろうとは思わない。


 ……破る約束は、ひとつで十分だ。


「かしこまりました」

 普段なら、食事抜きなんてとんでもないと目を三角にして怒るアリーダは、それだけ言って頭を下げた。

「アリーダ」

「はい」

「──リーフェ嬢を頼む。必ず、彼女を」

 無事に逃がしてやってくれ、という続きの言葉は声に出さなかったが、アリーダは顔を伏せたまま、何度も頷いた。

「はい、必ず。……あの方が来てくださってから、この屋敷がどれほど明るくなったかわかりません。お坊ちゃんの大事な奥方様は、私が命に代えても、必ずお守りいたします」

「物騒なこと言うなよ、アリーダ」

 俺はおどけるように言い返した。

「アリーダだって、俺の母親代わりの大事な人だよ。ロベルトもな。お前たちも早くここを出て行くんだぞ、いいな? 屋敷なんてのはただの容れ物だ、こんなものを後生大事に守ろうとしなくていい。さっさと捨てていいから、自分を助けることを優先させろ」

「…………」

 アリーダは返事をしなかった。下を向いたまま、肩を震わせている。

「主人命令だぞ。不甲斐ない主人だけどな。……だけど頼む、アリーダ。俺は子供の時から、あんまり我儘言って困らせたりしなかっただろ? こんな時くらいは言うことを聞いてくれよ」

「お坊ちゃんは昔から、たまに非常に頑固におなりになって、そういう時は、私でも先代様でもどうにもならずに、ほとほと困り果てたものですよ。……そんなところ、お坊ちゃんと奥方様は、ご夫婦でそっくりです」

 ようやく顔を上げたアリーダは、怒ったように眉を上げて、両目からぼとぼとと涙を落としていた。

 昨夜のリーフェ嬢の意固地な顔を思い出して、俺は苦笑するしかない。

「それは、悪かった。──じゃあ、行ってくる。見送りはいい」

 軽く手を挙げて、歩き出す。

 アリーダは、もう一度深々と頭を下げた。



          ***



 王城のここに来るようにと指定されたのは、いつもとは別の場所だった。

 俺はまだあまり王城内のことに詳しくないので、そこがどんな目的で使用される部屋なのかよく判らない。もっぱら俺が出入りするのは一階の執務室周辺くらいで、第六将軍の立場では、許可がなければ立ち入れない区域も多いからだ。

 ラドバウト王は先例や慣習に従うことを嫌い、その日その時の自分の気分でころころと決まりなども変えてしまうため、なおさらである。


 とにかく言われたとおりの刻限にその部屋まで赴いたら、扉の前には警護のための兵と一緒に、ヴィム氏の姿までがあって驚いた。


「なぜあなたが、ここに?」

 と訊ねると、ヴィム氏は少し困ったように首を傾げ、笑みを浮かべた。

「僕はアルデルト王太子殿下の近侍ですからね。ここにいるのは、殿下の付き添いです、もちろん」

「王太子殿下もいらっしゃるのですか」

 ますます驚くと、ヴィム氏は口許の笑みをはっきりとした苦笑に変えた。

 俺のほうに顔を寄せ、声音を抑えて囁く。

「──陛下のご命令で、立会人をなさるんですよ」

「立会人?」

 ヴィム氏は肩を竦めた。


「よくそういうことをやらされるんです。一応表向きには、いろいろと直に見て勉強せよ、とのことなんですがね。まあ実際には、そうやってご自分が強権を振るって他人を虐げるところを目の当たりにさせて、歯向かう気を徹底的に失わせようというのが目的なんでしょう。なにしろあの通り、殿下は気の弱いお方ですからねえ。お気の毒に、今もこの中ですっかり怯えて小さくなっていらっしゃいます。──それに、そうやって殿下を近くに置いておけば、あとで誰かに何かを言われても、それはちゃんと第三者立会いのもと行われた公明正大なものだと返せますからね。まったく、悪知恵ばかりは働くのだから困ったものです。誰がどう考えたって、あの殿下がまともに立会人をこなせるわけがないことは、わかりきっているのに」


 呆れるような口調で、王にも王太子にも不敬なことを言っている。俺のほうが慌てて警護の兵のほうを見てしまったが、そちらは我関せずというように知らんぷりだった。

 王や王太子に近い立場にいる人間ほど、こういうことには無頓着なのだろうか。


「ではヴィム殿は、俺がここに来た理由も……」

「もちろん知っています。陛下のイアル嫌いがこういう形で出たのかと、かえって感じ入ってしまいましたよ。あの一族など、もう見る影もないくらいに零落して、どう考えても敵になりようがないのに、一体どんな幻と戦っておられるのやら」


 飄々とした態度ながら、ヴィム氏のその声には腹立たしい調子も混じっていた。

 やはりこの人も、平静ではいられないということなのだろう。当然だ、リーフェ嬢は、彼にとってもかけがえのない大切な妹なのだろうから。


「俺が至らないばかりに、こんなことに……」

 頭を下げようとした俺を、ヴィム氏は手を挙げて遮った。

「決して将軍のせいではありません。運が悪かったとしか言いようがないが、これは僕の責任でもあるし、イアルの血のせいでもある。こうなったからには、僕は僕で最善を尽くします。──それよりも、よろしいですか、ヴェルフ将軍」

 ヴィム氏はさらに音量を抑え、ひそひそ声になった。

「とにかく、この場は穏便に済ませることです。決して、早まったことをなさらないように。ここで陛下を怒らせれば、あなたの身も危うくなる。いいですね?」

 厳しい顔つきで何度も念を押されたが、俺は何をすると思われているのだろう。「もちろん、早まったことなどしません」と答えたら、非常に胡乱な目つきをされた。

「将軍──」

 ヴィム氏はさらに言いかけようとしたが、その時、扉の前に立っていた警備の兵が、つかつかと俺たちのもとへ近寄ってきた。


「ヴェルフ将軍、入室の前に、腰の剣をお預かりいたします」


 ラドバウト王の前に出る時は、帯剣は許されない。俺は大人しく頷いて剣を外し、鞘ごと兵に手渡した。

 自分の剣が兵の手にきっちり収まったことを見届けてから、ヴィム氏のほうを振り向き、両掌を広げてみせる。

「ご覧の通り、俺は丸腰です。空手の将軍に、何かが出来るはずがないでしょう?」

「…………」

 ヴィム氏はまだ少し疑わしそうだったが、それでも俺が素直に武器を手放したことに安堵したのだろう。小さな息をついた。

「それでヴィム殿、メイネス家のほうは」

「ご心配には及びません。文句だけは言っても、陛下に堂々と盾突けるほど気概のある両親ではありませんからね。今頃、イアルの誇りとやらがどれほど役に立たないものなのか、痛感していることでしょう。あの人たちにはいい薬です」

 ふんと鼻息を吐いて腕を組み、突き放すように言う。やっぱりこの兄妹はよく似ている。まるでリーフェ嬢と話をしているようで、俺は目許を緩めた。


 ──この人もまた、イアルの血に抗いながら、生きている。


「それを聞いて、安心しました」

 俺はそう言って、目の前の扉を開けた。



          ***



 その部屋の中央には、長い架台式のテーブルが置かれてあった。

 どうやらここは、側近たちが会議を行う場であるらしい。造りは豪華だし、美しく保たれてはいるが、テーブルと椅子の他に余分なものはほとんどない。壁に一枚絵が飾られて、凝った装飾の棚がある以外には、事務的な印象を受ける素っ気ない部屋だった。

 その長いテーブルの端にラドバウト王が、真ん中にアルデルト王太子が、そして王の反対側の端に、俺が座ることになった。

 メイネス家の日常の食事とはこんな感じだったのだろうか。リーフェ嬢が言っていた通り、遠い。確かにこの距離では、会話をするのも大変そうだ。


「ヴェルフ将軍、ご苦労であった」

 はるか向こうから、王が機嫌良さそうに言った。


 王のすぐ後ろには、ぴったりと護衛がついて、こちらに警戒の目を向けている。王族の護衛ということは第一軍所属なのだろうが、まったく見たことのない顔だった。

 第一と第六とでは交流など皆無なので無理はないのだが、それにしても若い。よほどの高位貴族のご子息なのかな、と俺は内心で首を捻った。

 真ん中の席で、自分の居場所がないように落ち着きなくおどおどと目線を彷徨わせているのは、アルデルト王太子。その後ろにしれっとした顔で控えているのは、護衛ではなくヴィム氏である。王太子は人見知りで他人を怖がるようだから、そのためなのかもしれない。

 そして俺の後ろにも、張りつくようにして兵が立っている。これはもちろん護衛のためなどではない。監視と牽制だ。

 周りの壁際にも数人の兵が立って、じっと俺を注視していた。それぞれが剣の柄に手をかけ、いつでも抜ける体勢をとっている。


 おそらく王は、言うことを聞かせたい相手がいる時は、こうして密室に呼び出し、じりじりと重圧をかけ、怯えるさまを見て楽しんでいるのだろう。

 この重苦しく剣呑な空気、免疫のない貴族連中はひとたまりもなく陥落しそうだ。


「そなたも飲むがよい」

 まだ午前中だというのに、ラドバウト王の前には、真っ赤な葡萄酒の入ったグラスが置かれている。王は美酒美食を好み、そのためにどんどん国庫を減らしているという話は、まんざら大げさなものでもないようだ。

「いえ、私は」

 断ったが、俺の前にもグラスが置かれ、酒が注がれた。

 瓶を持って行き来し、給仕をしているのはヴィム氏である。この場において、彼は下働きのような役目もこなしているらしい。


「遠慮せずともよい。毒など入っておらんぞ? なにしろ余は、自分の目の前で栓を抜いたものしか口をつけんようにしているからな。食い物も、必ず誰かに毒見をさせてから自分の口に入れるのだ。余の命を狙う輩は多いからのう」


 意味ありげに目を細めてから、これみよがしにグラスの酒を一気に煽り、贅肉を揺らして甲高い声で笑う。

「そなたも、そこから下手に動くとどうなるかわからんぞ。行動には、重々気をつけることだ」

 なるほど。この長いテーブルはそのためのものなんだな、と俺は納得した。

 これが最大の障害物となって、王と相手との間を隔てている。王に近寄ろうとするなら、このテーブルを迂回して兵たちの前を通らなければならない。

 いつもの場所では、俺は床に膝をつき、王は玉座に座る。あちらとこちらの間には、何もない空間があるだけだ。今日はあの場では心許ない、と王は判断したのだろう。

 あれだけ多くの警護に囲まれていながら、それでもなお不安なのかと呆れた。


 他人のことを容易に信用できないのは、自分の中に後ろ暗いものがあるからだ。


「──書類をお持ちしましたので、どうぞご確認を」

 グラスには手をつけないまま、俺が無感動に告げると、王は舌打ちした。

「まったくせっかちなやつだ。これだから下賤で無粋な軍人は……まあいい、こちらに持って来い」

 テーブルに出した用紙を、傍らのヴィム氏が軽く一礼して手に取った。

 ざっと一瞥して、俺とリーフェ嬢の署名がちゃんとされているのを確認してから、それを持って王の許へ歩いていく。なにしろテーブルが長いため、いちいち時間がかかるのが、少々まどろっこしい。

 ようやく王のところまで到着し、ヴィム氏がテーブルの上にその紙を広げて置いた。

「……ふん」

 王がそれを眇めるようにして見て、無造作に手を出す。傍らにあったペンを取りインクをつけると、さらさらとサインした。

 これで、離婚成立だ。



 呆気ない。

 もう、リーフェ嬢は俺の妻ではない。

 ……今の彼女は、俺とは無関係の、赤の他人になった。



 ラドバウト王がくっくと笑う。

「さて、これでイアルの女は余のものだ。高貴な血筋の娘は、一体どんな味がするのであろうな、ん? そなたも王家との繋がりが出来て嬉しいだろう。なにしろ少しでものし上がるために、誰もがイヤがるアレの世話係まで名乗り出たくらいだ。まったく、落ちぶれた貴族のさもしいことよ」

「…………」

 にんまりとした笑顔で問われ、ヴィム氏は強張った表情になった。黙って目礼だけをして、またアルデルト王太子のもとへと戻る。

 リーフェ嬢の兄である彼をこの場に同席させているのは、きっとこのためだったのだろう。王は他人をいたぶり、その悲しむところ、苦しむところを自分の目で見るのが、なにより好きなのだ。

 これらのやり取りを理解しているのかしていないのか、王太子は最初からずっとぼんやりとした表情で、視線をふらふらさせている。


「陛下、ひとつ、お願いがございます」


 俺が口を開くと、ヴィム氏がはっとしたようにこちらを見た。俺のすぐ後ろにいる兵も、緊張したように剣の柄を握る手に力を込めるのが判った。

「なんだと? 余に頼みとは生意気な……まあよいわ、申してみよ。妻を差し出した見返りに、何を望むのだ」

 王が鬱陶しそうに顔をしかめた。俺は軽く頭を下げる。


「──この機に、将軍職を返上させていただきたいのですが」


 その申し出に、ラドバウト王は少し驚いたように目を見開いた。

「将軍を辞めると申すか」

「だけでなく、第六軍から籍を抜くこともお許しいただきたく」

 俺がそう言うと、室内の兵たちまでが揃って目を丸くした。ヴィム氏は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 声にならないざわめきが広がる中で、王の哄笑だけが大きく響き渡った。


「なんと……そなた、妻を失って、軍人まで続ける気が失せたということか! なんという不甲斐なさ! 前将軍は、とんだ腑抜けを第六軍の将に据えたものよ!」


 侮蔑の嗤いがいつまでも続く。俺はまったく表情を変えずに、それを聞いていた。

「それでそなた、軍人を辞めてどうするつもりだ? 平民のように畑でも耕すか? 物乞いでもするか? これは傑作だ、妻を取り上げただけでそこまで堕ちるやつははじめてだ!」

「新しい第六将軍には、マース・クレルクを推挙したく──」

「ああ、ああ、誰にでも好きにすればよいわ。どうせ第六将軍なぞ、誰がやっても同じだ。もっとも歴代将軍の中で、そなたほど情けない男はいなかっただろうがな」

 面倒くさそうに片手を振る。

「──では、ご了承くださると」

「好きにせよ。イアルの女も、そなたのような男と縁が切れて、せいせいするであろうよ。閨にて、この時のことを詳しく話してやるわ。レオ・ヴェルフ、そなたは今この時をもって、第六軍から除隊とする。余が許可した。これでいいのであろう?」

 俺は頷いて、息を吐いた。

 言質は取った。ここには王太子というれっきとした立会人がいて、兵たちもいる。あとでちゃんと証言してくれるはずだ。


 レオ・ヴェルフという男は、第六軍とはもう関わりがないと。


「では陛下、改めて申し上げますが」

 その言葉に、王は片眉を上げた。

「なに? そなた図に乗るなよ? 頼みはひとつだけと言ったであろうが。用件は済んだのだから、さっさと退がるがよい。余は忙し──」

「いつまで、イアルの血などという、くだらないものにこだわるつもりです?」


 一瞬、場が凍りついた。


 いかにも馬鹿にしきった顔で歪められていたラドバウト王の唇が、ぴくりと引き攣ったように結ばれる。その表情から笑いが消え失せ、どろりと濁った眼が、怒りを乗せてこちらに向けられた。

「……なんだと?」

 俺はそちらを静かに見返し、淡々と言った。


「イアルの血が一体なんだというんです? そこにはあなたが卑屈になり、恐れるものなど、欠片も存在していない。許せないのは、とうに滅んだ王朝の名ですか。それとも、人々が向ける敬意ですか。しかしそれだって実体のないものだ。ただの影に怯える必要がどこにあるんです? 真に尊いものは、別にある。あなたが今までさんざん馬鹿にし、踏みにじって来たものの中にこそ、貴重なものがあるというのに、なぜそこに気づかないんです? あなたが怖れなければならないのは、あなたの今までの所業によって失われた、価値あるものたちです」



 優しさ、愛情、絆、信頼、そして勇気。

 それこそが人の世において、なにより貴重で、尊く、希少なものだと気づかない王は、いつまで経っても救われることはない。

 憎しみには憎しみが返り、不信は孤立を生み、他人を顧みない欲望はいずれ破滅を導くだけ。

 本当に恐ろしいのは、憎悪の連鎖、永劫の孤独、その先に虚無しかない生だというのに。



「イアルの血だけを求めるあなたに、あの人を渡すことは出来ません。ようやくその呪いから抜け出して、彼女は彼女としてこの世界で懸命に生きようとしている。──俺は、誰にもその邪魔をさせるつもりはない」



 小首を傾げる仕草。柔らかく綻ぶ唇。

 「あのね、レオさま」と言う時の、少し甘えるような声。

 いつでも何か新しいものを見つけ出して輝いていた瞳。

 ……夢も希望も失くしかけていた俺に、明るい光をもたらしてくれた、希なる存在。



「な……な、な、な」

 ラドバウト王は憤怒で顔を真っ赤に染めてぶるぶる震えた。

「そなた──この余に向かって、なんと、なんという……」

 テーブルを挟んだ向こうにいるその人物を見ながら、俺は空気を乱すことなく、するりと椅子から立ち上がった。すかさず兵が一歩詰め寄り、俺のほぼ真後ろに立つ。

「将軍、ご着席を」

 鋭い声で威嚇するように耳打ちされたが、俺はそちらを振り向かなかった。

「俺はもう将軍じゃない」


 もう将軍ではないし、軍人でもない。

 リーフェ嬢とも、第六軍とも、縁を切った。

 ここにいるのは、ただの一人の大罪人だ。

 だから、その立場に縛られている時には言えなかった言葉も、ようやく口に出すことが出来る。

 ずっと長いこと、言ってやりたくてたまらなかった。



「──この下種が」



 その瞬間、ぐっと拳を固めて身を低くし、後ろの兵の腹部に勢いよく肘を喰い込ませた。

 「ぐっ」と呻いて兵が上体を屈ませる。監視対象のすぐ後ろに立つなんて、初歩的な過ちを犯すから、そういうことになる。こいつが部下だったら、どやしつけていたところだ。

 よろめく兵の手が剣の柄から離れた。俺はそちらを見もせずに、素早く背中に右手を廻し、その柄をしっかり握った。

 それと同時に床を蹴って、テーブルの上に飛び乗る。ざりっと剣の刃が鞘から抜ける音がした。自分の武器を奪われても、兵はもうそれを止められない。

 他の兵たちも誰も反応できていなかった。なんのために剣に手をかけていたのか判らない。どいつもこいつも実戦を積んだ経験がないから、こういう時の咄嗟の判断力に欠けるのだ。全員が、俺のスピードについてこられず、茫然としている。

 正面にいる王が驚愕で目と口を大きく開けた。悲鳴を上げようとしたのか、兵たちに命令を出そうとしたのかは定かではないが、その声が出ないうちに俺はテーブルの上をまっすぐ走り出した。


「ヴェルフ将軍っ!」

 ヴィム氏が切羽詰まった声で叫んだ。


 流れる景色の中に、愕然とした表情をしている彼と、動けないのか同じ格好で座ったままの王太子が、ちらりと見えた。周りに立っていた兵も焦った顔でようやく動き出したが、到底間に合わない。攻撃を防ぐための障害物であったテーブルは、今や完全に裏目に出て、最短距離の道となって王へと伸びている。

 その道を一気に駆け抜け、残りの歩数を冷静に計算しながら、手の中の柄をくるりと廻して剣を握り直した。

「ひいいいいっっ!!」

 ラドバウト王が喚き声を上げる。その顔がはじめて恐怖に占められた。

 俺は無表情のまま、剣を振りかぶった。敵を捉えた時の底冷えのする眼に射竦められ、王は動けないでいる。

「──ご覚悟を。俺もあとからすぐにお供します」

 躊躇はしなかった。動揺もなく、冷徹な意思だけがあった。

 そのまままっすぐに白刃を振り下ろし──


 王の首に届く寸前のところで、ぴたりと止まった。


「ひっ……! ひ、う、ぐっ……ぐあっ……」

「──?」

 王の様子がおかしい。

 悲鳴が呻き声に変わり、蒼白だった顔色は土気色になっている。苦しそうに身を捩り、左手が空中の何かを掴もうとして、もがくように動いていた。ショックのあまり心臓発作でも起こしたのかと思ったが、右手が押さえているのは胸ではなく自分の首元だ。

「ぎっ……!」

 最後に一言、何かに潰されるかのような音を出して、ラドバウト王は泡を吹き、白目を剥いた。

 そのまま、どう、とテーブルの上に突っ伏すように倒れ込む。テーブルの上を掻きむしるように手が暴れていたが、それもしばらくしてびくびくと痙攣したかのように震えて、唐突に動きを止めた。

 荷物のように腕がばたんと投げ出されて、それきりぴくりともしない。


 え?


 あまりのことに、俺はテーブルの上で唖然とした。

 戸惑いながら剣を下ろし、身を屈める。

 ──斬った、わけではないよな? 剣の刃は、王の皮膚を掠めもしていない。なのに、どうしてこんなことになっているんだ? いや、結果としては同じことなのかもしれないが、これも俺が弑逆した、ということになるのだろうか。

「へ……陛下?」

 ひょっとして死んだフリでもしてるのか? と訝って、俺は王の身体に自分の手をかけようとした。

 その途端。


「──触るな、ヴェルフ将軍」

 という、凛とした声が響いた。

 思わず指を止めずにはいられないほどの、人を威圧する口調だった。


「まったくヒヤヒヤさせられる。もう少しで、こちらの計画が台無しになるところだったぞ」

「…………」

 聞いたことがない声。

 でも、聞き覚えのある声。

 俺はそちらの方向に、ぎこちなく顔を巡らせた。


 そこには、冴え冴えとした知性の光を瞳にたたえ、ぴんと背筋を伸ばし、正面からこちらを見返すアルデルト王太子の姿があった。





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― 新着の感想 ―
[一言] テーブルに飛び乗るシーンからの動きがとてもかっこよかったです。
[一言] わー、もしかして将軍が死ぬところまでが第一部でリーフェとお子様の王国下克上の第二部が始まったり!?とちょっと思ってたんですが、そうですよね、あの義兄が仕える人が只者なわけないですよね。
[良い点] なんとなーく予想はしていた、期待通りのこの展開。…予想していたはずなのに、こんなにドキドキしてしまうのは何故!! さすが、はなさん。もう、そのひと言しか言えない(笑) あとはハッピーエンド…
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