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「ヴェルフ将軍、今度の演習の計画表をお持ちしましたので、ご確認を」

 と真面目くさった顔で敬礼までして、王城の俺の執務室に入って来たのはマースだった。

「うん、ご苦労」

 こちらも真面目な顔で答える。


 書類を手渡された瞬間、二人して思いきり噴き出した。


「やめろよバカ」

「それはお前だ」

 軽口を叩き合いながら、俺は書類を持ったまま椅子から立ち上がった。執務机を離れ、マースを促してソファへと移動する。

「何か飲むか?」

 マースに訊ねると、「なんだよ、この部屋はお茶を淹れてくれる可愛い女の子もいないのかよ。可哀想に」と嘆かれた。

「そんなもの必要ないからな。ただでさえ第六軍は人手不足なんだから、茶を淹れるだけの暇な人間がいるなら、拠点のほうに廻ってもらう」

「知ってっか、レオ。第一将軍には、副官が二人もついてるって話だぜ。昼食後には、優雅にティータイムを楽しむらしい」

「俺の副官はお前だ、マース」

「勘弁してくれよ」

 マースは顔をしかめたが、表情は笑っている。こんなやり取りはいつもの冗談のうちだ。

 俺も笑いながらマースに茶を出し、それから書類をパラパラとめくりながら目を通していった。

 内容としては、いつもとそう変わりない。確認し、了承した、という一種の形式だ。


「拠点のほうはどうだ?」

「変わりないよ。いつも通り、雑然として、下品で、ちょっと荒っぽくて、気のいいやつらの集まりさ」

 カップに口をつけながら、マースが器用に肩を竦めてみせる。

 俺は拠点にいた頃のその雰囲気を思い出し、しみじみと懐かしくなった。


 気性の荒い連中が多いので、いざこざや問題はしょっちゅう起きていたが、戦いの場であれほど信頼の置ける男たちは他にいない。


「クルトは上手くやってるか?」

 クルトは俺の隊にいた部下で、次の隊長に任命した男である。今ではそこは「ヴェルフ隊」ではなく「ブリンク隊」と呼ばれている。

 マースはカップを口元から離し、少し考えるように目線を斜め上に向けた。

「ああ、まあ……あいつは多少は苦労してるかな。なにしろお前さんが抜けた穴はでかいからな、プレッシャーも並大抵じゃないんだろう。だけどみんな、そうやって迷ったり悩んだりしながらやっていくもんだ。そうだろ? あんまり困ってるようなら、俺も手を貸すさ」

「うん、頼むな」

 そう言ってから、俺は自分が率いていた頃の部下たちの顔ぶれを頭に浮かべた。


 部下というよりは、共に戦う同志であり、仲間だった。毎日毎日顔を合わせて、たまにうんざりするくらいだったが、確かに落ち着く場所でもあった。

 ……今はずいぶん、遠く隔たった感じがする。


 書類に目を落としながら、ぼそりと口を開く。

「──なあ、マース」

「うん?」

「みんな、俺が将軍になったこと、本当のところはどう思っているんだろう」

 今でも拠点に行けば気安く声をかけてくれるし、冗談交じりに「将軍殿」などと持ち上げられたりはするけれど。


 長いこと苦楽を共にしてきた仲間たちを置いて、俺は一人でこの王城に来た。しかも普通、この若さで将軍になることなど考えられない。隊長を数年経験しただけでいきなり将軍になってしまった俺に、彼らがいい感情を持てなくても、無理はない話なのだ。

 上に不信感を抱く集団は指示系統が機能せず、いざという時、あちこちで綻びが生じることになる。

 一枚岩だった第六軍に亀裂が入り、また仲間内に犠牲が出ることになったら、それはすべて俺の責任だ。

 託されたものは、あまりにも重い。


 マースは急に、カップをガチャンと音をさせてソーサーに置いた。

「おい、勘違いすんなよ、レオ」

「何が?」

 問い返した俺に向ける、マースの眼は厳しかった。


「言っておくが、クルトも、お前の隊にいたやつらも、第六軍にいる連中はみんな、お前が将軍になったことに不満なんてない。第六将軍ってのがどれほど危うい立場なのかは知り尽くしてるから、むしろ同情しているくらいだ。前の将軍が辞めさせられた経緯には大いに言いたいことがあるが、それとこれとは別だろう。お前が第六軍の中でずば抜けた実力の持ち主だってことも、俺たちはよく知ってるからな、みんな喜んでお前の指示に従うさ」


 俺は目を瞬いてマースを見返し、それから少し苦笑した。

「……なんだよ、世辞を言うなんてお前らしくない。茶の他にはもう何も出ないぞ」

「バカ、俺がお前に世辞なんて言うか。同じ隊長だった俺だから、お前のことはよく知ってるんじゃねえか」

「俺がなんとか隊を率いていられたのは、前の将軍やマースが助けてくれたからだよ。一度、危ないところをお前に救ってもらっただろ。俺は本当は、あの時死んでいたかもしれないんだ」

「なんだよ、二年前のことか? ありゃお前が、部下たちを先に逃がして、自分一人残って敵を食い止めようなんて阿呆なことをするから……」

 呆れたようにそこまで言って、マースは口を噤んだ。

 ふいに真面目な表情になり、上体を傾けて俺に人差し指を突きつける。



「──心配なことがあるとしたら、お前のそういうところだよ。お前って、普段は温厚でちょっと頼りない感じがするくらいなのに、誰かを庇ったり守ったりしようとする時は、別人のように豹変して、一人で突っ走るところがあるからな。大体、『無謀の第六軍』の将ってのは、なぜか代々、第六軍の中でいちばん無謀な人間が据えられるものなんだ。……おいレオ、くれぐれも言っておくが、これから何かあっても自分一人で引っ被ろうなんてするんじゃねえぞ。もう前将軍の時のようなことは御免だ」



 最後の一言は、苛立ったように付け加えられた。やっぱりマースも、それについてはいろいろと腹に据えかねていたのだろう。

「ああ、判った」

 その気持ちはよく理解できるから、俺は素直に頷いて返事をしたのだが、マースはちょっと疑わしそうな顔で俺をねめつけた。

「約束だぞ」

「なんだよ、女の子みたいなこと言って。うん、約束な」

「いいか、お前ももう奥方を持って、一人の身体じゃないんだから──」

 くどくどと説教をしようとしたらしいマースは、自分で出した「奥方」という言葉で思い出したように、いきなり話の矛先を変えた。にやりとからかうように口の端を上げる。


「そういや、どうなんだよ。新婚生活は」


 そう問われた途端、いつもはあまり仕事をしない俺の表情筋が緩んだ。

「聞きたいか?」

「あ、いや、なんかその顔でもういろいろ察せられたからいいわ」

「よし教えてやる。俺の奥さんは、本当に可愛くて可愛くてな……」

 その後延々と続いた俺の惚気話を、マースは引き攣った表情で聞いた。


 婚姻からはもう二か月くらいが経過したが、俺とリーフェ嬢が実質上の夫婦になってから、まだ十日ほどしか経っていない。俺たちにとっては、今がまさに新婚ほやほやである。

 そりゃもう、毎日が薔薇色に染まるくらい幸せだ。

 以前とはがらりと様変わりして、明るく温かく、笑い声の絶えない屋敷に帰るのが、いつも楽しみでしょうがない。


「今度、贈り物をしようと思うんだが、ちょっと迷っているんだ」

「お前が女性に贈り物をするという時点で、俺はもうびっくりだよ。何にしようか迷ってんのか?」

「ケーキと豚とゼリーと、どれがいいと思う?」

「なんでその三択なんだよ」

「本当に結婚っていいよなあ、マース」

 しみじみと言うと、マースは楽しそうに声を立てて笑った。

「そりゃよかった。なにしろ、結婚の事情があれだったからな、これでも俺は心配していたんだ。今のお前を見て安心したよ」

 笑いの余韻を口元に残したまま、テーブルの上にあった書類を手に取り、とんとんと揃える。そろそろ拠点に戻る刻限、ということだろう。

「なんでも、噂とは全然違って、えらく可愛らしい花嫁だったんだって? まったく、暇を持て余している連中の、いい加減なことといったら──」


 マースが言葉を呑み込んだのは、その瞬間、俺がぴたっと動きも表情も止めたからだ。


「な、なんだよ、どうした、レオ」

「……お前、なんでそれ、知ってるんだ?」

「それって?」

「噂と違うって」

 俺はマースにも、そのことを言っていない。もちろん、まだ屋敷にも招待したわけではないから、リーフェ嬢の実像も見ていない。

 マースは俺の驚愕に訝しげな表情になり、首を傾げた。

「だってお前、この間の王城の舞踏会に、奥方と一緒に出席したんだろ?」

「お前は来ていなかったじゃないか」

「そうだけど、イアルの血筋を引いた娘が実際は大変な美女だったって話は、もうけっこう広まってるぞ。俺の奥さんだって知ってたくらいだ」

「大変な、美女?」

「まあ、元の噂が噂だっただけに、多少誇張されてるのかもしれないとは思ったけど……おい、どうしたレオ、顔色が悪いぞ」

 心配そうなマースの声も、もうろくに俺の耳には入らなかった。


 ……もしかして俺は、貴族社会の噂の伝播力というものを、甘く見すぎていたんじゃないか?

 夜会や舞踏会などで見聞された事柄が、あれこれ上乗せされたり削られたりして、口から口へと伝えられるうちに、もとの形をすっかり失ってしまうというのはよくあることだ。

 リーフェ嬢の場合は、マースの言う通り、以前の噂があった分、今度は逆の方向でいろいろと盛られて語られることは大いにあり得る。

 あれだけ目立たないようにしていたのに。それでもこの短期間で、もうマースの妻の許にまで伝わっているなんて。


 ──だったら、ラドバウト王の耳にも、もうとっくに届いているということではないのか。



          ***



 二日後、俺はその嫌な予感が的中していたことを知った。


「そなたの妻は、案外興味深い人物であったようだの」

 呼び出された俺に、ラドバウト王が最初に放った一言がこれだ。

 片膝をついて、顔を伏せていた俺の全身から、一気に血の気が引いていった。

「私の妻が、何か……」

 喉から絞り出した声は掠れている。

 王は空気を軋ませるような独特の笑い方をした。


「舞踏会での話を聞いたぞ。なんでも、イアルの血族らしく、気位の高い、高慢で鼻持ちならない娘であったということではないか。滅びた王朝の名を、いつまで振りかざすつもりか。まったく、どこまでも生意気な一族だ。余もこの目で見ておくのであったと、残念に思ったぞ」


 見知らぬ女性とやり合った一件が、どういう経路を辿ってか、王の耳に入ったということか。

 ラドバウト王は暴君だが、それに取り入り、自らも甘い汁を吸おうとする奸臣は多い。それらの側近は、少しでも王の興味を引きそうなことを、なんでも耳に吹き込みがちだ。王は自分の欲求を抑えず、望むものには金を惜しまないので、それにより自分に利が廻ってくることも多いからである。


 ──その連中の口から、リーフェ嬢のことはどのように語られたのか。


「陛下をご不快にさせたのであれば、まことに申し訳……」

「のう、第六将軍」

 床につくほど下げた俺の頭の上に、王の声が降ってくる。愉悦を隠さないその笑い含みの声に、額から滲んだ汗が頬を伝って滴り落ちた。

 顔を上げれば、玉座の王はどんな顔をして、こちらを眺めているのだろう。

「やはりそなたに、イアルの血を引く花嫁は、荷が重すぎたであろう」

「……いえ。決して、そのようなことは」

「無理せずともよい。そなたのような平民と変わらぬ下級貴族に、高貴な血筋の令嬢を抱え込むなど、はなから無理な話であったのだ。これは、悪いことをした」

 毛ほども悪いと思っていない口調で言って、可笑しそうに笑う。


「イアルの血など、この世にはもう必要のないものだ。いつまでも未練たらしく残っているから悪い。そうは思わんか? 余が間違っておった。最初から、そなたなどには任せず、余が責任をもって管理すべきであったわ。化け物のような容姿であるなら放っておけと思ったが、そうでなければ話は別だ。花しか食べんといういけすかないイアルの女が、屈辱に顔を歪めるさまを見てみたい」



 笑ってはいるが、その声の中にあるのは、消えた王朝、そしてそこに向ける人々の畏怖と憧憬の念に対する、深い憎悪に他ならなかった。

 権力を独占し、すべてを手にしても、まだこの人物は、止まらない怒りと妬み、枯渇感に突き動かされている。

 ラドバウト王という人間を形づくる、どす黒く歪んだ情念が、磨き抜かれた美しい室内全体を闇色に染め上げていくようだった。



「貧弱な若い娘など普段は食指も動かんが、一度は人の妻になったというなら、多少は使い勝手がよくなっておるだろう。熟れすぎた果実もそろそろ飽きが来たのでな、たまには硬い実を食ってみるのも一興。それでこそ、そなたも今まで可愛がってきた甲斐があったというものだろう? 舞踏会では二人、なかなか睦まじかったと聞いたぞ」


 そうだ、マースが以前、言っていたではないか。

 ラドバウト王は仲の良い夫婦ほど嬉々として壊したがる、と。

 そこに幸福があれば、徹底的に粉砕しなければ気が済まないのだ。それは、この人物にはどうやっても手に入らないものだから。


 ──王は、最も効果的な、「イアルの血」への報復手段を思いついてしまった。


 床についた手が震えた。小さな呻きが口から洩れる。

「畏れながら──」

「第六将軍、これは王命である」

 俺の言葉を無情に断ち切って、ラドバウト王はきっぱりと言った。


「そなたの妻を、余に献上せよ」




          ***



 それからどう屋敷に帰ったのか、覚えていない。

 固く低い声で、俺が王から受けた命令の内容を話すと、リーフェ嬢はみるみる顔から色を失った。

 壁際に控えるようにして立つアリーダとロベルトも、同じく真っ青になった。


「……これに署名をせよとの仰せです」

 ぺらりとした紙を出して、テーブルの上に置く。


 リーフェ嬢は強張った顔で、それを覗き込んだ。

「これは……?」

「離婚の承諾書です。これを提出して、陛下がサインをすれば、その瞬間から俺たちはただの他人同士ということになる」

 風が吹いたら飛ばされそうな、こんな紙きれ一枚で。

 俺たちが築いてきたもの、育ててきたもののすべてが、そこに名前を書くだけで消え失せる。それが現王の作り出したこの国の新しい法律だ。王に無理やりこれを渡された何組の夫婦が、泣く泣く自分の名前を書いたことだろう。


「そんな……」

 リーフェ嬢が言葉に詰まり、口に両手を当てた。大きな目に、涙の粒が溜まっていく。


 俺は目線を下に向けた。

 虫害にやられた畑と家屋に火を点けた時のような無力感が、全身を覆っていく。

 大事なものを、また自分の手で壊すのか。

 この人には、いつでも笑っていて欲しかったのに。


「お、お断りすることは……?」

 震える声で訊ねられ、俺は黙って首を横に振った。


 これまでも、こうして強引に離婚を迫られた夫婦は多かった。

 自分の保身のために喜んで妻を差し出した男はほんの少数で、ほとんどの者は配偶者と別れるのを嫌がった。それでも王命には逆らえず、結局はみんな、諦めるしかなかった。

 そこでどうしてもと頑なに拒絶した夫婦はいない──ことになっている。その後の彼らの姿をもう見ることはなく、消息について誰もが口を噤んでしまうからだ。


 ……要するに、「断る」という選択肢は、はじめから与えられていない。


「俺はこれに署名をして、明日王城に持っていきます」

 用紙を見下ろし、無表情で言うと、リーフェ嬢はくしゃりと顔を歪めた。

 アリーダが我慢できなくなったように、一歩前に足を踏み出し、口を開きかける。

 俺はそちらを見もしないで続けた。

「残された時間は多くない。あなたはすぐに準備してください」

「じゅ……準備、といわれますと」

「荷物をまとめて、出発するんです」

「出発? あの、直ちに王城に行けということですか?」

「は? まさか」

 俺は驚いて顔を上げた。


「──俺の父親がいる領地へ。いつか行こうと言いましたよね? 父宛ての手紙を持たせますから、それを見せれば、あとは何とかしてくれるでしょう。退役したとはいえ、あの父も軍人でしたから、肝は据わっています」


 リーフェ嬢は目を瞠った。

「お義父上さまのところ、ですか?」

「ベリーのジャムを楽しみにしていたでしょう」

「では、王城へは」

「誰がそんなところに」

 吐き捨てるような荒い語調になった。バカバカしい、王にどんな目に遭わされるかも判らないあの魔窟のような場所へ、リーフェ嬢をやれるわけがない。


 彼女は絶対に逃がす。

 その決心は俺の中で揺るぎなかった。


「……レオさまも一緒に領地へ行っていただけるのですよね?」

 リーフェ嬢のその問いに、俺は無言を貫いた。テーブルの上にあった彼女の両手がぐっと拳になって握られ、唇が引き結ばれる。

「レオさま」

「──俺は王城へ行かなければなりません。明日俺が出向かないと、王はすぐにでもこの屋敷に使いを差し向けるでしょう。でも、この用紙を渡して恭順の姿勢を見せれば、迎えは後日ということになる。それだけ時間が稼げますから」

 紙を手に取り、ひらひらと振って見せる。まったく腹立たしいが、この薄っぺらい存在が、リーフェ嬢を助けるための鍵となるかもしれないのだ。

「だって、そんな、それじゃ」

「あなたは急な病で亡くなったことにします」

「そんな嘘が通じるとは思えません」

「心配しないで、なんとかします。あなたは今夜のうちにここを出て、領地を目指してまっすぐ進めばいい。もちろん、アリーダとロベルトを一緒に行かせます。大丈夫、あの二人に任せておけば、ちゃんとやってくれますよ」

「では、レオさまもあとで追いついてくださるのですよね? ね?」

 懇願するように言われ、俺は苦笑した。


「領地までは遠いので、この屋敷にあるだけの金をすべて持っていきなさい。頼りない軍資金だが、ないよりはマシでしょう。……俺にはもう、必要のないものだから」


「レオさま……!」

 リーフェ嬢の悲痛な声に、立っているアリーダが嗚咽を漏らし、ロベルトが顔を伏せて肩を震わせた。

 ……この二人も、彼女と共に無事に逃げおおせてくれるといいのだが。

「そうと決まったら、早く」

 準備を、という言葉までは出せなかった。


「いいえ、ダメです!!」

 リーフェ嬢が毅然として椅子から立ち上がり、大声で叫んだからだ。


「ダメです、そんなの! わたくしはレオさまを犠牲にして逃げるなんて出来ません! いいえ、決してそんなことはいたしません!」

「リーフェ殿……」

「いや、いやです! でしたらわたくし、ここに残ります!」

「……この間、俺は俺の思うように行動すればいい、と言いましたよね?」

「必ず、わたくしはそれについていきます、と申しました」

「俺の決断に従うという意味でしょう?」

「どんな決断をされても、レオさまのそばを離れず、溶けた飴のようにべったりくっついてまいります、という意味ですわ」

「屁理屈だ」

「レオさまの解釈が間違っているのです」


 眉を上げて意固地に言い張るリーフェ嬢は、俺を睨みつけて、一歩も引かなかった。可愛いが、可愛くない。こんなにも手強い相手ははじめてだ。

 つい頭に血が昇りかけて、椅子から浮かしかけていた尻を、再びどすんと勢いよく下ろす。テーブルに肘をついた手で額を押さえ、はあー、と深いため息をついた。

 その手に、リーフェ嬢の手が触れた。


「レオさま、一緒に逃げましょう」

「…………」

「わたくし、レオさまと離れたくありません。王城に行くのも真っ平です。でも、レオさまがすべてを被ってお咎めを受けるのは、もっと嫌です。それくらいなら、陛下のところに……」

「ダメだ!」

 思わず怒鳴ってしまう。リーフェ嬢の身体が、びくっと揺れた。

 もう一度大きな息をついて、今度は掌で顔を覆って唸った。

「……あなたは知らないんです、王に召し上げられた女性たちが、どんなに悲惨な末路を辿ったか」

 廃人同様になって元の夫のもとに返された女性の身体には、見るも無残な痣と、無数の傷跡があったという。どんな惨い仕打ちを受けたのか、想像したくもなかった。

 リーフェ嬢を、俺が愛した人を、そんなことにはさせない。


「でしたらやっぱり、一緒に逃げましょう、レオさま。レオさまと一緒なら、どこでも構いません。わたくしが舞踏会で軽々しくイアルの名を出してしまったのが悪かったのです。あの血は確かに、呪われているんですわ」


 ……いいや、違う。

 俺は歯を喰いしばり、強く目を瞑った。

 事の発端を作り出したのは俺だ。

 あの時、俺が──いいや、そもそもあの舞踏会に、リーフェ嬢を連れて行かなければ。

 こんなことになったのは、俺のせいだ。


「レオさま、どうか、お願いです」


 掌を外し、リーフェ嬢の顔を見る。

 彼女は懸命に哀願するような瞳を俺に向けていた。緊張しきって蒼白になり、強張っていてさえ、愛らしいと思わずにいられない。

 この人と、一緒に年を取っていけたらいいなと思った。

 いつでも隣で笑っていて欲しいと願っていた。

 ──ずっと、守りたいと。



 俺は力を抜いて、ふっと笑みを漏らした。

「……きっと、苦労しますよ」

 呟くようにそう言うと、ぱっと明かりが灯ったかのように、リーフェ嬢の顔が輝いた。

「ええ、構いません!」

「また貧乏生活に逆戻りだ」

「平気です、慣れておりますもの」

「美味しいものも食べられなくなるし」

「まあ、レオさま、わたくし以前にも申し上げたではありませんか」

 リーフェ嬢は朗らかに笑った。


「レオさまがいてくれれば、たとえ固いパンひとつでも、きっと美味しく感じられるって」


「……そうですね」

 俺は切ない気分で目を細めた。彼女の手を取り、ぎゅっと握る。

「一緒に逃げましょう、リーフェ殿。明日、俺が王城から帰ってきたら、この屋敷を出ます。それまで、ここにいてください。みんなで、領地に行きましょう」

 その言葉に、リーフェ嬢は嬉しそうに笑って、何度も頷いた。

 ぽろりと、その目から真珠のような涙がこぼれ落ちる。

「はい……はい! 必ず、必ずですよ、レオさま! ちゃんとご無事で王城からお戻りになってくださいね、わたくし待っていますから!」

「はい、必ず」

「お約束ですよ、レオさま! 本当に!」

 また約束か。マースの顔が頭に浮かぶ。あいつもきっと、怒るだろう。

「リーフェ殿、俺があなたにウソをついたことがありますか?」

 俺はそう言って、微笑んだ。



 ヴィム氏のことをとやかく言えない。

 この時俺は、最愛の妻に対して、最初で最後の、そして最大の嘘をついた。





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― 新着の感想 ―
[一言] 読み返しても、ここのシーンは涙が出ます。不本意な婚姻で出会ったふたりが少しずつ理解してお互いを愛し仲睦まじくなったところで、暴君からの理不尽な要求。レオは明言していなくとも、命を賭して妻を守…
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