6
つかつかと歩いてきたリーフェ嬢は、すぐ傍らにまでやって来ると、女性に掴まれていた俺の左腕に、そっと自分の手を置いた。
「まあレオさま、こんなところにいらっしゃったのですね。わたくし、探してしまいました」
俺に向かって微笑みかけ、柔らかな口調で言ったが、その目線はすぐ前にいる女性を完全に素通りしている。
リーフェ嬢の態度は、「故意に無視している」ことがあからさまで、もちろんそれに気づいた女性は、角度をつけて眉を吊り上げた。
「こちらの方とは今、わたくしがお話をしていたのですけれど? 人の会話にいきなり割り込まれるとは、淑女としてはいかがなものかと思いますわね」
あれを会話というのか、と俺は驚いたが、口を挟む隙もなく、リーフェ嬢が顔を動かして女性のほうに向けた。
あら、こんなところに人が、とでもいうように今さら目を大きく見開くので、女性がますます険悪な表情になる。
リーフェ嬢は、これ以上なく優雅に唇を上げた。
「失礼いたしました。このような場で、人の夫に馴れ馴れしく触れるような『淑女』がいらっしゃるとは、夢にも思いませんでしたので。わたくし、人の多さに少々辟易していたものですから、てっきりそのせいで見えた幻覚だと思いましたわ。現実の女性でしたのね、あら、まあ」
ふふふと可愛らしく笑いながら、痛烈な皮肉を言い放つ。そういえば彼女は可憐な外見に似合わず、けっこう毒舌なところがあるのだった。
あまりにもわざとらしく驚いた顔をするので、俺は噴き出しそうになってしまったが、女性のほうは顔色を変えた。
「な、ま、まあ、あなた、どちらのお嬢さんか存じませんけど、失礼が過ぎるのではございません? わたくしはね……」
自分の胸に手を当てて身を乗り出し、険を含んだ声で言い募ろうとした文句を、リーフェ嬢はぴしゃりとした口調で遮った。
「ええ、どちらのご婦人かは存じませんけれど、失礼なのはあなたのほうですわ。わたくしは正当なるイアル王朝の末裔、そのわたくしの大事な夫を誘惑なさるとはなにごとです。イアルの名にかけて、わたくしはそのような無礼を許すことは出来ません」
背筋をまっすぐ伸ばし、ひややかな視線と共に投げつけられた言葉に、怒りで顔を赤くしていた女性は、今度はさあっと青くなった。
「わ──わたくしは」
反論しようとしたのか口を開きかけたが、すぐに黙ってしまう。
リーフェ嬢の口から出た「イアル」の名に動揺したのは明らかで、その手がようやく俺の腕から離れ、一歩後ずさった。
この女性がどこの家の貴婦人かは知らないが、身に備わった威厳と風格という点において、すでに彼女はリーフェ嬢に負けている。このような場で、実際の立場はともかく、それが双方の上下関係を決定づけてしまうのが、貴族というものだ。
「……し、失礼しますわ」
女性はぷいっと顔を背けると、身体を反転させた。
すたすたと立ち去っていく後ろ姿を見て、俺は深い息をつく。やれやれと思うと同時に、変な騒ぎにならなくてよかったと安堵した。
「リーフェ殿、助かりました。待っている間、なにも──」
ありませんでしたか、と問おうとした言葉が途中で止まった。
くるりとこちらを振り返ったリーフェ嬢の頬っぺたが、見事に真ん丸になっていたからだ。
「ど、どうしました?」
両方の頬が、これでもかと空気を詰め込んだがごとく、ぷっくりと膨れている。リーフェ嬢の流儀に則って言えば、焼き上がったばかりのスフレのようだ。
なんだこれ。指で突っつけば、ぷしゅうと萎むのか。甘いものは苦手だが、これはものすごく旨そうだ。
「どうしたじゃありません!」
そのむくれた顔で、リーフェ嬢がつんけんした声を出した。さっきまでの近寄りがたい雰囲気はすっかり消し飛んで、子供のようにつむじを曲げている。本人は厳しい表情をしているつもりらしいのだが、なにしろ頬がスフレなので台無しだ。鼻を寄せれば甘い匂いがするのではないか、と錯覚しそうになった。
リーフェ嬢はきっと眦に力を入れて、俺を睨みつけた。
「レオさま!」
「あ、はい、すみません」
「まだ何も申しておりません!」
「だって怒ってますよね?」
「怒ってなどおりません! これっぽっちも!」
そうかなあ。
俺は確かに女性の微妙な気分の変化には鈍感なほうだが、こんなにも判りやすい拗ね方をする人、はじめて見る、というくらいだ。
「わたくし、レオさまのお言いつけ通り、あちらで大人しく待っておりました」
「遅くなって申し訳ない。美味しいものはありましたか」
「どこを探しても豚は……いえ、そんなことはどうでもよろしいのです! そうやってわたくしはお利口に待っているつもりでしたのに、レオさまったら、こんなところで他の女性とベタベタなさって!」
どうやら俺は、とんでもない誤解を受けているらしい。
「ベタベタって……どこをどうすればそんな風に見えましたか。俺は必死に逃げようとしていましたよ」
「ウソです。だってあの方の手を離そうともなさってませんでしたもの」
「ですからそれは……」
「差し出された杯は、どんな味でも飲み干すのが男の礼儀というものだと、兄だって言っておりました」
「いい加減、兄上に言われたことを鵜呑みにするの、やめませんか」
「……あれくらいの大きさが、レオさまのお好みということですか」
途端に声に勢いがなくなって、ん? と思う。
頬はまだ膨れたままだが、唇が大きく曲げられて、まるで泣き出す寸前の子供のような顔になった。
「大きさ?」
「でしたらわたくし、どれだけ頑張って食べても、まだあと二、三年くらいかかりそうです」
「…………」
ここでようやく、リーフェ嬢が言わんとしていることが理解できた。
そういえば、さっきの女性は、胸元からやけに深い谷間を強調させていたっけ……
「あのね、リーフェ殿」
いつの間にか、俺もリーフェ嬢の口癖が移っている。こりこりと指で顎の先を掻いて、困った顔で首を傾げた。
「俺は本当に、その点についてはこだわりはないんです。むしろ、さっきの女性のようなタイプは、昔から大の苦手です」
「…………」
俺の言葉はあまり信用されなかったようで、リーフェ嬢は口を閉ざしたまま、視線を下に向けてしまった。俺はますます困って、上体を屈めて、その顔を覗き込む。
こういう時、気の利いた台詞がすらすらと出せないから、俺はいつもアリーダに嘆かれているのだ。
「不安にさせてしまったなら、すみません。俺もあなたと離れて一人で心細かったので、助けに来てくれた時は、とても嬉しかったです。ありがとう」
結局、色気もロマンもない、謝罪と感謝の言葉になってしまったが、リーフェ嬢はそろそろと目を上げて、俺をじっと見つめた。
「──わたくし、レオさまのお役に立ちまして?」
ぽつりと、小さな声で言う。
「それはもう。以前、戦場でヘマをして敵陣近くに一人で取り残されたことがあるんですが、もうダメかなと思ったところで、マースが自分の隊を引き連れて救出に来てくれたことがあるんです。その時と同じくらい、頼もしく見えました」
マースあたりがこれを聞いたら、お前女性相手になに言ってんだ、と天を仰いだことだろう。
しかし幸いにして、リーフェ嬢は噴き出してくれた。
「もう、レオさまったら」
「本当ですよ」
どうやら機嫌を直してもらえたようで、ホッとする。
ちらっと広間の正面奥を一瞥すると、壇上の椅子に、ラドバウト王の姿はなかった。短気で飽きっぽい王のことだから、同じ場所にずっと座っているのが耐えられないのだろう。自分の妾達を引き連れて、どこかに行ったのかもしれない。
俺は笑みを浮かべて、改めてリーフェ嬢に向かって手を差し伸べた。
「遅くなってしまいましたが、俺と一曲踊っていただけますか」
喜んで、とリーフェ嬢がにっこりした。
***
「さっきのリーフェ嬢は堂々として格好良かったですね」
ゆったりとステップを踏みながら、女性をやり込めた時のリーフェ嬢を思い出してそう言うと、目の前の彼女はなんだか微妙にイヤそうな顔になった。
「母の真似をしてみたのですが、我ながらよく似ていて、ちょっと怖くなってしまいました」
ぶるっと身震いをする。
「ははあ。母上は、ああいう感じの……」
「はい、ああいう感じです。レオさま、わたくし、年を取って母そっくりになってしまったら、どうしましょう。今から不安でたまらないのですけど」
リーフェ嬢は眉を下げて本当に心配そうに言ったが、年齢を重ねたからといって、誰に対しても居丈高に振る舞う彼女の姿が、俺にはまったく想像できなかった。
大体、イアルの名云々と言っていた先程のリーフェ嬢も、普段の彼女を知っている俺からすると、非常に大げさで芝居がかっていて、笑いをこらえるのが大変だったくらいだ。
「リーフェ殿は年を取っても、きっと可愛いままですよ」
思ったままをするりと口にすると、リーフェ嬢は赤くなった。
「でも、わたくしだって将来きっと、皺が出来て、髪が白くなったりしますわ」
「楽しみですね」
「そうなっても、レオさまは嫌いにならないでくれますか?」
「もちろん」
「わたくしも、レオさまの頭が薄くなっても、お腹が出てきても、嫌いになったりいたしません」
「その姿を具体的に想像しなくていいですからね?……なるべく、そうならないように努力します」
真面目な顔をして約束すると、リーフェ嬢が楽しそうに笑った。
すぐ近くにある顔が無防備に笑み崩れるさまが愛しい。こぼれる吐息に眩暈がしそうだ。
彼女はきっと、気づいていないだろう。まっすぐぶつけられた可愛いヤキモチが、どれほど俺の心を浮かれさせているかなんて。
この時点ではっきりと自覚した。
俺はもう、いろいろと限界だ。
「……本当に、そうなったら、よろしいですね」
その時、リーフェ嬢が、小さな声で呟くように言った。
よく聞こえなくて、え? と耳を寄せる。
その俺に口を近づけ、彼女はさらに囁くような声を出した。くすぐったい。
「本当に、ずっと先の未来でも、レオさまの隣にいるのがわたくしであればいいと思います」
その言葉に、その声に、そして、その恥じらうような表情に、熱を伴った衝動が胸の内を駆け上がった。
周囲にはたくさんの人々がいるはずなのに、それらの姿の一切が視界から消えた。喧騒が遠ざかる。
リーフェ嬢の瞳の輝きが、俺を惹きつけて離さない。この瞬間、彼女こそが俺の世界のすべてであり、唯一だった。
「こうして、手を取り合い、身と心を寄せ合って、時に相手を助け、支えて、過ごしていければいいですね。……わたくし、これからもレオさまと一緒に年を取っていきたいです」
そう言って、リーフェ嬢が微笑む。そこでようやく、周囲のざわめきが耳に入ってくるようになった。
「──俺もです」
止めていた息と一緒に、なんとか言葉を落とす。
夫婦になるというのは、きっとそういうことなんだと、噛みしめるように思った。
一曲踊り終わったところで、俺はリーフェ嬢を連れて屋敷に帰ることにした。
舞踏会はまだしばらく続くのだろうが、ここは所詮、虚飾に満ちた上辺だけが華やかな場所である。根っからの軍人の俺とは相容れない。
帰る前にヴィム氏に挨拶をしようと思ったのだが、どう探しても彼を見つけ出すことは出来なかった。アルデルト王太子のそばに侍っているのだろうから、ひょっとしたらまた王城の外まで散歩に出てしまったのかもしれない。
美しい月夜の下、ふわふわと雲を踏むようにして歩く王太子と、その手を引く儚げな容姿のヴィム氏の姿を思い浮かべ、なんとなく不思議な気分になる。
あれも変わった主従だが、二人ともどこか憎めないので、俺は他の人間のように彼らに対して苦々しい思いを抱くことは出来そうになかった。
「残念ですね。リーフェ殿も兄上にお会いしたかったでしょう?」
と訊ねると、リーフェ嬢はちょっと眉を寄せた。
「そうですね。会ったら、一言物申してやろうとは、思っておりました」
「何をです?」
「あのね、レオさま。わたくし、今になって気づいたのですけど」
「はい」
「……兄は、ウソつきです」
ケーキや豚やゼリーに壮大な夢を描いていたらしいリーフェ嬢は、この世界に妖精はいないと知った子供のように、ちょっぴり悲しげな顔をして言った。
***
「お疲れだと思いますが、ちょっと俺の話を聞いてもらっていいですか」
その夜、寝室に入ると同時にそう切り出した俺に、リーフェ嬢はさっと緊張した表情になった。
その言葉を出した時の俺が、固い空気を出していたからだろう。駄目だなと苦笑して、出来るだけ優しく彼女の手を取り、ソファに座らせた。俺もその隣に腰掛ける。
「──えーと」
額に指を当て、どこから話したものかと考えた。
いざこうして改まると、なかなか言葉が出てこない。それはきっと、自分の中に、「話しづらいこと」という意識が拭い難くあるからなのだろう。大事に囲われて育ってきたリーフェ嬢のような人は、これを聞いてどんな反応を示すのか、という不安ももちろんある。
だからこそ、今までずるずると先延ばしにしてきてしまった。
……しかし、これをちゃんと言っておかなければ、先には進めない。
「リーフェ殿がどこまでご存じなのか判らないんですが、この国の要の軍は、大きく言うと、六つに分かれていましてね」
思いがけない冒頭だったのか、リーフェ嬢はきょとんとした。そりゃ、夜の寝室でいきなりこんな話をされたら、誰だって驚くに決まっている。
「有名なのはやっぱり、第一軍ですかね。そこに在籍している軍人はうんと上のほうの高位の貴族ばかりで、第一将軍は、代々同じ家柄から輩出されています。第一将軍家、と言われて尊ばれるくらいでね。第一軍は王族の護衛を任されるほど、この国では重んじられているんです」
リーフェ嬢は黙って頷いた。それくらいは彼女も知っているのだろう。
「六つの軍には、それぞれ別名がありまして、『格式の第一軍』『知略の第二軍』『英明の第三軍』などと呼ばれます」
「第六軍は、なんと呼ばれていらっしゃるのでしょう」
訊ねられて、俺はちょっと笑った。
「──『無謀の第六軍』、と」
リーフェ嬢が目を丸くする。
「一軍は五つの隊で構成されています。第六軍では、そのうちの二隊が下級貴族のみで成り立っていて、あとの三隊は、貴族と平民の混合、あるいは平民ばかりの軍人が在籍しているんです。……だから第六軍は、『ならず者の集団』なんて呼ばれて、他の五軍から見下されている」
俺にとっては、貴族だろうが平民だろうが、苦労を共にしてきた大事な仲間であり、部下たちだ。しかし貴族社会の中では、平民の混じる軍はそれだけで異端とみなされる。
「だからこそ、第六軍は、いつも捨て駒のような扱いをされるんです。戦端を開く時はその切り込み部隊を、撤退する時は必ず他の軍のしんがりにつく。毎回、最も危険な任務が廻ってくるから、犠牲も多い。それが役割だから、無謀にならざるを得ないんです。だから第六軍はいつも人数ぎりぎりでね、足りなくなったら傭兵を入れることもあって、それでなおさら他軍から軽蔑される」
あいつらには軍人としての誇りがない、などと罵られ、笑われて。
俺のほうこそ、声を大にして問いただしたい。
軍人の誇りって、なんだ?
「俺は第六軍に愛着がありますし、どの軍よりも強く、実力があり、結束が固いとも自負しています。だからそんなことで笑われたり馬鹿にされたりするのは別に構わない。ただ──」
そこで俺は一旦言葉を切った。
リーフェ嬢のほうに目をやって、彼女が両手をぎゅっと組み、真剣な表情をしているのを見て、少し笑みを漏らす。
「リーフェ殿は、一年ほど前、ある地域で大規模な虫の害が発生したのを知っていますか?」
「虫の害、ですか?」
「そうです。大量の害虫が飛来して、せっかく実っていた小麦のほとんどを食い荒らし、畑を全滅の状態にまでに追いやってしまったんです」
その村は、ほぼ小麦の収穫で生計を立てていたようなところだったから、経済的に大打撃を受け、税金も払えなくなってしまった。
ただでさえラドバウト王の政策により、税率は重く、過酷になっている。自分たちの日々の糧にも困るような村人たちに、税金までが納められるはずがない。
住人たちは、こういう事情だから今年だけは税を免除してほしいと嘆願した。しかしそれは通らなかった。要望を突っ撥ねられた住人たちは困り果てたが、それでも、ないものはないと言うしかない。当然だ。
役人は、わずかにあった金や家財道具を税の代わりに徴収しようとした。それを持っていかれては、住人たちはもう死ぬしかない。だから反抗したし、抵抗した。
──そして、その結果。
「……陛下は、軍に命令を出しました。それは王に対する反乱である、よってその地域一帯を焼き払ってしまうように、と」
リーフェ嬢が息を呑む。俺はその時のことを思い出して、目を伏せた。
「その役目は当然のように第六軍に廻ってきました。当時の第六将軍は貴族でしたが、平民だからといって差別するような人じゃありませんでしたからね。その王命には相当、煩悶して苦しんでいたようです」
俺の上官だったその人は、怒ると怖いが、大らかで部下思いの、真っ当な人だった。畑も、家屋も、住人までもすべて消し去って、他に税を払うのを渋る人間たちの見せしめにしようというラドバウト王の無慈悲な考えには、到底同意できなかっただろう。
しかし、どんなに理不尽な命令だろうと、従わなければならないのが軍人というものだ。
「結局、前将軍は、虫の被害に遭った畑と家屋を焼くように、俺の隊とマースの隊に命じました。住人たちには秘密裏に話を通し、荷物を持たせて事前にそこから逃がした上で。……彼らは今頃、どうしているでしょうね。他に落ち着き先を見つけられればよかったんですが」
肩を落とす夫婦、慣れ親しんだ土地を離れることを嫌がって泣く子供の姿を、今でもありありと思い出せる。
彼らの居場所だったところを呑み込んでいく炎を見ながら、俺は一体何をしているんだろう、とぼんやり思った。
軍人になったのは、この国と民を守るためではなかったのか。
王には命令通りに実行したと報告したが、しばらくして、住人が生き残ったことが知られ、その責を負う形で、前将軍は辞職させられた。首を落とされなかっただけ幸運だった、と本人は笑っていたが。
こういう軍だから、なにもかも王におもねるような人間が来たら困る。彼はそう言って、お前が次の将軍になってくれ、と頭を下げた。
そして俺はその頼みを、断れなかった。
「第六将軍というのはね、そういう立場なんです。栄誉や名声はすべて掠め取られ、他軍が嫌がる仕事をさせられて、王の無茶な命令を聞き、それを上手くこなせなかったら、簡単に首をすげ変えられる。どこからも反対意見なんて出ない。平民の混じる第六軍を自分らと同じ軍人だとも思っていないから、他の五軍の将も知らんぷりだ。戦いの場と同じように、あっという間に見捨てられる。俺だって、いつなんどき、前将軍と同じ道を辿るか判らないんです。……それくらい、軽い」
俺もいつか、王命と自分の信念とを秤にかけて、どちらかを選ばなければならない時が来るだろう。
その時、どちらを取るかは、自分でもまったく判らない。
俺はリーフェ嬢のほうに顔を向けた。
「……リーフェ殿は、それでいいでしょうか。俺はいつ将軍の地位を失うか判らない、不安定な立場です。場合によっては、汚いこともする。下級貴族でも、あなたがここに嫁いできたのは、一応とはいえ、俺に『将軍』という名がついていたからだったのに──」
最後まで言う前に、リーフェ嬢の両手が伸びてきて、俺の手をぎゅっと包むように握った。
「はい、もちろんです」
大真面目な顔つきで、彼女はきっぱり言った。
「……そういうことは、もう少しよく考えて言ったほうがいいですよ」
「考えた上で、お返事しております。もちろんです。レオさまは、ご自分の思うように行動されればよろしいのです。どんな決断をされようと、わたくし、必ずついてまいります。レオさまは、ご自分の誇りを持っておられる方ですもの。それを捨てるようなことはされないと信じております」
「──誇りなんて、俺は」
持っていない、と言いかけるのを遮るように、リーフェ嬢は首を横に振った。
「いいえ、レオさまのそれは、イアルの血なんかよりも、ちゃんと実体のあるものです。レオさまたちが火を点けなければ、その村の方たちは全員捕まって殺されていたのでしょう? 第六軍のみなさんがこれからもっと捨て駒のような扱いをされないために、レオさまは将軍になって自ら防波堤の役目をしようとお考えになられたのでは? レオさまはそうやって、ご自分にとっての大事なものを、立派に守っておられるではありませんか」
俺は口を閉じ、自分の手を覆う小さくて細い手を見つめた。
「……畑や家を焼く時、おつらかったでしょうね。これから、レオさまがまたそういう苦しい思いをされた時、わたくしはほんの少しでも、その苦しみを分けていただきたいと思います」
彼女の声を耳に入れながら、静かに目を閉じ、息を吐き出す。
イアルの血なんてどうでもいい。
この人と出会えたこと自体が、まさに、俺にとっての奇跡だった。
「──リーフェ殿は、軍人にいちばん必要なものは何か、知っていますか?」
唐突なその問いに、リーフェ嬢はぱちぱちと目を瞬いた。
「え? えっと……武勇、ですか? それとも、戦う力でしょうか」
「いや」
彼女の手を握り返し、顔を寄せる。
「帰る場所、です。戦いの場にあって、なにより強さを発揮するのは、絶対にあそこに帰るんだという強い意思を持った人間ですからね。……あなたは、俺の『帰る場所』になってくれますか?」
「帰る場所……」
復唱するように繰り返すリーフェ嬢は、よく判っていないらしかった。鈍いのか。それとも俺の言い方に問題があるのか。どちらかというと、後者のほうの可能性が高い。
俺はごほんと咳払いをした。耳が熱い。
「判っておられないようだから言いますが、これは軍人流の求婚の言葉です」
「きゅ……求婚?」
「俺がどうして、ここでこんな話をしているか、そろそろ気づいてほしいんですけど。あと二、三年はとても待てそうにないんです」
「…………」
リーフェ嬢はまじまじと俺を見て、それから何かに気づいたように、ぱっと頬を染めた。
赤い顔のまま、初夜の時の威勢のよさとは打って変わって、「あの……はい」と、消え入りそうな声で言って頷く。
その瞬間、自分の中の制御の箍が外れた。
彼女の唇を塞ぐようにして、強く重ね合わせる。
その夜、俺たちははじめて結ばれた。