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それから毎晩、夕食後にダンスの特訓をするのが日課になった。
練習は居間の中でするので、俺があちこちぶつからないように、アリーダがソファやテーブルを隅に寄せてくれた。今のところリーフェ嬢を壊さないように全神経を集中させている俺は、家具に傷をつけたり破壊したりするところまでは気が廻らない。
正直あまり上達した気はしないが、リーフェ嬢が褒めたり励ましてくれるから、なんとかやる気を維持できている。軍の特訓のほうがよほど楽だった、とたまに音を上げそうになるが、不思議と苦痛だと感じたことは一度もない。
リーフェ嬢は優しくも厳しい教師で、これもまた、楽しい時間には違いなかった。
しかしリーフェ嬢は見事なダンスの腕前を持っているにも関わらず、今まで夜会や舞踏会などには出たことがないという。
ちょうどその優雅な動きに感心しているところだったから、つい、どうしてです? と驚いて聞いてしまったのだが、
「あの……そのような華やかな場に着ていくドレスがごさいませんでしたので」
と恥ずかしそうに俯きながら答えられて、自分の迂闊さを後悔した。
普段の洋服も古いものを着ていたのだから、それくらいは当然気づいて然るべきだったのに。
ほんの少し気まずい空気が流れたのを振り払うように、リーフェ嬢が顔を上げ、にこっと笑った。
「…………」
踊りながら口を動かすことはなんとか慣れても、この至近距離で彼女の笑顔を見ることには、俺はまだ少し慣れていない。せっかく調子よくいっているステップが乱れそうになる。少年のようにうろたえる気持ちを、顔には出さないようにするのでやっとだ。
「でも兄は、父の衣装を手直ししたり、知人に借りたりして、何度かそういった催しに出ておりましたのよ。そのたび、こんな料理が出て美味しかった、などと自慢げに報告するものですから、腹立たしくてたまりませんでした。それだったら、家で待っている妹のために、残り物をいくらか箱に詰めて持ち帰ってくれればいいのに、兄はまったく気が利かないのです。わたくし、いつも兄の話を聞いて、あれこれ空想しておりましたわ。レオさま、夜会では毎回、天井にまで届きそうなほどの高いケーキが出てくる、というのは本当ですの? まるまると太った豚がそのまま焼かれて中央のテーブルに据えられる、というのは? ぷるぷるした真っ赤なゼリーが、人が泳げそうなくらい大きな器になみなみと入っている、というのは?」
ウソです。
という返事を、俺は外には出さずに呑み込んだ。こちらに向けられるリーフェ嬢の目が、キラキラと期待に満ちたものだったからだ。
今まで大事に育んできたらしい彼女の夢を、一瞬でぶち壊すのはしのびない。
兄よ……
「では、今まで社交の場には出られたことがなかったんですか」
「はい」
「一度も?」
「はい」
なるほど、それで──と、俺は納得した。
イアルの血を引くメイネス家の娘は化け物のような容姿で会話もままならない、というあの根も葉もない噂は一体どこから出てきたのかと不思議だったのだが、「一度も社交の場に出てこない変わり者」というところから、だんだん捻じ曲げられていった結果だと思えば腑に落ちる。貴族社会というのは、面白おかしく尾ひれのついた噂が、真実として広まってしまうことが、ままあるものだ。
兄のほうは、その噂を知らなかったのだろうか。あるいは、知っていても黙っていたのか。
「イアル」の名を望む高位貴族の誰かに求められるよりは──と言っていたっけ。
「……もしもリーフェ殿が社交の場に出られていたら、きっと引く手あまただったでしょうね」
握った手に少しだけ力を込め、俺が微笑んでそう言うと、リーフェ嬢は目を瞬いてこちらを見返した。
「イアルの血筋に憧れる貴族は多いですから。あなたがこんなにも可憐な乙女だと判れば、結婚の申し出は後を絶たなかったはずです。そうすれば、ご両親も喜ぶような立派な家柄の夫が持てて、社交界でも評判になったでしょうにね」
──そうすれば、こんな身分の低い、ほとんど地位も権力もないに等しい、名ばかりの将軍に嫁いでくることもなかった。
今度の舞踏会のために注文したドレスよりも、もっと豪華でもっと美しいドレスを贈ってもらえた。そればかりでなく、煌びやかな宝石がついた耳飾りも首飾りも。
「俺がたまたま将軍になんてなってしまったばかりに、あなたが花嫁として選ばれてしまった。申し訳ない」
わずかに苦笑する。
「…………」
リーフェ嬢は黙ったまま俺を見てから、つと目線を下に向けた。
そしてまた、顔をこちらに向けた。
吸い込まれそうな金色の瞳が、まっすぐ俺を見据えている。
「──あのね、レオさま」
「はい」
「わたくし、小さい頃から、イアルの名に恥じないようにと、あれこれ教養を叩き込まれてまいりました。ダンスもそのひとつです」
「ええ」
「何曲も何曲も、完璧に身体が覚えてしまうまで、踊らされました。……バカバカしいと思われませんか。そこまで必死になって練習したって、公の場でお披露目なんてする機会は一度もありませんでしたのに。イアルの女としての名に相応しいものであれと──でも、両親の言う『誇り』は、わたくしには何ももたらしませんでした。喜びも、幸福も。わたくしはよく、自分が人形になったような気がしたものです。イアルの血が流れているだけの、父と母の願いばかりが詰め込まれた、空っぽの容れ物に」
ふいに、リーフェ嬢の足が止まる。俺も動きを止めた。
互いの息遣いが聞こえそうなほどの近距離で、見つめ合う。
こちらを向く彼女は、一途に何かを訴えるように真面目な表情をしていた。
「ですけれど、こうしてレオさまにお教えすることになって、ダンスを習っていてよかった、と思ったのです。わたくしのしていたことも、すべてが無駄だったわけではなかったのだと。この身に流れている忌々しいイアルの血だけではなく、わたくしにも出来ることがあった──少しでも、レオさまのお役に立つようなことが出来たのだと。……これまでの自分自身に、まったく意味がなかったわけではないことを知って、わたくしはとても安心したのです」
──ようやく、イアルの血の呪縛から逃れられた。
リーフェ嬢は静かな口調でそう言ってから、目許を緩め、ふわりと唇を綻ばせた。
「それに、レオさまにも苦手なものがあるのだということも判って、とても安心いたしました。レオさまはいつも大人で落ち着いていらっしゃって、わたくしちょっと心配だったのです。レオさまはわたくしのことを、幼い子供のようにお思いになっているのではないかと」
「いや、そんな」
俺は慌てて手を振った。
大人で落ち着いている、という評価にも困惑したが、俺がリーフェ嬢を子供扱いしている、などと思われていたことには、もっと困惑した。
……子供だと思っていたら、こんな風にいちいち胸を高鳴らせたりはしない。
「わたくし、レオさまとお会いできて、幸せです。レオさまの妻として、この家に来られたことも、幸せです。レオさまは、わたくしをただの血の容れ物として見たりすることはないんですもの。アリーダもロベルトも、ちゃんとわたくしを一人の人として扱ってくれます。舞踏会は別にどうでもよろしいのですけど、レオさまと一緒にお出かけできるのは、とても嬉しいです。わたくし、毎日がほんとうに、楽しくて楽しくてたまらないのです。……ですからどうか、申し訳ないなんて仰らないで」
ふふ、と笑いながら、照れ隠しのように、リーフェ嬢がスカートの裾を摘まみ、くるりとターンする。
少しだけよろけた身体を、手を出して支えた。反対側の手を、健康的な淡い薔薇色に染まった頬に、添えるようにして当てる。
「……だったら、」
上を向かせた顔に自分のそれを寄せて、囁いた。
「これから、何度でも二人で出かけましょう。俺たちにはまだ、いくらでも時間がある。休みが取れたら、領地の父親に会いに行くのもいいですね。遠いし、田舎だけど、すごく景色の綺麗な、空気の美味しいところなんですよ。一緒に行ってくれますか?──俺の妻として」
リーフェ嬢が嬉しそうに笑って、「はい!」と元気に頷く。
俺も微笑んだ。
「領地では、甘酸っぱいベリーのジャムが名産で」
「楽しみですね!」
声を弾ませるリーフェ嬢の笑顔と目の輝きは、どう見ても今までより割り増しされている。
俺は笑って、その愛らしくも小憎らしい唇に、そっと口づけた。
この人と共に時間を過ごしていけるのは、きっと俺にとっても、なによりの幸いだった。
***
王城で開かれるだけあって、非常に盛大な舞踏会だった。
俺もこれまで、友人に付き合わされてこういったものにイヤイヤ参加したことがあるが、それらとは比較にならないくらい規模が大きい。
たくさんの蝋燭がずらりと並んで輪を描く、天井の大きなシャンデリアの輝きに、着飾ったご婦人方の装飾品が反射して、目が眩みそうだ。
白亜の広間には、すでに百単位の人々が集まっていた。老若男女が入り混じって談笑し、楽しげにざわめいている。そこでどんな駆け引きが交わされているとしても、離れて見る限りは、優美で華やかでおっとりとした、貴族社会らしい光景だった。
「まあ……こんなにもたくさんの人」
隣のリーフェ嬢が息を呑む。
俺の腕にかけている手は、少し震えているようだった。当然だろう。高貴な血筋とはいえ、彼女にとってははじめて見る世界だ。
俺はその手を上からぽんぽんと軽く叩いた。
「はぐれるといけないから、俺から離れないようにしてくださいね」
「はい」
「一人でふらふらしたり、お菓子をあげると言われても、知らない人についていっちゃいけませんよ」
「もう、やっぱりわたくしを子供扱いなさって!」
リーフェ嬢はむくれたように頬を膨らませた。何を言っているのだ。子供ではないから、俺は心配しているのである。
淡いクリーム色のシフォンのドレスを着た今日のリーフェ嬢は、華美ではないが、いつもよりもさらに魅力的に見えた。
艶のある髪を美しく結い上げ、アリーダに丁寧に化粧を施された顔立ちは、若木のような瑞々しさに溢れ、上品さと、清浄さを備えている。
繊細でしなやかな身体も、生き生きとした光を帯びた瞳も、彼女のなにもかもに目を奪われそうだった。
……だからこそ、俺の不安も強まる。
「せっかくはじめての舞踏会で、あなたには申し訳ないのですが、俺はなるべくこの場では目立ちたくないんです」
ここにやって来ただけで、半分以上義務は果たした。あとは一曲踊れば任務完了だ。第一から第五までの将軍たちに挨拶を済ませたら、出来るだけ早く屋敷に帰りたい。
いろいろと楽しみたいだろうに、リーフェ嬢は特に不満そうな様子は見せず、俺を見上げて頷いた。
「わかりました。でも、こんなに人がたくさんいるのですから、逆に目立つほうが大変なのでは?」
「リーフェ殿はそこに立っているだけで、会場中の注目を集めてしまいますよ」
「まあ、楽しいご冗談を仰って」
ふふふと笑ってヴィム氏と同じことを言われたが、俺は心底、本気である。
「いいですか、とにかく……」
言いかけたところで、「ラドバウト国王陛下のおなり!」という高らかな号令がかかった。
思わず舌打ちして、自分の手の下にある細い手をぎゅっと握る。
彼女を連れてさりげなく後ずさり、なるべく他人の陰に隠れる位置に移動した。
「リーフェ殿、王が前を通る時は、なるべく下を向いていらっしゃい。決してあの方にあなたの顔を見せてはいけませんよ」
「はい、心得ております」
どうやらリーフェ嬢は、俺の言葉を、「国王の前では許しがあるまで頭を上げるべからず」という礼儀の一環だと考えているらしかった。慎ましい仕種で、身を低くして、頭を垂れる。
もちろん俺はそんな意味で言ったわけではないが、彼女の顔が隠れたのを確認してから、自分も礼を取って頭を下げた。
この舞踏会で、国王に一人ずつ挨拶を、などという儀式がなくて幸運だ。
昔はそういうことがあったらしいが、自分の時間を取られることを嫌うラドバウト王自らが、「面倒だ」とそれを廃止してしまったのである。君主として褒められたことではないが、誰もその決定に異を唱える者はいなかったそうだ。
それはそうだろう。
……誰だって、挨拶の際に自分のパートナーを王に気に入られてしまう、なんて危険を冒したくはない。
他人の恋人だろうが身内だろうが妻だろうが、ラドバウト王は自分が目をつけた女性に手を伸ばすことを躊躇しない。一部、野心があって媚びを売りたいのは別として、王の前では大抵の女性は面を伏せる。
ラドバウト王は、二十代半ばから四十代くらいまでの美しく妖艶な、言ってはなんだが肉感的な女性が好みとされているので、そういう意味ではリーフェ嬢は対象外だ。
しかし、慎重に行動するに越したことはない、と俺は思っている。
どんなきっかけであの王が興味を抱くか、判ったものではないのだから。
ラドバウト王が広間をまっすぐ突っ切り、壇上の椅子にどっかりと腰を下ろした。
怠惰そうに片手を挙げると同時に、楽団がゆるやかに音楽を奏ではじめる。これより舞踏会の開始、ということのようだ。もったいぶった挨拶も、招待客に対する礼も述べないとは、いかにも傲慢で短気な王らしいやり方だ。
音楽に合わせて、男女がそれぞれの手を取り、ダンスを踊り出した。
広間の真ん中に進む組ほど、自信がある、ということなのだろう。堂々とした動きは、確かに観衆の目を引く。絶対にあそこまでは行かないようにしよう。
「リーフェ殿、俺は先に他の将軍たちに挨拶を済ませてこようと思うのですが、あなたはどうされますか?」
「わたくしも一緒に行ったほうがよろしいのでしょうか」
「いや……」
俺はちょっと迷った。
本来なら、これが私の妻ですと紹介したほうがいいのだろうが、俺たちが結婚に至った事情は、五軍の将たちもよく知っている。相手がイアルの血筋を引く、何かとよくない噂のあった女性であるということもだ。
彼らはきっと、珍獣を眺めるようにして薄笑いを浮かべ、リーフェ嬢を見るだろう。
それらの好奇の目に彼女を晒すのは、どうにも気が進まない。
「やっぱり、俺一人で行きます。その間、リーフェ殿は、そうだな……」
考えながら視線を巡らせると、雑踏の向こう、会場の隅に、踊り疲れた者たちが休憩する場が用意されているのを見つけた。近くのテーブルの上には、飲み物や軽食が置いてある。
天井まで届くケーキや豚の丸焼きはないようだが、あれでも少しは楽しめるだろう。
「あちらで待っていていただけますか。一人にさせて申し訳ないが、なるべくすぐに戻りますから」
「はい、承知いたしました」
リーフェ嬢は控えめに頷いたが、その目はすでにテーブルのほうに釘付けになっている。
「俺が迎えに行くまで、あそこにいてくださいね」
「はい」
「だからって、あまり食べすぎないように」
「あのレオさま、持ち帰りは……」
「ダメです。心細かったら、先に兄上を探してお呼びしてきましょうか。この場にはおられるはずですし」
「そんなことをしたら、あの兄にぜんぶ食べられてしまいます」
「もしも何かがあったら、すぐに俺を呼ぶんですよ。何があっても、駆けつけます」
「まあ」
我ながら過保護なことを言うと、リーフェ嬢は笑い出した。
「それではわたくしも、レオさまがピンチに陥ったら、助けて差し上げます。敵が現れたら、わたくしをお呼びくださいね」
まだ薄い胸を叩いて頼もしく請け負うと、「では後で」と踵を返し、テーブル目がけて進んでいった。
***
この大人数の中から他の将軍たちを探し、見つけ出して挨拶していくというのは、非常に根気が必要な、かつ疲れる作業だった。
しかも、同じ「将軍」という名がついていても、あちらにしてみれば、第六将軍などは完全に格下の相手である。
嫌味や皮肉を投げつけられるのはともかく、リーフェ嬢についてあれこれと探られたり、懇々と説教されたりするのは参った。俺以外の将軍はみんな四十から五十という年齢なので、余計に「この若造が」という気持ちがあるのだろう。
なんとか適当にいなしておいたが、五将軍に挨拶を終えた時にはもう、結構な時間が経過してしまっていた。
さすがにリーフェ嬢が不安になっているだろう、と思うと気が焦り、早足で人波をかき分けて歩く。
(食欲に)捕らわれた姫君を救出に、という気分で人波をかき分けずんずん歩を進めていたら、思わぬ伏兵に行く手を遮られた。
「そちらの方、よろしければ、わたくしと踊っていただけませんこと?」
と、見知らぬ女性に声をかけられたのだ。
見るからに、上流が板についた女性だ。すぐに、勘違いをされたのだなと判った。
俺は現在、軍服の正装をしている。通常、王城の舞踏会に出席できるような軍人は、俺のような特殊な場合を除けば、高位の貴族、それも親が権力者、という人間に限られる。だからこの女性もそう考えて声をかけてきたのだろう。
普段の俺の服装なら、下級の貴族だと一目で知れて、彼女のような人間の視界にも入らないくらいなのだが。
「申し訳ありません、人を待たせておりまして」
俺はなるべく礼儀正しく返事をしたのだが、相手はあまり聞く耳を持ってくれなかった。
「あら、ここはダンスをする場ですのよ。女性から申し込まれて断るなど、あまりに無慈悲なお振る舞い。わたくしに恥をかかせたいのですか?」
「そういうわけでは……」
「ええ、いいわ、一曲で許して差し上げます。わたくしと踊ってくださったら解放してあげますから、その後で、待たせているというお気の毒なその方のところに行ってあげたらよろしいわ。……もっとも、ダンスが終わる頃には、あなたの気が変わるかもしれませんけれど。ねえ?」
ふふっと意味ありげに目配せして笑う。
どうも、パートナーと離れているのは、別の相手を物色していたから、とでも思われているらしい。
舞踏会というのは、男女が目の色を変えて、自分が食いつく餌を探すものだったのだろうか。そんな恐ろしげな催しだとは知らなかった。
いや、もしもそうだとしたら、リーフェ嬢もどこかで他の男の標的にされているかもしれない、ということだ。
心配がさらに膨れ上がってきて、俺は人々の頭の上から、その先にいるであろう彼女の姿を探した。
「申し訳ないのですが、妻が……」
「あら、はぐれているのは、あなたの奥様でいらっしゃるの? でしたらきっと、あちらも今頃、羽を伸ばしていらっしゃるわ。結婚はしていても、恋愛はまた別ですもの。こんな時くらい、自由にさせて差し上げたら?」
それが高位の貴族たちの考え方なのか。あの妻を見ているだけで精一杯の俺には、到底ついていけない。
「いや、本当に……」
「さあ、ほら、いきましょう」
彼女は美人だが自信たっぷりで、強引で、こちらの都合に構わずグイグイ迫ってくるという、俺が最も苦手とするタイプの女性だった。
どういうわけか俺は昔からこのテの女性に言い寄られることが多く、それで何度も痛い目に遭っている。だから必然的に逃げ回ることになるのだが、なぜか逃げる分だけ追いかけられる。不毛な悪循環である。
この時も、俺が後ずさりすればするだけ、女性はどんどんこちらににじり寄ってきた。強い香水の匂いが鼻をつく。
こんなに人が多くいる中でいつまでも下がっていけるものではなく、とうとう左腕を両手でがしっと掴まれてしまった。
「ちょっと、あの」
「ふふふ、捕まえましたことよ」
赤く彩られた口紅が弧を描いて、俺は背中に冷や汗をかいた。
相手は、神経は図太そうだが肉体は普通に弱そうな女性である。俺はなまじ筋力も握力もあるという自覚があるため、それを容易には振りほどけない。
下手をすると突き飛ばすような形になってしまいそうで、それでは本当に彼女に恥をかかせることになる。
かといって、まさか本当に一曲付き合うわけにもいかない。俺はまだ肝心のリーフェ嬢と踊っていないし、彼女以外の相手とダンスをする意味も意義もないからだ。
どうすればいいのか判らず弱りきっていた俺は、その時、前方からまっすぐこちらに近づいてくる人を見つけた。
まるで、そちらから明るい光明が射し込んでくる気がするほどに、灰色の群衆の中で、彼女一人だけが、ひときわ鮮やかに色づいているようだった。
眉を上げ、唇を引き締めて、迷いもせず一直線に。
──レオさま、お待ちになっていて。直ちに救出に参ります!
強い意思と決意をたたえるその凛々しい表情に、思わず魅入られる。
女性を格好いいと思ったのは、これが生まれて初めてだ。