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リーフェ嬢がこの屋敷にやって来てから、あっという間にひと月近くが経過した。
彼女は毎日、仕事に出かける俺を見送り、帰ってくるのを出迎え、夕食を一緒に食べながら、今日はこんなことがあったと嬉しそうに報告する。
俺は女性に対して気の利くほうではないし、洗練された会話が出来るタイプでもないので、おおむね聞き役に廻ることが多かったが、それでもリーフェ嬢はいつも、実に楽しそうによく喋った。
新調した洋服がとても素敵だった。ロベルトに焼き菓子の作り方を習った。アリーダと一緒に庭に植える花を選んだ。田舎の領地にいる俺の父親にドキドキしながら手紙を書いたら、丁寧な返事をもらって安心した──
どれも些細なことばかりだ。それなのにリーフェ嬢は毎回、そのいちいちに驚き、感激し、興奮する。
彼女の目を通して見ると、この小さな屋敷の中には、常にどこかに新しい発見があり、新しい喜びがあった。
そして、それを聞くたび、俺の心もまた、新鮮な驚きに満たされ、感情を揺り動かされた。
リーフェ嬢の口から出ると、「空が青い」「風がどこかからいい香りを運んでくる」「庭の木にある鳥の巣から雛の鳴き声が聞こえる」というような何でもないことでさえ、心に沁みるように実感できた。
今まで、当たり前のように目には映っていても、耳には届いていても、何も考えず通り過ぎてきたもののすべて。
綺麗なもの。優しいもの。温かいもの。安らぎを与えてくれるもの。
彼女が感じるそれらに一緒に目を向け、何かを感じ、分かち合う。二人でいると、いつだって時間はゆっくりと穏やかに流れていくようで、明るく眩しく、心地よかった。
──少しずつ自然に、リーフェ嬢の存在は、俺の日常の景色の一部として、溶け込んでいきつつあった。
とはいえ、俺たちはまだ、「本当の」夫婦になったわけではない。
当初の青白い顔をしていた頃に比べ、ずいぶん健康的になってきた彼女だが、これはこれで今さらきっかけが掴めないというか……リーフェ嬢が嫁いできた「第六将軍」というのがどういうものか、未だ彼女にちゃんと説明していないということもあって、なんとなくその件については先延ばしにしたままだ。
そのせいなのか、リーフェ嬢は時々、自分自身を見下ろして難しい顔つきで首を捻り、「まだ大きさが……」とぶつぶつ言っている。
俺は笑いを噛み殺すのと、ぐらつく気持ちを悟らせないようにするのとで、けっこう大変だ。
***
そんな折、王城で、リーフェ嬢の兄のヴィム氏に会った。
廊下を歩いている時に、あちらから声をかけられたのである。振り返ると、ひょろりと痩せた青年がニコニコしながら手を挙げているので驚いた。
「これは……義兄上」
慌てて挨拶しながら、こうして見るとやはりリーフェ嬢と面差しが似ているな、と思う。男性なのにほっそりと儚げな風情があるのは、イアルの血筋というのが関係しているのだろうか。
「あはは、いやだな。僕はヴェルフ将軍よりも年下なのだから、義兄上というのは勘弁してください」
王城に勤めているだけあって、妹よりもずっと世慣れた様子で、彼は気さくに言った。
その表情からは、「身分が低いくせに妹を攫っていった盗人め」というような敵愾心はまるで感じられない。
少し安堵した。
「メイネス家のご両親のほうにもご挨拶に伺わず、申し訳ありません。何度か、面会を申し込んではいるのですが……」
リーフェ嬢の両親からは、毎回、その申し出を突っ撥ねられているのだ。一度くらいは顔を合わせて、彼女は元気でいること、失礼でなければ多少の援助をしたい、ということを話したいと思っているのだが。
「ああ、いや、お気になさらず。あの人たちは、普通の人間とは別の世界に生きているのです。どうせ会ったところで、話が噛み合うわけがないのですから、放っておけばよろしいですよ」
ヴィム氏は、俺がメイネス家に挨拶をと言いだすたびリーフェ嬢がするのと同じようにひらひらと手を振って、その時に彼女が出す返事とまったく同じ内容を口にした。
「しかし……」
「将軍もわざわざ嫌味を聞きに行きたくはないでしょう? あの家に行ったって、菓子のひとつも出てくるわけではありませんしね。出てきたとしても、色もついていないような薄いお茶くらいですよ。あ、それは嫌がらせではなく、ただ単に貧乏だからなんですけどね。僕はいつも、なるべく喉を潤してから家に帰るようにしています」
あまり笑い事ではないようなことをさらりと言って、あっはっはと軽く笑う。
リーフェ嬢も大概だが、兄のほうも、「イアルの血筋」という先入観を容易く覆す人物だな、と俺は少々面喰らいながら思った。
「ヴィム殿は、アルデルト王太子殿下の近侍をしておられるとか……」
俺がそう言うと、彼は意味ありげに目を細めた。
「ええ、まあ。意外でしょう? 落ちぶれた貴族の子息が、そんな仕事をしているなんて」
「いや……」
俺は首を横に振ったが、どうにも歯切れが悪くなってしまったのは仕方ない。
確かに王太子の近侍といえば、将来は政治を担う重鎮にもなれるかもしれない大した立場で、他人から羨望の目を向けられるはずの憧れの役職だ。
普通ならその地位は権勢を振るう高位の貴族子弟などが独占していて、滅びた王朝の流れをくむというだけの零落した一族が入り込む隙間などない。……普通なら、だが。
ヴィム氏は、俺の考えを見透かしたように、くすくす笑って顔を寄せた。
「……誰もがイヤがる仕事は、手に入りやすい、という話です。それはあなたもでしょう? 第六将軍。まあ、僕の場合、あなたと違って、苦労して作り上げた人脈と伝手とイアルの名を、最大限に利用してやったのですがね」
人の悪い顔をして口角を上げる。俺はなんとも言いようがなくて、口を噤んだ。
「なにしろ両親があんななので、僕が金を稼がないと。そのためには、どんな手でも使います。妹は、あなたのような金ヅ……いや、頼もしい方を捕まえられて、幸いでした」
「金ヅル」と言いかけた言葉を適当に誤魔化して、ヴィム氏はにっこりした。
「メイネスの家では、僕も妹も、大きな声を出してはいけない、口を開けて笑ってもいけない、あれこれと欲張って食べるのは卑しいことだ、とうるさく言われて育ちましたからね。僕は男だからまだよかったのですが、妹はイアルの血にがんじがらめにされて、まるで籠の鳥のようでしたよ。いつもひっそりと、笑いもせず、静かに無表情で過ごしていました。両親の思惑はともかくとして、『イアル』の名を望む高位貴族の誰かに求められるより、あなたが結婚相手で、僕はよかったと思います」
俺は返事が出せなかった。
……あの感情豊かで、くるくると表情の変わる、いつだって明るいリーフェ嬢が?
メイネス家では、彼女はどれだけたくさんのものを、心の奥に押し込めて過ごしていたのだろう。
かつての彼女を想像し目を伏せた俺に構わず、ヴィム氏ははははと陽気に笑った。
「僕としても、食い扶持が一人減りましたのでね、あなたには感謝しているのです。妹を末永くお願いしますね、将軍。僕も頑張って、実家が裕福で、権力があって、現実的で、僕にメロメロになってくれる女性を見つけようと思います」
「…………」
なんとなく似てる、この兄妹……
その時、ヴィム氏が何かに気づいたように「あれっ」と素っ頓狂な声を上げた。
彼の視線が俺の背後に向かっていることに気づき、後ろを振り返る。
そして、ぎょっとした。
「アルデルト王太子殿下?」
ヴィム氏が仕えている王太子が、ふわふわとした足取りで、廊下を歩いていた。その横にも後ろにも、どういうわけか、護衛の姿がない。
まさか王太子が一人で王城内をうろついているのかと、俺は急いでそちらに駆け寄った。
「どうなさいました、殿下。何かございましたか」
よほど切羽詰まった何かが起きたのかと緊張して問いかけたのだが、肝心の王太子本人はどこかぼんやりとした顔で視線を彷徨わせている。
今ひとつ定まらない茫洋とした目が、俺を向いて、それからあまり焦っている様子もないヴィム氏に向けられた。
「ああ……ヴィム。ここ、どこかなあ。ちょっと、迷ってしまったようだよ」
王城内で、迷う?
俺は困惑したが、そばに寄ってきたヴィム氏は少し苦笑して、王太子の手をそっと取った。壊れ物を扱うような手つきだった。
「そうか、護衛ともはぐれて、迷ってしまわれたんですね? それは心細いことでしたね、殿下。僕が目を離したのがいけませんでした。お部屋に戻りますか? それとも、このまま外に出て、少しお散歩いたしましょうか」
幼子をあやすような言い方に、王太子がやんわりと微笑む。
「あ……うん……散歩かあ……そうだねえ、温室の薔薇は、もう咲いたかなあ、ヴィム?」
「そうですね、咲いているかもしれません。一緒に見に参りましょう。きっと綺麗ですよ」
「うん。楽しみだねえ」
五歳児がしているような会話だが、アルデルト王太子はこれでれっきとした二十五歳の成人である。ラドバウト王のようにでっぷりと太ってはいないが、ヴィム氏よりはよほど背が高く、体格もいい。
その成人男性が、弛緩した表情で、子供のように近侍に頼りきっているのだから、なかなかその光景は異様なものがある。
話には聞いていたが間近で見たのははじめてで、俺は内心の狼狽を押し隠すのがやっとだった。
口さがない連中が嘆いていたのはこのことか、と理解する。
父は暗愚で、息子は愚鈍。
ノーウェル国の未来は真っ暗だ──と。
この国では、正妃の子供しか王位継承が認められていない。ラドバウト王の正妃は二人男子をもうけたが、二人目を産み落とすとすぐに亡くなった。長男はなかなか才覚のある人物であったと聞くが、やはり十五年ほど前に事故で亡くなっている。
王はその後、妾は多く持ったが正妃は持たなかった。王には兄弟もいない。
よって正式な王位継承者は、唯一このアルデルト王太子だけ、ということになる。
傍若無人な現王に不満を抱いている者は多いが、誰も表立って反旗を翻せないのは、このあたりにも理由がある。
君主が代わっても、それはそれで国が乱れるだろうことが目に見えているからだ。
「──アルデルト王太子殿下、もしもよろしければ、私が護衛をさせていただきますが」
しかしとにかく、このまま王太子を放置しておけるはずもない。俺がそう申し出ると、王太子はようやくここで俺の存在に気がついたかのようにびっくりした顔をして、それから怯えるようにヴィム氏の背中に隠れた。
いや、王太子のほうがヴィム氏よりもずっと大きいので、隠れられてはいないのだが。
「だ、だれ……?」
ヴィム氏が安心させるように笑いかける。
「第六軍の新しい将軍ですよ、殿下」
「レオ・ヴェルフと申します。不束ながら、このたび第六将軍の責を担うことになりました。アルデルト王太子殿下におかれましては、ご健勝のご様子でなにより──」
俺の挨拶が終わらないうちに、王太子は顔を伏せて子供がいやいやをするように首を振った。
どうやら、怖がらせてしまったらしい。
困っていると、ヴィム氏が取りなすように笑みを浮かべた。
「申し訳ない、ヴェルフ将軍。アルデルト殿下は少々人見知りをするご気性でありまして。しかしご心配には及びませんよ、おっつけ、護衛もこちらにやって来るでしょうから」
「しかし……」
「王族の護衛は第一軍の管轄ですからね。第六将軍が出てくると、あとでややこしい話になりかねない。ここは見なかったことにしておいてください」
「…………」
ヴィム氏のあっさりとした物言いに、反駁できない。確かに、ここで俺が出張ると、後で第一軍のほうから抗議されそうだ。
あちらは高位の貴族ばかりが在籍している軍だから、誰もかれもが揃って非常に自尊心が高く、人の意見に耳を貸さない傾向がある。
自分たちの怠慢を棚に上げて、第六軍がこちらの領分に首を突っ込んできたと文句を言い立ててくるのは、十分考えられる話だった。
「……申し訳ない。本当に大丈夫でしょうか」
「ええ、大丈夫です。殿下のおそばにいる者は、こういうことに慣れておりますから」
そう言って、「ね?」というように片目を瞑る。
──なるほど、こういうことがあるから、日頃甘やかされて育った気位の高い子息たちには、この仕事が務まらないのだなと納得した。
複雑な気分で立ち尽くす。
その俺に、ヴィム氏が去り際、笑顔でとんでもないことを言った。
「それでは将軍、今度は舞踏会でお会いしましょう。妹と会えるのを楽しみにしています」
俺は一瞬、石になった。
「……は?」
「ですから、舞踏会で」
「なんですか、それは」
「あれ、まだ招待状が届いていませんか? じきに、王城で舞踏会があるんです。欠席不可ですよ」
「ご冗談を……そんな大それた催しに、俺のような身分の低い人間が招待されるはずが」
「ご存じありませんか、第一から第六までの将軍は、身分に関わらず強制参加です。もちろん、パートナー同伴です」
「…………」
それを知っていたら、俺は何があっても絶対に将軍職なんて引き受けなかった。
「……あいにく、その日は、田舎の父が危篤になる予定で」
「あっはっは、楽しい冗談を言う方だなあ」
低い声で出した俺の断りの言葉を笑い飛ばして、ヴィム氏は子供のような王太子の手を引いて去って行ってしまった。
将軍辞めたい、とこの時ほど強く思ったことはない。
***
青い顔で屋敷に帰ると、リーフェ嬢はすぐに俺の異変に気づいたらしかった。
「レオさま、ご気分でも悪いのですか? お夕飯はあとにして、とにかくこちらへ」
なにより大事な食事を後回しにしてまで俺を気遣ってくれるのは嬉しいが、正直言って「大丈夫」と返す余裕もない。俺は彼女に手を引かれるまま、ふらふらと居間に連れていかれ、ソファに座らされた。
リーフェ嬢が床に膝をつき、下から俺を覗き込む。
「それで、どうなさいました? どこか痛むのですか? お水をお持ちしましょうか」
初夜の時と立場が逆転している。
リーフェ嬢が心配そうに眉を下げているのを見て、申し訳ないのと同時に、ほんのちょっとだけいい気分になったのは否定しないが、今はそんな場合ではない。
俺は頭を垂れ、陰気な声で、「──実は」と切り出した。
「今日、あなたの兄上とお会いしたのですが」
「まあ」
リーフェ嬢が下げていた眉をきゅっと上げる。
「あの兄が、レオさまに向かって、どんなろくでもないことを申しましたか。ことによっては、ただではおきません」
「いや違います、兄上はただ……」
「ただ?」
「今度、王城で舞踏会があるので、その時にあなたと会えるのを楽しみにしている、と」
俺は真剣そのものの顔で言ったが、リーフェ嬢はきょとんとしただけだった。この人は事の重要性をまったく理解していない、とさらに絶望しそうになる。
「舞踏会、ですか。それで?」
「それだけです」
「は?」
「将軍になったら、その舞踏会に出席しなければならないらしいのです。ここに帰るまでの道中、欠席の口実を十個くらい考えましたが、どれも通るとは思えません。強引に断れば陛下の不興を買いかねないし、そうなると誰にどんな害が及ぶか予想がつかない。だからどうしても、舞踏会には出席せねばならないという結論に……」
俺は呻くように頭を抱えた。
リーフェ嬢はまったくわけが判らないというようにぽかんとしている。
「でしたら、出席なさったらよろしいのでは?」
「しかしリーフェ殿、舞踏会ということはダンスを踊らなければならないということで」
「そうですね」
「しかも、あなたとです」
「ご迷惑でしょうか」
「とんでもない。しかし、俺があなたとダンスを踊ったりしたら、ですね」
「はあ」
「下手をしたら、あなたを踏み潰して殺してしまいかねません……! それくらい俺は本っ当に、致命的に、ダンスが苦手なんです!」
両手で顔を覆って、苦悶の声を漏らした俺に、リーフェ嬢は無言だった。
しばらくして、思いきり噴き出す音が聞こえた。
***
「苦手だったら練習いたしましょう」
という、至ってさっぱりとしたリーフェ嬢の提案に、俺は引き攣った表情で断固として首を横に振った。
「いや無理です」
「そんなことを仰っているから、いつまで経ってもお上手にならないのでは? 基本のステップはご存知なのでしょう?」
そう言いながら、俺の両手を引っ張ってソファから立ち上がらせ、居間の真ん中に連れていく。俺は真っ青になった。
「あなたを相手に練習するんですか」
「おイヤですか?」
「イヤもなにも……リーフェ殿、俺は本気でダンスは駄目なんです。これまで何度、これで失敗したか……もしもあなたの足を踏んづけたりしたら、いや、絶対間違いなく踏むに決まっているんですが、そうなったら」
「平気です、わたくしの足はこう見えて鋼鉄製ですから」
「ウソだ!」
俺からすると、リーフェ嬢の華奢な足は、脆くて薄くて繊細なガラス細工のようなものである。
俺が踏んだら確実に壊れて砕ける。
もしも一生使い物にならなくなったり、歩けなくなったりしたら、どうすればいいのだ。
「将軍ともあろうお方が、いつまでもぐずぐずと駄々をこねているものではございませんわ。さあ、わたくしの手を取って、腰に手を廻して」
ぴしゃりと叱りつけられて、俺はこわごわ、彼女の柔らかな手を取り、細い腰に手を置いた。どれくらい力を入れていいか判らない。本気で怖い。
「音楽に合わせて動いていれば、それなりに見えるものです、大丈夫ですよ」
「そんないい加減な」
リーフェ嬢はダンスが上手かった。動きが滑らかで、花弁が舞うように流暢で美しく、気品もある。
これもきっと実家できっちり躾けられたのだろう。高貴な血筋なのだから、当然だ。
俺がただの観客だったら、間違いなく息をするのも忘れるくらいに見惚れる。切実に、眺める側に廻りたい。
「レオさま、足許ばかりご覧になっていないで、お顔を上げてくださいまし。余計に目立ってしまいますよ」
そんなこと言ったって。
「わたくしの目を見てください」
優しい声に誘われて、おそるおそる顔を上げる。
リーフェ嬢の顔は俺のそれよりもずっと下にあったが、それでも今までのどんな時よりも距離が近くて戸惑った。そういえば、こんなにもお互いの身を寄せ合ったこともかつてない。
今さらになって、耳が熱を持ちはじめた。
最初のうち、不安そうに居間の入り口から顔を覗かせて様子を窺っていたアリーダとロベルトは、俺のヘタクソな動きが見ていられなくなったのか、そそくさと逃げ出している。つまりここには、俺とリーフェ嬢の二人しかいないということだ。
俺の足取りは、さらに覚束ないものになった。
「レオさま、何かお話をいたしましょう」
俺のそわそわとした落ち着きのなさに気づいたのか、リーフェ嬢が笑顔で言う。足を踏まないように下方面に神経を集中させながら、何食わぬ顔で話をするなんて、人間業ではない。世の男女は本当にこれを難なくこなしているのか。
「話……というと」
もちろん俺は完全に上の空だ。
「こんな時は、相手の目や髪の色を、自分が好ましいと思うもの、綺麗だと思うものにたとえて褒めれば、大体の女性はコロッといく、と兄が言っていました」
「ははあ……」
なるほど。あの兄は、そうやって人脈や伝手を作っていったのだな、と感心した。それをそのまま妹に伝えるのはいかがなものかという気がするが。
普段は女性を褒めるなんてことも苦手だが、今は非常時である。ここから解放されるならもうなんでもする、という将軍の名が泣いて逃げ出すような情けないことをヤケクソ気味に思って、俺は必死に頭を絞って言葉を探した。
「え……と、リーフェ殿の瞳は、夕日のように輝いて美しい、ですね」
「レオさまの瞳の色も、とっても甘いナッツのタフィーに似て、素敵ですわ」
「その豊かに波打つ黄金の髪の毛も、風になびいて揺れる小麦畑のようで綺麗です」
「レオさまの髪も、身も心も温まるホットチョコレートのようで、うっとりしてしまいます」
「リーフェ殿、真面目にやってください」
「なぜですか。わたくしは大真面目なのですけど」
好ましいものというと、食べ物しか思いつかないのか。
どれだけ食い意地が張っているんだ、と思ったら、我慢できずにぷっと噴き出してしまった。
その途端、バランスが崩れた。
「う……わ」
焦って片足を踏ん張ったが、もう片足が着地点を失ってふらついた。このままでは間違いなくリーフェ嬢の足を踏む、下手に避ければ彼女もろとも倒れ込む、と咄嗟に判断して、俺は自分の足の下にあった対象物のほうを退かすことを選んだ。
リーフェ嬢を身体ごと持ち上げ、ふわりと浮かせる。
「きゃ」と驚く声がしたが、彼女の身体と俺の足はそれぞれ無事に床につき、惨事は免れた。
「申し訳ありません、大丈夫ですか」
急いで確認すると、リーフェ嬢は俺の顔を見上げて、目をキラキラさせていた。
「すごい! すごいですね、レオさま! 今、わたくし、宙を浮きました! こんなのはじめてです! まるで空を飛んだみたいでしたね!」
無邪気にきゃっきゃと喜ぶ姿があまりにも可愛らしくて、ずっと緊張で硬くなっていたこちらの気持ちもほぐれた。
……というか、たぶん、でれりと弛んだ、と言うほうが正しい。ここに鏡がなくてよかった。今の俺はきっとかなりだらしない顔をしている。
「こうですか?」
もう一度、今度は高々と抱き上げてやると、リーフェ嬢は弾かれるような笑い声を立てた。
「わあっ、わたくしの目線がレオさまよりも上に! レオさまはいつもこーんなに高い景色を見ていらっしゃるのですね!」
俺は目を細めた。
……うん。
やっぱりこの人は、こうして笑っているのがいいな。
「重くございません?」
「いや、羽のように軽いですよ」
「まあ、ではわたくし、もっとたくさん食べないと」
「お腹を壊さない程度に、ほどほどに」
リーフェ嬢を抱き上げたまま、調子に乗ってくるくると廻る。楽しそうな笑い声につられて、俺も笑った。
ダンスの練習は、もちろんぜんぜん出来なかった。