2
何がなんだかよく判らなかったが、無人の厨房に行って宴の残り物を適当に見繕ってくると、リーフェ嬢はぱあっと目を輝かせて笑顔になった。
早速ソファに座って、テーブルの上に広げられた食べ物を一つ一つうっとりと見つめては、嬉しそうに口に持っていく。高貴な血筋だけあって上品な食べ方だし、マナーも完璧なのだが、その手は一向に動きを止めようとしない。
その間、俺は寝室の明かりを次々に灯して廻っていた。
薄暗いままではなんだか変なムードが漂っているのと、リーフェ嬢が食べにくいだろうと思ったからだ。
しかし、明るくなったらなったで、彼女が薄い夜着しか身に着けていないことに気づいて、ひどくバツの悪い思いをすることになった。
「リーフェ殿、失礼ですが、これを」
慌てて、俺の上着を羽織らせる。
無礼な、と怒り出すのではないかとヒヤヒヤしたが、当の本人は、ブカブカの上着の袖をぱたぱたと振って、「まあ、わたくしが二人くらい入りそうですわ」と大喜びだった。
「…………」
安心どころか、戸惑った。
なんか、思っていたのと大分違うな……
彼女の向かいのソファに腰掛け、じっと様子を観察する。
もしかして俺と同衾するのが嫌で、逃げの口実として空腹を言い出したのではないか、とか、精神的な負荷が大きすぎて突飛な言動をしているのではないか、などと疑ってみたのだが、目の前の人物はどこまでも普通に食事を楽しんでいるようにしか見えない。
「まあ、ヴェルフ将軍、ご覧になって、この可愛らしいお野菜! 赤くて丸くて甘くて、とっても美味しいですね」
「レオで結構です。それで、リーフェ殿」
「わたくし、こんなにも具だくさんのスープをいただくのは久しぶりです。味に深みが出て、なんて素晴らしいのでしょう。それでもこんなに透き通った金色をしているなんて、きっと門外不出の秘密のレシピがあるに違いありませんわ、レオ将軍」
「将軍も結構です。それで」
「パンも柔らかくって美味しいこと! これがすべて出来たてで温かいまま食べられたなら、もっと最高でしたでしょうに! すぐ前にある食事がどんどん冷めてカチカチになっていく様を見せつけられて、わたくし、悔しくってなりませんでした! あれは美味しいお料理と、作ってくださった人に対する冒涜です!」
本当に悔しそうに手を握って力説し、身悶えしている。こんな形で初夜の花嫁が悶える姿を見ることになろうとは、思ってもいなかった。
「……なぜ、婚礼の席で料理に手をつけられなかったんですか?」
彼女の言葉を聞くに、下級貴族の屋敷で出される料理に我慢ならなかった、などという理由ではなさそうだ。しかしだとすると、他に理由が思いつかない。あの時はよほど緊張して喉を通らなかったのだろうか。
だったら自分がもうちょっと気遣ってやるべきだったな、と反省しながら訊ねると、リーフェ嬢はようやく皿から顔を上げ、けろりとした顔で言った。
「だって、イアルの血を引く女は、よその人の前で食事をしてはならないと言われているのですもの。そのようなはしたないことはしてはいけないって、子供の頃から、母にそれはそれはうるさく躾けられてまいりました」
「そうなんですか?」
俺は驚いた。確かに、貴族の間では女性は少食のほうがよしとされてはいるが、そこまで極端な家風は聞いたことがない。さすが高貴な家柄は、俺の理解を超えている。
さては、「イアルの血筋は花しか食べない」という伝説めいた話は、そのあたりから出ているな。
「やっぱり、イアルの血筋は……」
「まったくバッカバカしいったらございませんわ。そう思われません?」
イアルの血筋は普通とは違うのですね、と出しかけた俺の感嘆は、リーフェ嬢の憤然とした言葉によってすっぱりと断ち切られた。
「え……は?」
俺は困惑したが、彼女はお構いなしだ。
「人間なのだからお腹がすくし、美味しそうなお料理があれば食べたいに決まっているではありませんか。前々から馬鹿げた慣習だと思っていましたけれど、今日という今日はそのことを痛感いたしました。すぐ手を伸ばせばそこには湯気を立てたお肉がわたくしに食べられるのを待っているのに、ただ見ていることしか出来ないなんて! お料理は目でも楽しむものだと聞いておりましたけど、あれは嘘ですわね、レオさま? だってわたくし、穴の開くほどお料理をじっと見つめておりましたが、ちっとも楽しくありませんでしたもの。むしろ地獄のような苦しみでした」
しみじみとした口調で言いながらも、リーフェ嬢の手は止まることなくせっせと食べ物を口に運び続けている。楚々とした動きのわりに、よく食べる。細い身体で、そんなにいっぺんに詰め込んで大丈夫なのかと、今度はハラハラしてきた。
婚礼の席で食べられなかったのが、それほど心残りだったのだろうか。じっと俯いていたのは、テーブルの上の料理を凝視していたためだったなんて、俺は想像もしていなかった。
「こちらの気持ちも知らないで、お客様たちは美味しそうにお料理を頬張っていらっしゃるし! あれはなんですか、拷問ですか。特に兄なんてわたくしのほうを見もせずに、次々にお皿を空にし続けておりましたわ。なんて気の利かない……! もう少し妹への思いやりを見せて、誰の目もない時に、こっそりと骨付き肉の一本でも握らせてくれたってよさそうなものではありませんか。わたくし、宴の間中、兄への怒りを抑えつけるのが大変でした!」
なるほど。隣にいた彼女が怒っているのではないか、という俺の考えは間違ってはいなかったらしい。その怒りの理由も方向も、ぜんぜん違っていたが。
「兄……」
俺は、列席者の中にいたその人の姿を思い浮かべた。
確か……ヴィム、という名前だったか。なにしろこの結婚話が急なものだったため、俺の頭にはまだ十分な情報が揃っていない。なんとなくぼんやりと記憶している彼は、リーフェ嬢同様に痩せていて、黙々と料理を口にしているばかりだったような気がする。
妹が格下の男に嫁入りさせられることに立腹し、さぞかし不機嫌なのだろうと思っていたのだが、え、違うのか?
「あなたの兄上は、この結婚にご不満があったのでは?」
「まあ、なぜですか?」
俺の問いに、リーフェ嬢はかえって驚いたような顔をした。ますます困惑する。
「帰りに少しご挨拶する機会があったのですが……『今日は結構なお食事でした』と言われただけで、あなたのことには何も言及されなかったので、てっきり皮肉なのだろうと」
「それはまごうことなく兄の本心です。あの人は心から食事を楽しんで、心から満足して帰ったんです、そういう人なのです。食べ終わった後は、わたくしのことなんて、綺麗さっぱり忘れていたに違いありませんわ」
そんな馬鹿な。
「リーフェ殿の兄上は、どういう方なんですか」
「少々クズです」
「なんですって?」
「いえ、兄のことなんてどうでもよろしいのです。そうそう、そうでした、わたくし、まずはレオさまに、両親のことを謝らなければならないのでした」
途中、聞き捨てならない言葉をさらっと吐いたような気がするが、それを俺が呑み込む前に、リーフェ嬢がやっとフォークを置いて、両手を揃え、深々と頭を下げた。
「──二人の数々の非礼、どうぞお許しくださいまし。せっかく礼を尽くしてご招待くださったのに、婚礼の席にも出席いたしませんで、申し訳ございませんでした」
ただでさえ混乱していたのに、いきなり謝罪をされて、俺は少し度を失いそうになった。
「え、いや、そんな」
「わたくしの両親はどちらも少々浮世離れしたところがありまして、自分の取った行動で、相手がどう思うかということにあまり気を廻せない傾向があるのです。レオさまにこちらの内実を知られるのが恥ずかしい、婚礼の席に着ていくような服がない、ということを正直に言いだせないばかりに、高圧的な態度でお断りしてしまって。レオさまにはさぞ、ご不快な思いをされたことと思います」
「…………」
頬に手を当て、ため息をつくリーフェ嬢を、俺はまじまじと見た。
噂はアテにならない──と、もう一度同じことを思う。
まともな会話が出来ないほど頭に問題がある、って? なんだそれは。彼女は年齢よりもずっとしっかりしているではないか。
客観的に物事を見て、非を認められる。他人の気持ちを想像し、慮る優しさもある。
貴族社会の中で、そういう性質を持つ人間はあまり多くない。
「──リーフェ殿」
「はい」
「大変失礼なことを伺いますが、その……あなたのご実家は、あまり、裕福では」
「ええ。とっても、貧乏なのです」
俺が濁そうとした言葉を数倍はっきりとした単語にして、リーフェ嬢は真顔で言い切った。
「そ、そうですか……」
まあ俺も、それには薄々気づいていたのだが。
イアルの血筋のご令嬢の嫁入りにしては、運び込まれた荷物は身の回りのものだけで、鏡にしても小道具の数々にしても、どれも由緒がありそうな……有体に言うと、古ぼけたものばかりだった。
侍女をぞろぞろ引き連れてくる、とまでは思っていなかったが、彼女は世話係の一人すら、伴っていなかった。
ほぼ身ひとつで、リーフェ嬢はこの屋敷へとやって来たのだ。
「わたくしの父と母はいとこ同士でして」
「ええ、存じてます。貴重なイアルの血同士が繋がってひとつになったと、当時はずいぶん騒がれたらしいですね」
その近親婚のせいで濃くなった血が、生まれた娘を外も中も異様な存在にしたのではないか──という噂もあったのだが、それは黙っておく。
リーフェ嬢は短い息を吐き出した。
「要するに、気位だけが高くて社会にあまり適合できない二人が一緒になってしまった、ということなのです。我が家では、何かというと、『イアルの血に恥じないように』とそればかりでした。まるで、生きていくためには、それこそがなによりも重要なことでもあるかのように。昔は広大だった領地も削られたり掠め取られたりして、今ではほんのちょっぴりしか残っていませんのに、両親は、イアルの血筋を引く者はそれだけで誰よりも立派で、尊敬されるべき人間だとでも思っているようでした。人に頭を下げることも、頼むことも出来ないものですから、家はどんどん窮乏していく一方。それでもただ、誇りにしがみついていました。すべて、イアルの血のせいです。あれはもう、呪いのようなものですわ」
ずいぶんと手厳しい言い方だ。俺は宥めるように少し微笑んだ。
「貴族というのは、えてしてそういうものですよ」
「あの二人は度が過ぎているのです。お金がなくても、食べ物がなくても、どれほど困窮しても、『誇り高くあれ』なんて、そんなの無理に決まっています。ましてやイアルの血なんて、ほぼ実体のないもの、どうしてそこまでありがたがるのか理解できません。流れればただ普通の赤い血で、別に青いわけでも、美味しいスープになるわけでも、極上の糖蜜の味がするわけでもありませんし」
また、話が食べ物のことに戻っている。
「そういうわけで」
リーフェ嬢はそこで声の調子を変えて、ぴんと背筋を伸ばした。
正面切って視線を向けられ、俺はわずかにたじろぎ、後ろに身を引く。
「わたくし、この話を聞いた時から、嬉しくてたまりませんでした。もう『イアルの誇り』にはほとほと愛想が尽きまして、あの家に戻るのは真っ平なのです。婚礼の席で涙を振り絞って食事を我慢したのだって、もしも母の耳に入ってしまった場合、連れ戻されるかもしれないと危惧したからですわ。わたくし、こうしてレオさまの妻になった以上、何が何でもここに居座る覚悟でやって参りました! さあレオ様、お腹も満たされましたし、いざ張り切って初夜に突入いたしましょう!」
満面の笑みで力強く宣言され、その場に倒れそうになった。
***
両膝に手を置いて下を向き、しばらく考える時間を必要とした。
やっと心を決めて、顔を上げる。
「──あの、リーフェ殿は」
「リーフェとお呼びになってください」
「いやそんなことはともかく……あなたはその、男女の営みについての知識はおありで……?」
おそるおそる訊ねると、「ほぼ、ございません」と清々しいまでの返答が返ってきた。
うん、そうか、ないのか、やっぱり……
「でも、女性はじっとして時々恥じらっていれば大体のところは大丈夫、と兄が言っていました」
「…………」
兄よ……
どう言おうか迷って、俺が次に続ける言葉を探しあぐねていると、リーフェ嬢ははっと何かに気づいたような顔をした。
「ひょっとして、女性のほうでも何か特別な技術や努力が必要ということでしょうか」
「いや……」
「でしたら教えていただければ、わたくし頑張ります。だってすぐに飽きて放り出されても、他に愛人を作って追い出されても、困ってしまうんですもの」
「そんなことはしません」
「男性は綺麗な蝶がひらひら羽ばたいているのを見たら、ふらふらついていかずにはおれない生き物だって、兄が……」
「兄上はどうか知りませんが、俺はそういうことはしません」
リーフェ嬢はふいに心配そうな目つきになって、俺の顔を覗き込んだ。
「もしかしてレオさまは、女性に興味がないのでしょうか」
大真面目な表情で、なんということを言うのだ。
「そういうことではなく……」
「出来ればレオさまには、わたくしにメロメロになっていただきたいのですけど。男性は自分の好みに合わせてくれる女性に弱いと兄に聞きましたわ。レオさまのお好みとは、どういうタイプなのでしょう」
リーフェ嬢はぐいぐい迫ってくる。そういうところがどんどん俺の苦手な方向に向かっています、と言いだす勇気はなかった。
「閨のことはよくわかりませんが、これから勉強します。どのようにすればよろしいか、教えてくださいまし」
もしかして、それを俺に口頭で説明しろと?
うーん、と頭を抱えた。
しっかりしているところもあるが、彼女はやっぱり年齢相応に幼い部分も多く、素直で純粋な箱入り娘だ。
こんなことを男の前で口走ったら、普通は大変なことになる、というのをまったく判っていない。
「リーフェ殿、とにかく今夜は寝ましょう。……いや、そっちの『寝る』じゃなくて」
俺の言葉に、リーフェ嬢はきょとんと目を瞬いた。
「え、でも……」
「今日は一日大変だったし、お疲れでしょうから。それで、今後のことなんですけどね」
「はい」
「閨で勉強云々のことは、もう少し先に延ばしましょう。あなたはご存じないかもしれないが、ちょっとその……ある意味、体力を必要とすることなので。もっと栄養のあるものをたくさん食べて、しっかり力をつけてからでも遅くはないですし」
正直に言って、俺は今の彼女を抱く気にはならない。
あまりにも細すぎて、壊してしまうのではないかと気が気ではないからだ。お腹が満たされたと言ったって、すぐにそれが肉になるわけでもないだろう。抱きしめて、うっかり肋骨でも砕いてしまったらどうすればいいんだと不安になる。
何も知らない分、こちらが言うことをそのまま信じ込んで従ってしまいそうなところも怖い。
……無理をさせたくない、というのも本当だが。
思っていた以上に可愛かったリーフェ嬢に、理性を保っていられる自信も、あまりなかった。
リーフェ嬢は俺の顔を見てから、改めて自分自身を見下ろした。
「──つまり、レオさまは豊満な女性がお好みだということなのですね?」
「違います」
「そういえば、兄も女性の魅力の一つは胸の大きさだと」
「違います」
「どれくらいの大きさがよろしいのでしょう。場合によってはそこまで育つのに時間がかかるかと思うのですけど」
「聞いて。違います」
「でも、やっぱりそんなの、もどかしくありません? 試してみれば新たなご趣味に目覚める可能性もなくは……」
「もういいから、寝なさい!」
最後は叱りつけるようにして強引にリーフェ嬢をベッドの中に放り込んだ。明りを消してもとの薄暗さに戻すと、しばらくぶつぶつと不満げな声が聞こえたが、やがて穏やかな寝息に変わった。やっぱり疲れていたのだろう。
やれやれ、と息をついて、ソファにどさりと転がった。
俺も疲れた。
あらゆる意味で、噂も、俺の予想も裏切る花嫁である。
嫌われていなくてまだよかったと思うべきなのだろう。本当のことを言えば、泣かれなくてホッとした。子供のようで、大人なようで、儚げに見えて毒舌で無邪気で、今ひとつ掴みどころがない。俺はひたすら振り回されてばかりだったような気がする。
夜中にあんなにもたくさん食べて、明日の朝、調子を崩さないといいのだが。
目を閉じると、すぐに眠気が襲ってきた。意識がぼんやりと曖昧な膜に包まれていく。
うとうととまどろみながら考えた。
あの彼女と、これから夫婦としてやっていくのか……
──意外と、悪くないかもしれない。