Prologue
Prologue
色づく紅葉が静かに揺れる。
秋の空は高すぎて、無意識に伸ばした指をが、ひやりと澄んだ虚空を切った。
遠くから広瀬川のせせらぎを運ぶように、吐息にも似た秋風が髪を撫でる。
この風が吹くと思い出す。夕日を纏ってカウンターに座り、器用に片手でトランプを弄りながらココアを飲むあの姿。男子にしては長い睫毛に、爪の切りそろえられた細い指。くつろいでいるだけなのに、どこか隙のない、不思議な人。
かつて彼がいたカウンターには、生真面目な私の字で埋め尽くされた貸し出し簿が広がっている。栞代わりに使っているハートのAがそっと、この場所にあの人がいたことを教えてくれていた。
カウンターまで近づいて、几帳面な字で書かれた『時音』の文字をそっとなぞる。世界に一枚だけのカードだから大事にしなよと、笑った先輩の顔がふと浮かんだ。
「時音?まだいたの?」
書庫から声がして顔を上げると、司書の優芽子さんが階段を下りてくるところだった。黒のワンピース姿にハーフフレームの眼鏡。丁寧に櫛を通らせた長い黒髪が、「文学少女」を思わせる。いや、もう少女から女性になったような、そんな心地よい余裕が彼女にはあった。
「ついさっき今日の分の蔵書点検が終わったところです。なんとなくぼーっとしてて」
「そう。さすが仕事が早いわね。奏杜も時音くらいテキパキ働いてくれれば文句なかったのに」
「要領はいいんですけどね。あの人。途中気分転換が多すぎるだけで」
「そこが生意気なのよあいつ。昔からなんだけどね。……もう卒業してから半年たつか。早いものだわ」
「えぇ。もう半年、です」
あっという間のようで、彼がいない半年は、やけに長く感じた気がした。
この学校には、この図書室には。奏杜先輩が多すぎる。
「今頃なにやってんだか。連絡の一つもよこさないなんて……。あ、もしかして私のところに来てないだけ?時音のとこにはきてる?」
「あー……、えっと、たまに…?」
「あんの薄情者!!」
「ほんとにたまにですよ!先輩のことです。どうせなにかしらの厄介ごとに首突っ込んでるか巻き込まれてますよ。ここでもずっとそうでしたし」
そうなのよねと優芽子さんが笑いながら肩をすくめる。私より付き合いの長い彼女のことだ。きっと本気で怒ってないし、先輩もそのうち連絡をよこすだろう。なんとなく、さっきまで一人で先輩のことを考えていたのを気付かれたくなくて、「また明日来ます」と伝えて図書室を出た。
ドアにかかっていたOpenの札をひっくり返す。Closeの札がカランと音を立てた。
この図書館には、奇術師がいた。
これは私と図書室の奇術師が過ごした、この学校での物語。
図書室の奇術師
雨宮時音の前日譚
舞台裏は既に私と、師匠が手配してくれた伴奏者の男性、そしてアナウンスの女性だけになっていた。演奏者はもう私だけだ。雪を思わせる純白のドレス姿が、私だけ別世界にいるような錯覚をもたらす。いや、錯覚じゃない。私はいるんだ。コンクールという名の戦場に。
目を閉じ、細く息を吐く。針の隙間を通すように、細く、鋭く。よく使う舞台の前のルーティーン。薄く目を開き、弓を眺める。幾度もの勝負を切り抜けてきた、私の剣。薄暗さの中でも存在感を放つ、読み込んだ書物のようなベージュ。ストラリヴァリみたいな名器じゃないけれど、ずっと私と歩んできてくれたヴァイオリン。大丈夫。いつも通りだ。この子たちは何も変わらない。
だから、もう少しだけ、もってくれ。
前の奏者の演奏が始まった。なだらかに始まるモーツァルト。その作りこまれた軽やかな一音一音が、重い。相当な練習を積んだことが窺えた。
「雨宮さん、調子は大丈夫?」
伴奏者の成瀬さんが話しかけてきた。誰かと話して気持ちを落ち着けるタイプなのだろう。ルーティーンなんて人それぞれだ。きっと質問に深い意図はない。頷いて答える。
「はい。問題ありません。本日はよろしくお願いします、成瀬さん」
「いつ見ても落ち着いているね、雨宮さんは。今回はこんな機会を頂けて光栄だった。千秋先生から伴奏者を頼まれたときは驚いたよ。君の伴奏をしたなんて、同業に自慢できるからね」
「ご期待に沿えるよう尽力します」
「大人びてるなぁ。会うたびに思うけど君本当に中三?その余裕はとても同年代には出せないと思うんだけどなぁ」
「買いかぶりすぎですよ。私なんてまだ若輩者です」
余裕か。そう見えているのだろうな。この人には。
私はまだ、そこまで大人にはなれていないのに。
「緊張してるかと思ったけれど、やはり流石雨宮さんだ。今日もいつも通りの様子だし、大丈夫だろ。あぁ伴奏の心配はしないでくれよ。千秋先生の顔に泥を塗るような真似はしないからさ。もちろん、君にもね」
「はい。よろしくお願いします」
言われなくても別にそこに心配していない。師匠の紹介だ。あの人が半端な人をよこすわけもないのだから。
前の演者の演奏が終わった。一瞬の静寂の後、会場が拍手に包まれる。演奏会のような温かさは感じられない拍手。いつ聞いてもどこか無機質だ。何故かは私にもわからないけれど。二人分の足音が遠くなっていく。いよいよか。
いこう。履きなれたヒールがコツコツと響き、雪色のドレスにスポットが当たる。冷たい拍手の中、ステージの正面へ。
三階席まである客席は既に埋め尽くされていた。数千の瞳が、ごちゃまぜの感情を纏って私を射抜く。嫉妬、羨望、好奇、期待……。静寂の中、目を閉じて鋭く息を吐く。首に戦友をあて、弓を弦に乗せた。チューニングは問題ない。
―――始まる。
纏わりつく感情を振り払うように弓を弾いた。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第三番ト長調K.216。少年を思わせる軽快で無邪気なト長調とは裏腹に、クラシックは残酷だ。隠れ場所がない。嘘がつけない。弾くたびに、裸を見られるような感覚。審査員の、観客の視線がまた纏わりついていく。
全神経を指先と弦、弓に集める。小節が進む度、弓と身体の境界が曖昧になっていく。身体に刻まれた数百数千の反復練習が、考えるより先に私を突き動かしていた。激情と平静を己に宿し、中間部へ。
あどけない無邪気な笑みの少年モーツァルトが問いかけてきた気がした。「いけるかい?」。答える。私がどれだけの練習の上にここに立っていると思う?
客席はもう見えていない。ピアノの音も聞こえているけど、聞こえていない。ここにいるのは私だけだ。ステージに一人。私だけ。私だけでいい。
大丈夫、私は弾けている。ピアノの音がなくなっても、このホールを一人で支配できる。このホールの隅々まで神経を巡らせ、把握する。最も効果的な響きで次の音へ。
弦も弓も成瀬さんも、ちゃんと自分の役割を果たしている。大丈夫だ、大丈夫だから。
お願い、もう少しだけ頑張って、左手。
加速する曲に比例して、痛みが鋭く、深くなる。いつの間にかなってしまった腱鞘炎。痛みは日に日に大きくなっていった。だけど練習を休みたくなかった。もっとうまくなりたかった。納得のいく音が出したかった。痛みなんかに、邪魔されたくなかった。練習の成果はちゃんと出てる。出てるんだ。ここまではいい演奏ができてる。もう少しだから。あと少しだけ。
「これ以上は戻れなくなるよ」
耳元で囁かれた気がした。そんなことわかってる。わかってた。でも納得できないんだ。信じたくないんだ。ここが自分の限界だなんて。今弾きたいんだ、私は。音楽を、止めたくない。
束の間の全休符。額に滲む脂汗を拭う。張り付いた前髪を直す余裕なんて、あるわけがない。ここは戦場なんだ。まだこの舞台で弾きたいと望むなら、進むしかないんだ。
激しいパッセージが始まる。曲が終わりに近づく。痛い。目が霞む。手首が、指が悲鳴を上げる。
遂に音が崩れた。痛くて、弦を抑えられない。会場がざわめきだす。
痛い。弾かなきゃ。痛い。次の上行華やかに、鮮やかに。辛い。高音部、走らず、メトロノーム練習を忘れないで。痛いよ。大丈夫、まだ弾ける。次の小節、拍にはめて。助けて。辛いよ。休符も演奏するつもりで。痛い。辛い。誰か助けてほしい。師匠のレッスン思い出して。痛い。まだ弾きたい。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
あれ?私、いまなにをひいてるの?
「雨宮さん!!」
焦りに満ちた成瀬さんの声が、無理やり私を現実に引き戻した。
彼はもう鍵盤から手を放しているのに、私は直前まで何を弾いていたかすら覚えていない。感じるのは、両手首の痛み。左手だけじゃない。限界は体のあちこちに来ていた。あざが変色した首元に、疲れ切ってあげることすらできない右腕。
ようやく気付く。そうか、私、もうとっくに限界だったのか。まだ大丈夫と、必死に思い込みたかっただけで。
「あ……私……」
こんなにも人がいるのに、なんの音も聞こえない。初めて、私を射抜く数千の視線に気づく。その数だけの感情を纏って。失望、困惑、嘲り、落胆、侮蔑、そして、そして、そして―――
「あ……わたし………は………」
やめてください。そんな目で見ないでください。
呼吸が荒れる。私今までどうやって息をしてたっけ?こんなときどうしてたっけ?こんな時なんて今まであった?演奏はどうなったの?
演奏時間超過を告げる消灯。すべてが黒に染まった。それでも私には、暗闇の向こうにある目が忘れられなくて、私を見つめる目が怖くて、成瀬さんの目も見れなくて。
ぱらぱらと、氷雨のような拍手が木霊した。
あの日以来、私はずっと、あの雨に打たれ続けている。
卒論の現実逃避で書いています。週一、二回のペースで投稿していきますので、どうぞ温かく見守ってください。