「なんであいつを轢き殺さなかったんだ!!」「なんでもなにもブレーキかけたのあんたでしょうが」
「華子号、発進!」
未來が偉そうに、大声で号令を下した。
得意満面な笑みを浮かべている表情が、なんだかとても憎たらしい。
「汽笛、鳴らせ!」
汽笛?
たぶんベルのことを言っているんだろう……けど。
「ベル、壊れているんだけど?」
ベルのところが丸々なくなっているのだ。
留め金部分だけがかろうじて残っている。
まぁ、ベルがあったところで鳴らさないけど。
「にゃに~! それなら口でやれ、口で!」
「やるか、アホ」
馬鹿がさらにわめく。
「ポッポー! 面舵いっぱーい!」
「学校に行く道は左だろうが」
それを言うなら取り舵いっぱいだから。
自分で言っている言葉の意味もわかってないんだから、私は馬鹿ですって宣言しているようなものだな。
それも大声で。
やっぱり無知は罪だと思う。
「なにぐちゃぐちゃいってんだよ! 早く行かないと遅刻するぞ!」
またも未來が怒鳴り散らす。
面倒くさいので無視して自転車をこぐ……のだが、うまく走れない。
一人分の重さが加わるだけで、こんなにも困難を極めるものなの?
全然知らなかった。
「おら華子! しゃきしゃき走らせんかい! スピードが出ないから前輪がヘコヘコいってるじゃねーか!」
クソ……ここぞとばかりに偉そうに言いやがって。
しかし、未來の言うように前輪が右に左にカクカクフラフラしていて、走行がままならない。
「このバカヤロ様! スピードを上げれば安定するんだよ。んなこともわからんのか! このボケ!」
いつになくテンションが高くて煩わしい。
優位に立てている状況が、こうも簡単に作用する単純な人間も珍しいと思う。
絶対に権力とかを与えたらダメなタイプ。
この手合いがリーダーシップを発揮すると、たいていが悲惨な末路をたどるのは歴史が証明していることだ。
それはさておき、罵声に反応しては負けだとわかっていても、言い返さずにはいられなかった。
「そんなことわかっているっての……ていうか、なんでお前は立っているんだよ? そのせいでバランスが悪くなってフラフラしているんだろうが」
すると、未來は掴んでいる私の肩に力を込めて言った。
「うるへー! いいから思いっきり行けぇい!」
本当に馬鹿。
何物でもない、お前自身が原因となっていることに気が付いていない。
それにしても、馬鹿が高いところが好きというのは、あながち間違ってはいないと思う。
他でもない、未來自身がそれを証明しているのだから。
高校生になっても、恥ずかしげもなく小さな子供たちと一緒に木登りしているし、いまだに二段ベッドの上がお気に入りの場所だし、そして今もそう。
大体にして、なんで黙って座っていられないんだよ。
お前は幼稚園児か。
この十六歳児が!
「気合いだよ! 気合い! そもそもお前には精神的な強さがないんだよ。そんなんだから、チャリンコ一台すらうまく運転できないんだっつ~の!」
『出ました。根性論』
フィジカル信奉者の大部分が拠り所にしている最大の愚論にして、私が最も嫌いな言葉。
「頼むからもう黙って。気が散ってたまんない」
しかし、相変わらず運転はうまくいかず、自転車は前輪をカクカクしながら頼りなく進むだけだ。
すると、また短気な未來の怒声が後ろから響いた。
「ほんっとに、リキがねぇなお前は! しようがねぇ」
未來が怒鳴ったあと、一瞬軽くなるのを感じたかと思うと、自転車はいきなりスピードを上げて進み出した。
どうやら、未來が降りて全力で押しているらしい。
間もなくすると、自転車は速度を上げ軽快に走り始めた。
「お~し! ここまでスピード出れば大丈夫だろ! あとはゆるい坂道が続くしな」
はあはあという荒い息を混ぜながら未來が得意げに言った。
しかし、そんな力があるなら、最初からお前が自転車こげよ、と言いたかった。
さっきのオーバーワークの話もなんだか怪しいし。
でも、もちろん思うだけで言いはしないけど。
蒸し返したところで、また喧嘩になるだけだから。
◆■◆
「いやっほ~い! うっひょ~! 最高だぜぇ~!」
あたしはとにかく、高いとか早いとかが大好きなのだ。
この二つ、ぜったいに深い関係があると思う。
だって、両方とも「high」と関連している言葉じゃない?
だから、これ、間違いないと思う。
にしても、華子の力のなさは極めつけだな。
平地の二人乗りすらままならないのだから。
まあ、普段の生活でも本より重い物を持っているのを見たことないし。
てか、重い物はいつもあたし担当だからなぁ。
でも、さすがに華子はないわ。
今後は体力をつけてもらうためにも、華子にも無理矢理やらせるか。
いやがるだろうけど。
って、これいいかも!
その時の華子の顔が見ものだな。
ヒヒ。
自転車は軽快に走り続けている。
空を切り、朝の涼しい風と心地よい光が肌にしみわたる。
うん!
やっぱり気持ちいいね!
朝に自転車でかっ飛ばすのはさ。
「おい! どうだ? 風が気持ちいいだろ?」
気分がよくなって華子に話しかけた。
「ま、ね」
お約束の気のない返事。
だけど私にはわかるのだ。
華子も心地よいと思っていることを。
例の双子ならではの勘で、それがひしひしと伝わってくる。
なんとなく、嬉しい。
「お~し! 飛ばせ飛ばせ~」
あたしは、さらに発破をかけた。
「そう? いいのかな?」
そういうと、華子は珍しく力んだ顔をしてペダルを踏み込んで、自転車の速度を上げた。
自転車は緩やかな坂道を舐めるように、勢いよく滑って行く。
「行け、行けー!」
このスピードに乗ってグングンと、どこまでも行きたい。
道の果て、街の果て、国の果て、海の果てへグングンと。
道の先には抜けるような青空。
その中に飛び込みたい。
溶け込みたい。
そう、グングン、グングン、グングン、グン……って、おい!
さすがにいい加減グングンしすぎじゃないのか?
学校へ行くには間もなく左折。
この速度のままだと曲がりきれないことくらい、いかな運動音痴の華子にだってわかりそうなものだけれど……。
しかし、自転車のスピードはいっこうに落ちる気配なし。
「おい、華子、いいかげんに減速しないと曲がりきれなくなるぞ。もうすぐ左折なんだから」
すると華子はいつもどおり面倒くさそうに言った。
「うん、わかっているよそんなことは。でもね、ブレーキかけているんだけど私には重すぎて引ききれないんだな。どうしよ?」
『な、なんという危機感のなさ……』
「あのな、どうするもこうするもブレーキかけるしかないだろが! なんだその投げやりな態度は!」
「スピード出せっていったのはあんたでしょ? だから、あんたがどうにかしなさいよ」
「アホか! あたしがどうにかできるなら、とっくにどうにかしているっての!」
「……」
『くっ、こいつ、また固まりやがった。こんな状況にありながらよくだんまり決めこめるよな』
あたしはなおも華子を急かした。
というか、もう切羽詰まった抜き差しならないところまで入りこんでいるのだ。
自転車はそんなあたしたちが置かれている状況にお構いなく、ますます調子を上げてスピードにスピードを重ねていく。
もう、レッドゾーン。
かなりの速度だ。
さすがのあたしも気が気ではない。
華子の肩を強くゆすりながら、さらに言った。
「おい、本当にもうブレーキかけないとヤバいっての! このまま真っ直ぐ行ったらさらに坂の傾斜がきつくなって、もっとスピードが上がっちまうぞ!」
「そうね。このまま行くと一体何キロ出るのかな? 普段私が運転する自転車のスピードは大体十二キロから十四キロ位? 私たちの体重の合計が約八十五キロで、坂道の傾斜が……だから今の速度は……」
「おい! のんきにアホな計算なんてしている場合か! それなら解決策を導き出せっての!」
「ちょっと、黙っていて! 気が散って計算出来ないでしょ!」
コイツやべーぞ。
あまりに危険すぎる状況から、無意識のうちに現実からリタイアしたがっているんじゃないのか?
あたしはスピードやスリルは大好きだけど、それを楽しめるのは自分が納得した上でのこと。
その点から言うと、いまのこの状況はとてもじゃないけどエンジョイしている場合じゃない。
なんといっても、このリスキーな現場の手綱を握っているのが華子なんだから。
そしてこいつが平気で人を見捨てるような性格をしているのは、十分すぎるほどに知っているだけに余計に気をもんでいるのだが、するとその時華子から、あり得なくも実にらしい発言が飛び出た。
「解決策……あっ、そうか! あんたが乗っているから重たくてブレーキ引けないんだ。スピードも出るしね。だからさ、あんた降りなよ。こんな簡単なこと、なんで気がつかなかったんだろ?」
「あっ、そうか、じゃねーだろ! 大体どこが簡単な話なんだよ! お前はあたしを殺す気か! それでも降りろっていうのかよ!」
「ん? そうだけど? それがなにか?」
「おまえ~!」
ホント、なに言ってんだこいつは!
こんなスピードノリノリの自転車から降りろなんて正気じゃねぇぞ。
てか、血のつながった妹に対して、よくそんな思いやりのないこと平気で言えるよな。
当然、言い返してやろうと思ったその時、左折する予定の目の前の道の反対側から一台の自転車が飛び出してきたのが目に入った。
『ヤバい! ぶつかる!』
その瞬間、あたしは自転車から飛び降るタイミングで後部座席を両手でつかみ、両足のかかとで地面を力いっぱいに踏みしめて人力ブレーキをかけた。
靴が地面にこすれる音、あたしが人力ブレーキをかけて減速したことで非力な華子が引いていた自転車のブレーキがかかった音、そして、目の前に飛び出してきた自転車がかけた急ブレーキの摩擦音。
その後、静寂。
『はぁ、どうやら衝突はしなかったようだな』
それにしても、あたしってつくづく勇者気質だと思う。
普通の人なら、こんなこと絶対に怖くてできないだろうから。
そして、ちゃんと衝突も防ぐこともできたのだ。
実績を残してこその栄誉。
これは称賛に値することだと思うな。
まぁ、華子は感謝なんかしないだろうけど。
「ふぅ」
一息ついて、ぶつかりかけた相手に謝ろうと顔を上げた。
「って……なんだ、隼人かよ」
一気にどうでもいい気持になる。
ぶつかるまで、あと1メートルのところにいたその相手が、同じ学校に通うクラスメートの隼人だったからだ。
隼人はあたしらの家の近くに住む幼馴染兼喧嘩相手。
コイツとも、華子と同じくらいによく衝突する。
なのに、なぜか一緒に過ごす時間が長いという不思議。
家族ぐるみの付き合いということもあるが、とにかく気がつけばそこには隼人の顔がある。
それくらいに近しい関係なのだ。
まぁ、一緒にいる時間が長いからこそ、いさかいも起きやすいのだろうけど。
それにしてもザマー見ろだ。
何故かと言うと、どうやら隼人もなにか喋ろうとしていたようだが、あたしの方が一足早く言葉が出たことでそのタイミングを逸し、セリフを喉に詰まらせて、悔しそうな顔をしてこちらを睨みつけているのだ。
『ケケッ。あたしの勝ちっ!』
すると場を取り繕うように、軽い咳払いをしてから隼人はまくしたてた。
「おい、ざけんなよ、駄菓子屋! もう少しで大怪我するところだったじゃねーか!」
朝いちから喧嘩を吹っ掛けられた。
文句を言うのは無理もないし、悪いのは百パーセントこっちだけれど、相手が隼人なら話は別。
しかもムカツクことに、駄菓子屋だぁ?
「うるせーんだよ、この馬鹿! 誰の家が駄菓子屋だ! 大体テメーはその駄菓子屋にいつも買い物にきて世話になっているんじゃねぇか!」
そうなのだ。
こいつはいつもウチのお店で買い物をし、しかもたっぷりのサービスを受けているにも関わらず、こんなふざけたことを言いのけるのだ。
男の子がいない我が家なだけに隼人はまるで息子のような扱い。
パパもママも、こんな隼人ごときに過剰なサービスなんてする必要はないのに。
そして華子も。
「早川君、大丈夫だった?」
華子が心配そうに声をかけた。
それも決してあたしには使わないような柔らかい声音でもって。
ここでさらにカチンとくる。
お前はどっちの味方なんだよ!
って隼人に決まっているか。
だって、好きなんだもんな。
隼人のことを。
素知らぬふりをしているつもりだろうけれど、そんなことはお見通しだよ?
用心深い華子なだけに、クラスメイトも、パパもママも気が付いていないようだけど、そんな彼ら彼女らはともかくとして、あたしの眼は誤魔化せられないってば。
例の双子ならではのフィーリングが、その事実をばっちりと教えてくれるんだから。
するとなぜだか、隼人も少し照れたような顔をして目を伏せ、人差し指で顎のあたりをかきながらポツリともらした。
ん、なんだなんだ、コイツの態度?
「ああ。まぁ……でもなんで華子が前なんだ? チャリの運転なんてメスゴリラにやらせればいいじゃん」
「誰がメスゴリラだ! 死にてぇのか!」
隼人も華子に似て、口だけは達者なのだ。
「うるせーな。朝っぱらからでけー声で吠えるな、この野獣が。チャリの一つもこげねぇと、サーカスデビューが遠のくぞ」
あたし、一気に沸騰。
「テメェ、ちょっとチャリから降りろ!」
「けっ、かまってられねぇや。ところでよ、この間おまえんとこで買ったジャンプだけど一週間前のだったぞ。金返せよな」
「アホ! 雑誌は返品不可に決まってんだろ。読むだけ読んで返品とか虫がいいっての。それにどうせ合併号でも間違って買ったんだろうが。ザマー見やがれ」
そう畳みかけると、つまらなそうな顔で地面に唾を吐き捨てて隼人は言った。
「この減らず口が。古いのは食品だけにしてくれよ。雑誌まで賞味期限切れだと、もうお前の店で売れる物無くなるだろうが」
そう言い捨てると、隼人は自転車をこぎ始めた。
怒りに震えるあたし。
「どっちが減らず口だ! おい、華子、なんであいつを轢き殺さなかったんだ!」
すると華子は冷めた視線であたしを見ながら、いつもの憮然としたトーンに戻って言った。
「なんでもなにも、ブレーキ掛けたのあんたでしょうが」
うっ、そうだった……。
こんなことなら、あんな命がけのスタントなんて決行するんじゃなかった!
とか、もたもたしている場合じゃないかも。
急ぎ時計に目をやると、時刻は八時二十分。
始業までもう十分しかない。
このまま遅刻しては皆勤を逃してしまうではないか!
「やべぇぞ華子! 遅刻しちまう!」
そう言うと華子は自転車のスタンドをかけてから降り、あたしに向かって顎で運転席の方をしゃくった。
「お前が前な」
無言だけど、コイツの言いたいことなどすぐにわかる。
『くそ、わざと挑発的な態度とっていやがるな』
皆勤どころか遅刻もなんとも思わないようなヤツだから、こんな状況屁でもないのだ。
保健室を仮眠室代わりに使っているぐらいだし。
一転あたしはというと、小中と無遅刻無欠席の健康優良かつ模範的な生徒。というより、できない勉強の代わりと言ってはなんだけど出席だけでもちゃんとしていないとさすがにまずいだろう、というのが本音だったりする。
まぁ、それよりも学校、というより友達と会いに行くのが楽しいからね。
だらか当然高校でも皆勤を狙っているだけに、この状況はよろしくない。
『くっそ~! 華子、すげーむかつくぜ!』
けどもう選択の余地などない。
あたしが全力でチャリンコをブッ飛ばさないことには、確実に間にあわないだろうから。
にしても、今朝はマジでついていないわ。
元はと言えば、コイツのチャリのチェーンが外れていたのが発端なのに、なんであたしがこんな目に。
でも、ここで恨みったらしい顔をしては、それこそ華子の思う壺。
まったく気にしていません!てな、明るい顔で返答した。
「おしっ! もたもたしていられねぇぞ。華子、さっさと後ろに乗れ!」
あたしは豪快にサドルにまたがったが、華子はわざとかなんだか知らないが、ゆっくりと歩み寄ってから静かに腰を下ろした。
『ホントにコイツだけは!』
急げっての、こんにゃろめ!
すると何を思ったのか、華子が言う。
「あのさ、なんでこの自転車こんなに傷付いているわけ? 入学したときまったく同じものを一緒に買ってもらったのに、なんであんたの自転車の方はこんなにまでコテンコテンになっているの?」
「運転していてなんかギシギシきしむし。あとさ、さっきブレーキかけた時に反応悪いと思ったからちょっと見たんだけど、油が切れて錆びているのはなぜ? 普通に乗っているだけならこんなにならないと思うけど」
『マズっ!』
それは、土手の傾斜から全力で下ってそのまま川に突っ込むとか、壁に向かっての自転車チキンランで失敗して激突したとりとか……まぁ、あたしの乱暴な使い方に原因があるんだよね。
でも、この話は回避しないと。
今朝もコイツの本を傷めたことでママから(いつものことではあるけど)物を大事にするように言われたばかりだし。
このこともママに告げ口されると、いろいろと立場が悪くなる。
これ以上この話題をすることに危険を感じたので、打ち消すような大声を出して無理やりに話を遮った。
「おら、しっかりつかまっていろよ! 飛ばすぞ!」
そういうとあたしは、ペダルを思いっきり踏み込んで、風になれとばかりに速度を上げた。