上がってきた魚
上ってきた魚
入植して一年ほどが過ぎた、ある朝のことである。十一月の初めで暦の上では初夏ということになるのだが、日本の真夏のように暑い朝だった。
私は十二歳で、スペイン語小学校二年生だった。日本ではもう中学生なのだが、スペイン語がわからないので、小学二年生に入学したのである。
その日はちょうど日曜日だった。
朝早くから牧場の見回りに出かけていた父が、帰ってきた。父は家に入るなり「おい、魚が上がってきとるぞ」と二階にいる私にも聞こえるような大きな声でいった。
「えっ、魚?」私は今起きたばかりで、寝ぼけ眼をこすりながら、階下に降りていくと、父は玄関口に置いてある、自転車を出しているところである。
やたら慌てた様子で「カニンバタがあがってきとるぞ。峰元さんらを呼んでくるけん」と、言うが早いか、自転車に飛び乗って出かけていった。魚が逃げないうちにと、慌てているのだろう。炊事場にいた母が
「峰元さんのうちには大きな網があるから、それを借りにいたんだろう」
「網で獲れるんで」と、私が聞くと
「峰元さんらにも来てもらわんと、獲れまい」といいながら、母は、かまどの消えかけた火を、煙たそうに顔をしかめて覗き込みながら薪をくべている。
うちの農地は、当時アルトパラナ移住地の一番端っこで、南側の境に幅四メートルほどのサンイグナシオ川が流れていた。
そうか、魚が上がってきたのか。私はなんだかうきうきしてきた。大きな魚が獲れるかもしれない。
サンイグナシオ川で、小さいピンコ(八センチほどの小魚)は釣ったことはあるが、大きな魚の群れが上がってきたというのは初めてである。
ちょうど日曜日だし、弟もまだ二階で寝ている。私は二階の階段を半分ほど上がって、床より少々高くなった顎を突き出して、まだ寝ている弟に
「魚があがって来たいよるよ。峰元さんら来るいよるけん、はよ起きてこいや」と、大声で言った。なにしろ間仕切りのない小さい家なので、階段を半分ぐらい上がると、向こうの端に寝ている弟の顔が見えるのである。
弟もぐっすり寝ているところを起こされて、ぐずぐずしながら起きてきた。
私と弟が遅い朝ごはんを食べているところへ、どやどやと峰元さん達がやってきた。それぞれ馬に乗ったり、自転車に乗ったりしてやって来たのである。
峰元さんの家には、二十六歳の長男を頭に、五人も息子がいるのだ。それに娘が三人いて、八人もの子沢山である。稼動力があるので何でも出来るのだ。
父は何かといえば隣の峰元さん家族を頼りにしていて、仮小屋を造るときも、本宅を建てるときも手伝ってもらった。
さて、どやどやとやって来た、峰元さん家族、このときは、次男と五男は来なくて、三人の息子たちと、父親とで四人来た。
さっそく、サンイグナシオ川へ大きな網を担いで、牧場の中をぞろぞろと皆で出かける。私と弟も皆の後についていく。川に近いところ、十二町歩ほど牧場になっていて、牧場を通らなければ川にいけないのだ。
空は雲一つなく晴れ渡っていた。時刻は九時ごろで、東の原始林の木々の上に太陽が昇り始めていた。まだ、日陰のほうは露が残っていて、地下足袋を濡らしていく。草を食んでいた牧場の牛が、驚いたように顔を上げてこちらのほうを見ている。
このころ、もう牛は十五頭ぐらいいた。茶色や白牛に、角のない三角の頭をした牛や、背中にこぶのある牛もいた。
所々に焼け残った木々が残っている。まっすぐのまま横たわっている大きな木もあれば、枝が跳ね上がって、天を突いているのもある。
家から、サンイグナシオ川まで、五百メートルほどあった。
川に沿って十メートルほどは、木々が原始林のまま残されている。下草は刈り取って牧草が植えてある。この川が土地境で、有刺鉄線は張られていない。川の向こうはどこまで続くかわからない、うっそうと生い茂った原始林だ。川岸は木々の枝や竹が垂れ下がって、川を半分ほど覆っている。
この川を渡って牛が逃げるようなことはないのだ。
川沿いを皆で歩いて、魚の群れを探す。ほとんど平坦な土地なので、ほんの僅かな落差でゆっくりと音もなく流れている。流れがよどんでいるところもあれば、浅くなって岩が飛び出しているところもある。
その浅瀬のところに魚の群れを見つけたようである。
「おったぞ」と、私より十メートルほど先を歩いていた、峰元さんちの三男が、右手をラッパのように口の横に当てて大きな声で知らせる。
「おったか」と大きな声で返事を返して、皆三男のほうへ駆け寄っていく。
川を覗いてみると、いるいる、長さ三十センチほどの、黒っぽい灰色の魚が、上流に向かって、群れになって泳いでいる。二十匹ほどの魚の群れが、ほとんど一列になって並んでいる。流れに流されそうになって、後戻りしてはまた尾鰭をパタパタと動かして前に進む。ちょうど浅いところを泳いでいて、背鰭が水面より出ているのもいる。
このカニンバタという魚は、歯のない魚で水の中の苔を食べているので、ミミズなどを餌に釣竿を垂れても、まず食いつかない。釣れない魚なので、網で獲るより以外に方法がないのだ。
「八千代と朝日出(弟の名前)はうえに行こうや」と、三男が言って、私と弟は三男について上へ向かう。三男の弟の四男もいっしょに上に向かう。峰元のおじさんと父と長男は下へ向かった。
十メートルほど上流へ歩いて、網を持って川へ入る。皆地下足袋を脱いではだしである。ひんやりと水が冷たい。私は苔で滑りそうなずるずるした岩の上を、恐る恐る歩く。バシャっと水音がしたので、振り向くと、弟がもう足を滑らせて水の中にしりもちをついている。三男が横目でちらっと見て「おう、すべるなよ」と、言いながら網を広げる。私は網を受け取って、やっと起き上がった弟に渡す。次に四男が受け取る。
網の長さはちょうど川幅ぐらいで、高さは私が持ち上げると、首の辺りまできた。一メートルぐらいだろう。
両端に三男と四男。中に弟と私。四人並んで網を垂れて、そろそろと川を下っていく。
浅いところは足首が浸かるぐらいだが、深いところは私の胴の辺りまで水が来て、着ているブラウスがびしょ濡れになった。
両端にいる、三男と四男は時々網を横に引っ張ったりして、魚が逃げ出さないように気を配っている。網の下は、川底についてないといけない。深くなった岩の間は、足で押さえながら下っていく。
何メートルか下がると、迂回した川下のほうから、父と峰元さんたちが網を張って上がってくるのが見えた。
「もうすぐ追い込むぞ」
「気をつけろよ」と口々に言いながら、距離が狭まっていく。距離が五メートルほどになって、魚が跳ね上がった。行き場のなくなった魚が列を乱して右往左往する。四メートル、三メートル、二メートルと、じわじわと追い込む。
魚は逃げ出そうと網の目に頭を突っ込んだり、体をぶつけて、網に絡まる。魚の鰓や背鰭が網に引っかかって、網が激しく揺れる。すると、長男が、魚を掴んで岸へ放りあげた。目にもとまらぬ早業だ。三男、四男もそれに倣って、魚を掴む。掴み損ねて逃げたのもいるが、何匹か岸に放りあげられて、飛び跳ねている。それを、峰元さんと、父とが掴んで麻袋に入れる。
最後に網の端を持って、川岸に引っ張り上げる。皆で力を合わせて、両方の網を同時に引っ張り上げるのだ。岸が崩れて大量の土が川の中に落ち込んだ。
岸の上に上がって跳ねる魚を網からはずして、麻袋に放り込む。それを峰元さん達兄弟が、それぞれ背中に背負って、家に向かう。
一匹の魚は二キロほどの重さである。
大漁の魚を持って帰ると、母が早速何匹かさばいて刺身にして出してきた。
皆、何ヶ月、いや移住して以来、この一年ほど魚など食べてなかったので、大喜びである。わさびはないが、母が作った自家製の醤油をかける。カニンバタは枝骨の多い魚で、気をつけて食べないと口の中に刺さるときがある。父と峰元のおじさんや息子さん達は辛いカンニャ(さとうきび酒)を飲む。このころまだビールやジュースなどなかったのである。私や弟は水を飲む。
ともかく幾つものアルミニュームの皿に、ツマも添えずに細かく切って、盛られた刺身が瞬く間になくなってしまった。
このサンイグナシオの川にカニンバタがあがって来たのは、このときが最初で最後だった。この小さい川に、なぜカニンバタの群れが上がってきたのか不思議である。
悲しい出来事
それから何ヶ月かして、悲しいことがあった。私と仲良しの、馬のムチャチョが死んでしまった。まだ仮小屋に住んでいたころ、父がパラグアイ人のところから、買ってきた子馬である。あれから一年半ほどが過ぎて、立派な大人の馬になっていた。
夕方、小屋に帰ってきた馬に、水をやりに行った。昼間は広い牧場に放って、そこで草を食んで、夕方にはいつも家の近くの、馬小屋に帰ってくるのだ。水も湧き水があるので、飲んでいるとは思うのだが、水の入ったバケツを持って、馬の様子を見に行くのである。そして、馬の長い顔を撫でてやるのが、私の夕方の日課だった。
水の入ったバケツを馬小屋の策の下を潜らせて押し込むと、馬は口を突っ込んでジュウ~と水を吸い上げる。水を半分ほど飲んで、持ち上げた顔を見て、気が付いたのだが、口の横が腫れている。大人の握りこぶしぐらいに腫れているのだ。私はどうしたのだろうと思い、手で触ってみた。すると馬は驚いたように顔を跳ね上げて後ずさりした。もう日が暮れているので暗くてよく見えないが、腫れているということは、蜂にでも刺されたのだろうと思った。その夜は、馬のことは、さして気にもせず寝てしまった。ただ父には馬の顔が腫れていることを告げておいた。
あくる朝「八千代、起きて来い。馬が寝寄るぞ」という父の声で目が覚めた。父は窓際に立っていて、馬小屋を見ている。馬小屋は、十メートル四方ほどの、遊技場が設けられていて、そこに横たわっているのである。
馬はいつも立てって眠るのだということを父から聞いていた。馬が横に寝てしまったり、腹ばいになると、病気だというのである。
私は寝巻きのまま階段を下りて、馬小屋へ直行した。
馬は横たわったまま、顔を持ち上げたりしているが、苦しそうである。顔を撫たり、腹のほうをさすってやるが、どうすることもできない。まだ口の横は腫れている。
私の後から馬小屋へ来た父が、馬を見てすぐに「原さんを呼んでこう」
と言って、家のほうに引き返して、自転車に乗って出かけていった。
原さんは、日本でも馬を飼っていたそうで、馬のことに詳しいのである。うちと同じ部落で、うちとは、二キロぐらい離れている。
母も馬小屋へ来て、二人で馬の背中を撫でたりしていると、父が原さんを連れて帰ってきた。六十歳ぐらいな、小柄なおじさんである。
原さんは、どうもさそりに刺されるか、蛇にかまれたかだろうという。みみずは毒消しになるので、ミミズを煎じて飲ますといって、父と二人でミミズを掘ってきて、ミルク缶で煎じる。それを原さんが、馬の口をあけて流し込む。
しかし、馬はだんだん毒が回ってくるのか、息苦しそうにもがく。その動きも鈍くなった。そしてついに馬は頭を地面につけてそのまま息をしなくなった。
午前十時ごろ、朝の陽光がまぶしく輝いていた。一瞬あたりの風景が、時間が止まってしまったスライド写真のように見えた。
「どうもお世話になりました」と、後ろのほうで、原さんにお礼を言う父の声が聞こえた。原さんは短く何か言ったようだが、私には聞こえなかった。
父が「馬を埋めないかんのう」と独り言のように言って、納屋のほうへスコップを取りに行った。
馬は牧場の片隅に埋められた。
二歳足らずのりりしい若馬は、あっけなく逝ってしまった。
私が馬の背中に乗せてもらったのは、何回だろうか。最近やっと馬に乗れるようになったばかりで、それまでは手綱の扱いの下手な私を馬鹿にして、乗っても走らないで、そこら辺で頭を下げて草を食べたりするので、一度馬の頭元へ滑り落ちたこともある。
これは、後から聞いた話だが、馬は毒気に弱いという。蛇に噛まれたのなら後があるはずだが、何も噛まれた後は見当たらなかった。さそりだったのか毒蜘蛛だったのかわからないままである。
怖かった事
南米に移住して、いろんな体験をすることになったが、怖い思いをしたこともある。もっとも、人が足を踏み入れたことのないような、ジャングルを開拓しているのだから、何事が起きるかわからない。
これは、入植して二年ほどが過ぎたころである。そのころ弟はドイツ人移住地にある学校へ下宿していて、二週間に一回週末に帰ってくるだけだった。
父がいないと母と二人だけである。
その夜も、父はエンカルナションまで出かけていて、留守だった。
私は、母と二人で、頼りない石油ランプの明かりで、夕食を摂っていた。
二人とも無言のままである。何も話題がないわけではなかった。広大な原始林の静寂が二人を無口にするのである。
生暖かい風が吹き込んできて、ランプの明かりが揺れて、ジジッっと焼けるような音がする。ランプの火屋はきっちりと嵌め込まれているのに、どこから風が入り込むのか、またどこから音が漏れるのか、なおもジリジリと音を発しながら、炎は左右に揺れたり、高く燃え上がったりしてガラスの一部分が、煤で黒くなっている。
私は上目遣いに、盗み見るようにランプの炎を見る。母も同じように見ているようである。ランプの芯の焼け爛れるような音に気をとられるのは、他に何も音がないからでもある。
突然、キキーと自転車のブレーキーの軋む音がして、誰かが来たようである。
すぐに戸の外で、「こんばんわ」という日本人の声がした。そしてもう一度「こんばんわ、峰元じゃが」と言って、戸をたたいた。
カニンバタをいっしょに獲った隣の峰元のおじさんである。
母は、もう戸口のところに立っていて、
「はいはい、今開けますから」と言って、申し訳に付けたような、小さい鍵をはずして、戸を開けた。
外に小柄な峯元のおじさんが立っていた。
「どうしたの」と母が聞く。当時移住地では、夜になって他家を訪れるようなことはあまりなかったので、訝しく思い聞いたのである。
「いや、あのの、この向こうの荒本さんの家に用事があって行とったんじゃけど、どうも自転車がパンクしたようなんじゃ。空気入れかしてくれんか」と言って、じろじろ中を覗いて、かしてくれと言っている本人が空気入れを探しているようである。
空気入れは、板で一メートル四方に囲いをした、井戸の横に立てかけてあった。母がその空気入れを、峯元のおじさんに手渡す。
おじさんは空気入れを持って、自転車の置いてあるところへ行く。その後を母がランプを下げてついて行く。私もその後に続く。
おじさんは、自転車に空気を入れ始めた。力強く空気入れのポンプを押すが、どこからか空気が抜けているのか、なかなかタイヤが膨らんでこない。
「チュウブの張替えせんといかんのでないんで」と母が言う。
「うちの家までもてばえんじゃ」と言って、峯元のおじさんは、なおも一生懸命ポンプを押している。
そこへ、大通りへ続く道のほうから、薄暗い中を誰かがこっちへやってくる。犬のポチが、喜んで飛び出していく。
「あ、お父ちゃん、帰った」と、私も犬の後を追いかける。犬も吠えないし、私はてっきり父が帰ったものと思い、門の外まで走り出たのである。
家の周りは、有刺鉄線が張られていて、門というのはリヤカーが通れるぐらいな間がただ開いているだけで、戸らしき物もないのだ。有刺鉄線の杭が、そこだけ二本少し高くなっているので、これが門柱ということだろう。
私は傍まで走っていってギョっとなった。父ではない。暗くてよく見えないが、パラグアイ人の若い男だった。
犬はまだ嬉しそうに、飛び跳ねるように走り回っている。このバカ犬と思ったが、叱っている暇などない。私は、門の中へ走りこんだ。走りこむやいなや
「現地人が来た」ともう、がたがた震えながら言う。なにしろ顎の辺りが痙攣しているようで、歯の辺りもガチガチ鳴っているので、まともにしゃべれたかどうか定かではない。
当時、移住地にいるパラグアイ人を現地人と呼んでいた。まだ、国土の半分以上が未開地で、教育水準も低く、跣で掘っ立て小屋に住みインデアンのような生活をしている人が多かった。
そういうところなので、入植と同時に、伐採や畑仕事に流れ込んできた、現地の人を、教育のない野蛮な人と恐れていた。
事実、強盗、殺人などの犠牲になった人は多いのである。
ちょうど、この一ヶ月ほど前、同じ部落の子供二人が行方不明になって、そのことで、父と隣の村木のおじさんと、その行方不明になった子供のお父さんが、エンカルナションの警察まで、出かけていたのである。
この事件は、不思議な事件だった。
サンイグナシオ川で遊んでいた三才の男の子と四歳の女の子が行方不明になったのである。隣同士の子供でサンイグナシオ川は、うちと同じで土地境にあって、いつも遊びに行っていたそうである。
その日、急にいなくなって、近くにいた、男の子の兄や女の子の姉が探したのだが見つからず、五、六軒ある部落に連絡が回ったのである。
さあ、それからが大変で、移住地の人達総出で、三日も四日も、原始林の中を探し回ったが、着ていた服の端切れすら見つからなかった。もちろん、警察も出動して、ヘリコブターまで飛ばして探したが見つからなかった。完全に子供二人が消えてしまったのである。
移住地では、人買いがいるとか、ジャングルの中でトラに食われたとか、いろんな噂が飛んだ。そのうち、何人か容疑者が出たが、確証がつかめず、この事件は迷宮入りになってしまった。
さて、その現地人の怪しい男は、さっさと門を通り越して、母と峰元のおじさんの傍に来て突っ立った。男は片足を伸ばして腕を組んで、休めの姿勢をとっている。
母も峰元のおじさんも驚いて見ているだけで、何も言わない。私はちょっと落ち着きを取り戻して「お腹空いてるの」と聞いてみた。落ち着きを取り戻したといっても、まだ声は震えている。
男はぶつぶつとわけの分からない言葉を口走った。なにを言ってるのかさっぱりわからない。いったいなにが目的なのか。
峰元のおじさんが「なかに入ろう」と言った。自転車をついて家の戸口のほうに向かうおじさんの横に、母も私も無言で従う。
おじさんは戸口のところで、母に自転車を渡すと、すぐに踵を返して男の前に立ちはだかる。
男は私達の後についてきて、おじさんと二メートルほど間を置いて立っていた。男も用心しているようである。このときおじさんは六十歳ぐらいだったが、この暗さでは年齢など見当がつかないだろう。なにをされるかと、男も用心しているのである。
「鉄砲持って来い」
峰元のおじさんが怒鳴るように言った。私は二階に駆け上がって、鉄砲を下ろしてきておじさんに渡す。その間、何秒かかっただろうか。おじさんと男はにらみ合っていたようである。
鉄砲は日本から持ってきて、たいてい誰の家にもあった。猟をするためと、用心のためだった。
峰元のおじさんが、鉄砲を男の前に突きつけた。男はさすがに驚いて、わけの分からないことを口走って、踵を返して門の外へと歩いて行った。
おじさんも男の後を追いかけて行って、鉄砲を構えたまま、門のところに立っている。そのおじさんの後ろに引っ付くようにして、私と母が立っている。男が、遠くの闇のほうに遠ざかっていくのを見届けて、三人一緒に家に入る。
まず鍵をかけて、炊事場のテーブルを囲んで座る。おじさんは横に鉄砲を置いたままである。いつ引き返してくるかわからない。
私は家に入ると、すぐに二階に駆け上がって、窓から暗闇の中に目を凝らして、また男が来てないか外のほうを見ていた。
下の階から母とおじさんの話し声が聞こえていたが、そのうち二階にいる私に「村木さんのところへいってくるぞ」と声を投げかけて、二人で出て行ったのである。
そういえば、西隣の村木さんも父と出かけていて、奥さんと赤ちゃんがいるだけだ。一時、外の様子から目を離していた私は、また窓枠に手をついて外を見る。あれ!私は驚いた。もう峰元のおじさんと母が、門のところを歩いて行くのが見えたのである。薄暗い懐中電灯の灯りが、傘ぐらいな大きさの輪になって、おじさんと母の先を行っている。
え~、私一人を置いて行って、後戻りしてあの男が来たらどうするんだ。
私は仰天して、二階から駆け下りた。靴、靴はどこ。靴を探したがランプの明かりでは、靴も草履も見つからない。裸足で走った。
「お母ちゃ~ん」
このときどうして母は私を置いていったのかわからない。必死に走って門より二十メートルほど行ったところで、母とおじさんに追いついたのだが、母は落ち着いていて、走ってきた私を見て、笑ってさえいる。男が草の陰にでも隠れていて、皆が出るのを見届けて、引き返してくるとは思わなかったのか。
私は、はあ、はあ言いながら、おじさんと母の後をついて、五百メートルほどある、西隣の村木さんの家に向かう。
村木さんの家に入る大通りのところで、母は「峰元さん、ここで見張っといて下さい。私が村木さんの家まで行きますから」と、まるで警備員のような口調で言う。そして、私に向かって「お前もおじさんと一緒におれや」などと言って、やたら強がっている。
私は「いやだ、私はおかあちゃんと一緒に行く」と叫ぶように言って母の傍から離れない。私は、もし死ぬようなことがあったら母と一緒のほうがいい、と少々大げさだが、このときは真剣だった。
でも、鉄砲を持って道端に座り込んだおじさんの背中も寂しそうである。
四方八方闇の中で、いつどこから敵が飛び出してくるかわからないのだ。それに道端で見張っていたところで、何にもならないだろう。
村木さんの家は、大通りから百メートルほど入っているが、大通りというのは、当時の海外移住事業団がブルドーザで突いて付けた公道なのである。
その入り口のところで、峰元のおじさんは鉄砲を担いで座っているわけだが、五町歩ほど切り開かれた畑を通って、どこからでも村木さんの家にいけるのである。どうして母が、峰元さんはここで、私は村木さんの奥さんを迎えに行くからなどと粋がっているのかわからない。
どうも、母はこの広大な原始林の中で、展開するドラマを心のどこかで楽しんでいる風である。しかも、まるで主役のような気分で…。
ともかく、村木さんの家に着いて、戸をたたくと、
「お父ちゃん?」などと言って、奥さんがすぐに出てきた。よほどご主人のことを待っていたのだろう。でも、これではあの怪しげな男が来ても、すぐに戸を開けてしまうだろう。
戸を開けると、私と母が立っていたので、「どうしたの」とびっくりして聞いてきた。母が事情を話し、うちの家に来るように言う。驚いて聞いていた奥さんが「ちょっとトイレに行くから待って」と、家から五メートルほど離れてたところにある、一メートル四方ほどの囲いをしたトイレに駆け込む。どうも怖くて、トイレにいけなくて我慢していたようである。
移住地のトイレは、どこでも五メートルも十メートルも離れていた。井戸はたいてい家の近くか、中にあるので、汚いトイレは、外の離れたところに造ったのだろう。
母と私は戸口のところで、突っ立て待っている間に、みょうに落ち着いてきて、ふっと夜空を見上げる。月がなくて無数の星が降るように輝いている。
お星様はこの地球上でおきていることなど、またおきようとしていることなど、何も知らないようである。
トイレから出てきた奥さんは、家の中に走り込むと、すぐに寝ていた赤ちゃんを背負って、おしめなどが入った風呂敷包みを持って出てきた。そして、鞘のついた短刀を見せて、これをもっていれば防備になるから持って行くという。私と母は頷いて、三人と赤ちゃんとで、うちの家に向かう。
峰元のおじさんは大通りのところで、相変わらず鉄砲を担いで座っていた。
峰元のおじさんも立ち上がって、皆と一緒にうちの家に行く。
二階に上がってなんとなく落ち着いたが、父も隣の村木のおじさんもまだ帰ってこない。皆寝る気もせず、ランプの灯りに、頭を寄せ合って、さっき、来た怪しげなパラグアイ人は誰だったのだろう、何しに来たんだろう、とぼそぼそと話し合っている。
何も知らない赤ちゃんは、お母さんの膝の上でニコニコ笑っている。ぐっすり眠っていたのだが、目が覚めたのだろう。
暫くして、すたすたと誰かの足音がした。皆ぎょっとなって、息を殺していると、「お~い、今帰ったぞ」と、戸をたたく。
父の声である。その声を聞いて皆ほっとした。こんどこそ父が帰ってきた。私は二階から走り降りて、戸を開ける。
二階から母も降りてくるなり、さっき来た怪しげな男のことを告げる。そこへ隣の奥さんも降りてきて「父ちゃんは?」と、自分の旦那さんのことを、心配そうに聞く。父は「今、わしと一緒に帰ってきたよ」と言う。奥さんは、ほっとしたように「そう、よかった。それならうちも家に帰るわ」と、また赤ちゃんを背負って家に向かうのに、私と母が途中まで、一緒に行くことにした。
門を出て、ちょっとして、奥さんが「誰か来てる」と、言って立ち止まる。大きな影がすたすたとこちらへ向かってくる。
ご主人、父と一緒に帰ってきた村木のおじさんだった。
それからまた、村木のおじさんも一緒に皆でうちの家に引き返して、さっき来た怪しげな男のことや、子供が行方不明になったことなど、ほとんど夜明けまで話した。
峰元のおじさんは、とうとうその夜は泊まってあくる朝家に帰った。
あのとき、峰元のおじさんがいなかったら母と二人でどうなっていただろうと思うと今でも、ぞっとする。
何日かして分かったことだが、この怪しいパラグアイ人は、同じ夜、子供が行方不明になった家にも来たそうだ。
この家のお父さんも父と一緒に、子供のことでエンカルナシオンに行っていなかった。お母さんと八歳と六歳ぐらいな男の子がいた。それに近所の、やはり八歳ぐらいな男の子が泊まりに来ていたのである。
犬がワンワン吠えて、家の周りを歩く足音がしたので、たった一つある小さい窓のところに、男の子二人で、両方からマチェテ(蛮刀)を振り上げて、頭を突っ込んだら、ギロチンのように振り下ろすように構えていたそうである。
この窓は上に蝶番が付いていて、突っ張り棒で押し上げるようになっていた。
結局何回か家の周りを回っただけで、帰って行ったそうである。
怪しい男は、女、子供だけしかいなかったことを、知っていたのではないだろうかと思う。子供がいなくなったことと関係あるのだろうか。いまだに分からないままである。




