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ベンチキャプテン

作者: 代々木進

八月の日差し、土と汗が入り混じった匂い、野太い声。

真夏のグラウンドを真黒に焼けた高校生たちが走り回る。

グローブの革のにおい、金属バットの甲高い音、ボールがグローブに収まる音。

立っているだけで汗が吹き出し、そばを歩けば土埃にまみれてしまう。

そんな場所で、信友は声をあげながらノックバットを振る。

「サードっ!」

サードを守る太田の「おうっ!」という野太い声を聞きながら、左手でボールを軽くあげて、その左手を素早くノックバットに戻しバットを振り切る。

三塁線。フェアかファールかぎりぎりのラインの強い打球。太田は一瞬の躊躇もなくグローブを精いっぱい伸ばしながら飛び込む。

そのグローブにボールが入ったと思った次の瞬間には体を起こし、一塁へ投げる。

「ナイッサード!!」

信友が叫ぶと他の守備位置からも怒鳴り声とも思えるような声があがる。

恐らく誰が見ても夏の大会に向けて練習している努力を惜しまない高校球児に見えるだろう。

事実、一人を除けば全員が夏の甲子園を心の底から目指し、明日の試合に向けて練習している。

背番号十のキャプテン、竹内信友を除いて。




俺は周りに合わせて生きてくことができる。

信友はそう思っている。

嫌いな奴もいるし、考え方がどうしても合わない奴もいる。

しかし、そいつらとも笑顔で話すことはできるし、腹を立てずに人並な友達づきあいをすることもできる。

思えばそれは昔からで、クラス替えで仲良くなった友人たちが読書家だったら休み時間に一緒になって本を読み、校庭でドッジボールをするようなら仲間に入り。

喧嘩を吹っ掛けあっているような奴らだったら一緒に喧嘩をしたりもした。

正直どれについてもどうしても嫌だ、と思うことはなかった。

そのかわりに、これは特別大好きだ、と思えることもなかった。

学校の教室で話されるアイドルグループやプロスポーツ、音楽グループの話題に話を合わせることはできてもなぜみんながそんなに熱くなって話すのかはどうしてもわからなかった。

何かに特別な感情を抱くわけでもなく、所詮自分とは無関係な遠くで起きている出来事としか信友にはとらえられなかった。

かといってそれらを嫌うというわけでもなく、話題に上れば話を会わせる程度に盛り上がり、やり過ごしていた。

ときどきこれでいいのかと不安になることはある。

これからずっと自分は何にも特別な感情を抱くことなく人生を過ごしていくのか。

そう考えると確かに少し欝な気分にもなる。

しかし、別に今までやってきたことはどれも嫌いではなかったし、そこそこに楽しくやってこれた。

ならば別にこれからもそれでいいのではないか、むしろそうやって悩んでいる時間をなんとなくでも楽しむ時間にあてた方が得ではないか。

いや、そうに違いない。

信友はそう割り切って考えていた。





「休憩十分!終わったらシートバッティング、ピッチャーは平川!」

ノックが終わり指示を出すと、部員達から野太い返事が返ってくる。

休憩で水を飲むために水飲み場へ行こうとするとサードを守ってた太田が近づいてきた。

「どうだった?俺の華麗なるダイブ?」

そう言いながら肩を組んできたのでその肩をやんわりほどく。

暑苦しいことこの上ない。

「あれ「は」最高だったな」

と信友は苦笑いしながら答えた。

「なんだよその意味ありげな「は」は?」

「その前の三球連続エラーも見てたってことに決まってるでしょ!」

いつの間に現れたのか信友の隣からショートカットのジャージ姿の女子が太田に言った。

太田はいたずらが見つかった子供のような顔で

「マネさん厳しいっすよ」

と笑いながら言って信友もそれにつられて笑った。

するとその女子も

「まったく」

とかなんとか言いながら笑った。

神沼まどか。

この野球部のマネージャーであり、信友の小学校以来の友人だ。

そして信友に野球を始めさせた張本人である。




信友が彼女と出会ったのは小学校三年の時だ。

彼女が隣の市から転校してきて最初に席が隣になったのが信友だったというまぁよくある話ではあるがそれがきっかけで仲良くなった。

今でもその時のことははっきりと覚えている。

隣に座ってこちらが「よろしく」とかそれに類することを言ったら、じっとこちらを見つめ、期待のこもった、だからこそ断ることができない目で

「野球やる気ない?」

と聞いたのだ。

あの時は子供心に驚くより先にあきれたことを昨日のことのように思い出せる。

彼女の父親が少年野球のチームの監督をやっていて、人数がどうしても足りない状態だったからとか、父親が髪の長い男子は嫌いだった(当時信友はスポーツ刈りに近いくらい短い髪形だった)とかという話は全て半強制的にそのチームに連れて行かれて、入団の手続きをとらされた後だった。

とにもかくにも信友は野球を始めた。

嫌なものは特になく、周囲に合わせることができる信友にとって野球をすること自体は問題なく他の色々なことと同様「そこそこに楽しめる」ものだった。

しかし、それでまどかに付きまとわれたのにはさすがに閉口した。

素振りは毎日三百欠かさずやる、腹筋背筋腕立て三十回三セットを毎日から始まり朝起きてから夜寝るまでの生活について細かく指示され、しまいには家に電話までしてくるようになった。

さすがで生活スタイルまでは面倒で変えなかったが素振りと筋トレくらいはやっといた。

それくらいなら別に嫌とも思わなかったし、その頃になるとまどかとはすっかり仲良くなり、その関係がぎくしゃくするのも面倒だと思ったのもある。

それでも野球を始める前と後で、信友は変わった。

朝起きてから筋トレして牛乳を飲んでいたわけではないが、背が急に伸びて筋肉もついた。

親からは「目つきも変わったみたいだね」と言われたが、それは厳しい練習で頬がしまり、顔つきが変わったからだろう。

そのおかげか六年になると少ないメンバーながら三番センターのレギュラーポジションを与えられ、その年、見事地区大会で優勝を果たした。

「中学でも野球やるんだよね?」

少年野球チームを卒団した日、まどかは初めて喋ったときと同じ目で信友に聞いた。

その目に抗うすべもなく、まどかや少年野球のチームから進んだ友人たちとともに中学の野球部に入った。

とくに野球が好きという感情は湧かなかったが、辞めるのも面倒だし、周りに仲が良い友人がいたこともあり野球中心の生活を三年間続けた。

三年間部活しかやってこなかったにも関わらず、まどかを含めて少年野球チーム時代からのメンバーとともに地元の公立高校に合格することができた。

信友は特に深く考えずに野球部に入ることにした。

周りから「お前も入るんだろう?」と当たり前のように言われ、断るのが面倒だったこともあるし、他になにかやりたいことがなかったということもある。

とにかくなんとなくで野球部に入ったのだが、まどかはえらく喜んだ。

「初めてでしょ、自分から野球やるって決めたの。」

なんでそんなに喜ぶかを聞いたらまどかはそう答えた。

その顔を見ていたら、実際はそんなに大した理由がないことは都合よく忘れることになっていた。





「大貫監督いらっしゃいました!」

グラウンドの端に立っていた一年生が緊張した声を出した。

休憩中だった選手が一斉に帽子をとり、やってくる監督の方を向く。

グラウンドの入り口からゆっくりと四十歳くらいの男が入ってくる。

「こんにちはっ!」

信友が叫ぶと周囲はワンテンポ遅らせて「こんにちは!」とそろって叫んだ。

「おっす。どこまでやった?」

大貫監督。

歳は公表されていないが恐らく三十代後半から四十代前半だろう。

見た目は中肉中背の中年男性だが、野球の技術とそれに向けられた情熱は人一倍どころか三倍か四倍はある。

鬼監督というわけではないが、選手をしかるべき時にしかり、ほめるときには徹底的にほめる。野球部員全員から良き指導者と慕われている男だ。

「はいっ、あと二分休憩でシートバッティングです!」

信友が応えると満足そうにうなずき定位置である三塁側ベンチの一番右端に座った。

こうやって考えるとかなりキャプテンらしいキャプテンだと我ながら思う。

同級生のチームメイトとはうまくやれていて、監督とも特に問題はない。指示にまごつくことも慣れれば無くなったし、自分の指示に従ってくれるチームメイトが誇らしかったりもした。

「よしっ!監督来られたし、ちょっと早いけど始めよう!各自準備しよう。」

そう言うとすかさず野太い返事を返してくれる。

当たり前のことだが、信友の立場だとそれすらもありがたがらざるを得ない。

信友はシートバッティングの準備をしているのを眺めながら頭の中で明日の相手の情報を引き出した。

守備は確か右側が甘めだった。バント、バスター系の攻撃は右狙いだな。

大貫から試合の采配を任されることもあるため、シートバッティングでサインを出すのは信友の役目だ。

どうせなら対戦相手を想定して指示を出した方がいいだろう。

「キャプテン。」

練習の準備が整い一番の斎田がこちらの指示を待っている

明日の相手投手は確か初回のコントロールに難ありだ。それなら・・・

「追い込まれるまでウェイト、フォアボール狙いで塁に出たら相手を足でひっかきまわせ。」

斎田は頷くとバッターボックスに向かった。

信友はそれを見送るしかできない。




信友たちが入った野球部は甲子園出場経験こそないものの、練習のレベルは高くまた指導者もよかった。上下関係もいじめやパシリにあうこともなく、学校ですれ違ったら挨拶など信友にとって許容できる範囲内だった。

三年生が引退して、秋の大会が始まると信友はここでも三番センターのレギュラーポジションをもらった。

小学校三年から毎日欠かすことのなかった素振りの甲斐あってか試合でも活躍することができた。

特にプロから注目されるほどではなかったがチームを勝ち進めるには大きく貢献した。

そして四月になると後輩ができた。全員素直でいいやつだった。この時点では。

夏の大会で地区予選のベスト八まで勝ち残って一個上の先輩が引退する時、信友をキャプテンに指名した。

マネージャーのまどかをはじめ、チームメイトは大いに喜んでくれたし信友自身にも断る理由がなかったので引き受けた。

最初はうまくいかずにチームメイトに迷惑をかけたと思うが、それでも慣れるのは早いほうだったんじゃないかと思う。

夏休みが終わるころには落ち着いて的確な指示が出せるようになった。

「両打ちに挑戦してみたらどう?打率上がるんじゃない?」

その夏に周りから言われた。

それまでもまどかやチームメイトにそう言われてときどきふざけて左打ちに挑戦してはいたが、その年の夏から本格的に挑戦した。

特に深い事情があったわけではない。

ただ両方で打てれば片方打てない時の保険にもなるし、昔から打っている感じからすれば俺なら努力次第で習得はできる。

そう思っての両打ち挑戦だった。

結果、夏以降の練習試合を含めた打率は四割八厘、ホームラン三本。

ホームランの三本のうち一本は左で打った。

今考えれば両打ち挑戦とその成功は信友の野球人生の頂点だったかもしれない。

しかし、その両打ち挑戦が結果的に信友を野球人生の頂点から突き落とした。

忘れもしない秋の地方大会三回戦、第二打席。ツーアウト二、三塁のチャンス。

その日最初の打席でヒットを打っていた信友を相手バッテリーは警戒していた。

おそらく緊張もしていたのだろう。

信友も普段はしていた肘へのプロテクターをその打席に限ってしなかった。

ワンストライクスリーボールからの五球目、ピッチャーが投げたボールはキャッチャーミットには届かず、代わりに左打席に入っていた信友の右肘にぶつかり鈍い音をあげて、地面に転がった。

肘が爆発しそうに痛くて、結局その試合を途中退場し病院へ行った。

信友はその試合に受けたデッドボールで右肘の骨を折り、チームは負けた。

医者の診断ではリハビリを含めて元通りに動かすのに十カ月程度かかるとのことだった。

高校生にとっての十カ月は大きい。

しかもこの時点から十カ月ということはリハビリがうまくいかなければ選手として出場できる試合は高校生のうちはもうない可能性もある。

だがどうしようもなかった。

左打席に入るなら自分の利き腕である右肘や右肩にボールが当たる危険は当然考慮すべきだった。

誰も責めることはなかったし責めるつもりはなかった。

相手ピッチャーが悪いわけでもないし、むしろ誰が悪いかと言われればプロテクターをし忘れた信友が悪い。

「これからどうする?」

試合の数日後に大貫監督から聞かれた。

野球部をやめるのか、怪我のリハビリをしながら続けるのか。

結果として信友は野球部に残り、選手としての道も諦めないことに決めた。

正直なぜあの時引退しなかったのかと今では後悔している。

野球に未練などない。

もともと誘われた身だったし、選手生命がほぼ絶たれた状態で残ったところでできることは限られているだろう。

だが受験勉強を今から始める気にはならないし、他にやりたいこともない。

それならだめでもともとで野球をしていてもいいのではないか、そう思ってしまった。

正直、まどかのこともあった。

この時、信友にとってはただの幼馴染以上の存在で、それはまどかにとっても同じだった。

そのまどかと距離ができてしまうのが怖かったのかもしれない。

一度部活の帰りにその話をした。

するとまどかは、信友やさしいね、と笑ってから

「でもきっと違うでしょ、実際野球がしたいからでしょ?」

そう言って

「うち、信友が野球やってる間は邪魔しない。だから思い切りやって。」

てかやらないと許さない、とけらけら笑った。

野球をやりたくて戻ってきたつもりはなかったので否定しようとも思ったのだがやめておいた。

少なくともこの底抜けに明るい幼馴染と一緒にいられる、それなら細かいことは気にすることもない。

そのかわり、引退したらちゃんと話聞いてくれよ。

信友がぼそっと言うとまどかはちょっと頬を赤くしてうれしそうにうなずいた。





一番の斎田は狙い通りにフォアボールをとり、その後足をちらつかせながら盗塁を成功させ三番のヒットで帰ってきた。さらに四番、五番と連続でヒットが飛び出しワンアウト二塁三塁のチャンスとなった。

「どうしますか、キャプテン?」

体は大きくないが引き締まった体つきの坊主頭が話しかけてきた。

「右へゴロだ。強くたたけ。」

なるべくならこいつとは話したくない。周りに不自然でない程度に早めに切り上げようとした。

しかし坊主頭は真面目な顔で

「キャプテン、自分なら外野フライくらいあげられます。狙ってみませんか?」

「いや、右にゴロでいい。」

頑なに言った。

坊主頭は真面目な顔で一瞬こちらを見て

「わかりました。」

と言った。

嘘だな。

周りは気付かないだろう。しかし信友は十分気付く。

あいつの気持ちがわからないわけではない。

右にゴロを狙うということは長打をほとんど捨てるということだ。

長距離ではないが中距離ヒッターくらいの力はあるあいつにとってこのチャンスで長打を捨てるというのは自分の見せ場をなくすということだ。

本人にしてみればやるせないだろう。

しかし、外野フライでもいいということは当然内野フライの可能性が出てくる。

今この場面で求められるのは長打ではなく単打で確実にランナーを迎えることと、アウトカウントを不必要に増やさないことだ。

野球はアウトが増えなければ攻撃は終わらない。

守備側にとって一番アウトを取りやすいのは三振で、その次は打球を取ればいいだけの内野フライだ。

その点ゴロを転がせば野手が取って、投げて、再び取り。踏むもしくはタッチすると動作が多くなり、その中でミスが生まれる可能性は高い。

おそらくあいつもそういったことが分かっていないわけではないはずだ。

ただ信友のいうことを聞くのが嫌なのだろう。

あいつは信友と話すときに顔は真面目にしているが、眼だけはいつもこちらを見下した目つきだ。

「俺が何をしたんだよ。」

周りに気付かれないようにつぶやき、舌打ちをすると小さくため息をついた。

するとタイミングを見計らったようにバッターボックスの坊主頭、橋本義光が振ったバットがキンと甲高い音をあげ、ボールが左中間に飛んでいく。

左中間へのツーベース。

今度は舌打ちなしで小さくため息をついた。





肘のリハビリをしながら信友は野球部でマネージャーと監督代行を足して二で割ったようなことをしていた。

シートバッティングでサインを出したり、練習試合の申し込みをしたり、練習試合によっては一試合采配を任されることもあった。

そんなこんなでリハビリ期間中もそんなに退屈せずに過ごせた。

そして信友たちにとって最後のシーズンが始まり、二個下の後輩ができて、それにも慣れてきた五月の連休明け。

予定よりかなり早く医者から野球部復帰の許可が出た。

数日間ティーバッティングや素振りでバットを体に慣らし、フリーバッティングで実際に打席に入る日が来た。

おそらく全部員から注目されていただろう。

信友自身も気持ちが軽く昂ぶっていた。

右のバッティングピッチャーだったので左打席に入る。

右肘の回復を見るのだからこれでもいいだろう。

ピッチャーが振りかぶる。

信友は肩の力を抜き、ゆったりとバットを構えた。

自信満々というほどではなかったが、特に不安に感じることはなかった。

クリーンヒットとまではいかなくても、しばらく打てばバットの芯にあてることくらいはできるだろう。

そう思っていた。

しかし、ピッチャーがボールを投げた瞬間、ボールがこちらへ向かってきた気がした。

体が固まり勝手に左足が半歩ホームベースから下がり体を右にひねりピッチャーに背を向ける形になってしまった。

ミットに収まったボールを見ると外角いっぱいに入ったストライクだった。

その後何度やってもおなしだった。

バットにボールが当たるどころか、バットを振りだすこともできない。

右打席だとまだましなのだが、それでも腰が引けながらかろうじてバットに当てる程度だった。

周囲の視線がどんどん冷めていくのがわかる。

同級生の視線は期待から同情に、そして下級生ははっきりと失望した顔をした。

「多分PTSD(心的外傷後ストレス障害)みたいなもんだろう。デッドボールのトラウマが思っているよりひどいのかもしれない。」

大貫監督からはそう言われた。

ちょっとリハビリがうまくいったと思ったけど、世の中そんなにうまくいくことばっかじゃないか、そんな風に思っていた。

部員の大半は同情的だった。

デッドボールを食らって骨を折った。そのトラウマが抜けていない。

当然と言えば当然だろう。

だが信友はそれに加えてキャプテンだった。

どうしても日常的に上から物事を言わなくてはならないことが出てくる。

常日頃から面白く思わない人間がでてきてしまうのは仕方ない。

その不満を今まで信友は自分の野球の実力で押さえていた面があった。

あの人は今ひじを壊してるけど、実際はすごい選手なんだ。

だからちょっとくらい上から命令されても仕方ない。

実際選手としてはすごく尊敬できる選手だったし。

そんな話をしていた部員たちがバッティング練習を見たとたん態度を変えるのは当然の流れだろう。

その中心にいたのが橋本義光だった。

義光は体こそ大きくないもののバネのある引き締まった体をしていて、おそらく信友の一個下の中では野球のセンスは一番だろう。

信友が戦線離脱してからセンターに入り、打順も六番で固定され三割近い打率を残し、走・攻・守と三テンポそろった選手として監督の期待も高かった。

その義光から失望され、キャプテンとしての尊厳が保たれていないと気付かされたのはフリーバッティングの日から三日ほど経ってだった。

その日のシートバッティングで信友の指示をまるっきり無視したとしか思えないプレーをした義光を呼び出し、問いただした。

なぜ指示に従わなかったのか、選手がそれぞれ好き勝手やったら勝てる試合も勝てなくなってしまう。お前はそれを理解したうえでやっているのか、と。

すると義光は真面目な顔で、穏やかな声でこう言い切った。

「しばらく試合に出てない人の指示より、試合慣れしている自分の勘を信じました。」

そして、どうやったらそんな器用なまねができるのか知らないが、確かに義光は眼だけでこちらを見下し、嘲り、笑った。

さらに状況を厄介にしたのは、義光がまどかに恋心を抱いてしまったことだ。

まどかも最初はやんわりと断っていたらしいが、最終的には信友の名前を出してしまったらしい。

義光からしてみれば守れない上にボールを怖がって打てないくせにキャプテンで偉ぶっている男に恋の相手をとられたということだ。

状況だけ見れば我ながら弁論の余地がない。

まどかには気にしないように言ったが、正直状況としてはかなり苦しかった。

同級生の同情もありがたいはありがたいのだが、互いに気を使っているのがわかり正直気づまりすることもしばしばだった。

下級生の一部から完全に舐められ、無視に近い扱いを受け、同級生の同情という名の気遣いの嵐に耐える。

正直野球部を辞めたくなった。

選手としてまともな活躍も望めない、キャプテンとしては下級生に無視をされる、同級生とは気遣いあい。

疲れてしまっていた。

極限状態に限りなく近い状態だった。

それでも信友は野球部に残る道を選んだ。

一応それらしい理由として、下級生の嫌がらせに負けて辞めたみたいでいやだというものを用意してはいたが、信友自身はまどかの存在が大きいのではないかと思っている。

ここで野球部を離れてしまえば義光にこれ以上ないチャンスを与えてしまうこととなる。

それは信友としてはなるべく避けたかった。

野球部、そしてまどかと距離をおきたくはないが、野球部を続けるのも辛い。

今からキャプテンだけ降りたところで状況が改善するとも思えない。

そして信友はなるべく早い引退を望む野球部員となり、この野球部で唯一甲子園を目指さない背番号十のキャプテンとなった。





「竹内!」

シートバッティングの終わりを告げる合図を出し、仕上げのランニングに入ろうとした時に大貫監督から呼ばれた。

「なんでしょう?」

「一打席打ってみろ。」

一瞬空気が凍り、すぐに固まっていた分を取り戻すかのようにざわつきだした。

あのフリーバッティングの日からも時々打席にも入ったし、素振りやティーバッティングは欠かさなかった。

恐怖を克服するために審判をやったりもした。

しかし、どれもあまりうまくいかなかった。

ヒット性のあたりがないわけではないが力ない打球が外野の前にポトリと落ちるのがせいぜいだった。

部員たちが監督の意図を飲みこめずにざわざわと騒ぐ。

「ギャーギャー騒ぐな!竹内!黙って打席に入れ。平川!もう一人だけ投げろ。」

大貫が声を荒げる。

声を荒げること自体珍しくはないのだが、こんな理不尽な怒り方は三年間大貫に指導してもらって初めてだった。

一瞬義光と眼が合う。

どうせできないだろう、やるだけ無駄だろう。

眼がそう語ってる。

残念ながら信友自身もそう思う。

しかし・・・

「わかりました。平川、一打席だけ頼む。」

そう言っていつも使っていたバットとヘルメットを手に取り右打席に向かう。

なるべくチームメイトの方を見ないようにした。

おそらくみんな、なんで今さら、といった表情をしているに違いない。

確かに今さらだ。

しかし、明日の相手は春の大会でベスト四、この大会の優勝候補だ。

負ければそれで信友たちは引退。

勝つか負けるかはわからないが、負ける可能性の方が正直高い。

それならその前に一度くらい打っておきたい。

もしかすると監督もそれを見越して少し無理やりを装い信友を打たせようとしているのかもしれない。

だとしたら、本当にいい指導者に当たったと思う。

「さぁ、来い。」

右打席に入り構えながらマウンド上の平川に向かって言う。

平川は頷くと振りかぶった。

信友もバットを構える。

初級、アウトコース低めいっぱいのストレート。

普通なら初球から手を出すようなボールではない。が、今の信友は内側に投げられるとほぼ終わりだ。

厳しいコースだが手を出した。一塁線に強めのゴロが転がるがファールボール。

次のボールは高めに外れてワン・ワン。

次の三球目、スライダー気味のボールがインコースに入ってきた。

バットを出そうとするが、恐怖で軸足がぶれてしまい結局手を出せずにストライク。

これでツーストライク・ワンボール。

恐らく次で決めてくるだろう、それも手の出ないインコースで。

初球のアウトコースを仕留められなかった時点で、信友にほぼ勝ち目はないのはわかっていた。

しかし最後の一あがき、インコースにヤマを張って待つことにした。

駄目でもともと、打てたらラッキーだ。

平川が振りかぶる。

一瞬これで打てたら明日出番があるのかな、などとちらっと考えるがすぐに集中を戻す。

ボールが放たれた。

予想通りインコース。

信友は思い切り踏み込んだ。

上半身がのけぞりそうになるのを勢いで押さえつけ、最後は眼をつぶりながらバットを振りぬく。

キン、とバットが甲高い音をあげボールが高々と夏の青空に上がる。

だんだんと力をなくし、頂点に達するとそれが徐々に高度を下げてくる。

ボールが高度をさげる、そして。

ポス、という音とともに平川のグラブに収まった。

やっぱり世の中うまくいかないか。

そう苦笑しながら平川に

「ありがとうございました。」

とヘルメットをとり頭を下げる。

頭をあげて大貫監督に目をやると、一瞬無表情にこちらを見てから

「ランニング、終わったら各自ダウンとストレッチ。」

全員が野太い声で返事し、何もなかったかのように残りの時間はすすめられた。





練習終了後のミーティングも普段通りだった。

明日の集合時間と注意点を簡単に言う。

そして最後に

「明日はかなり厳しい戦いになるが、このチームのベストの力が出れば勝てない相手じゃない。明日は全力で勝ちにいくぞ。」

おす、と全員野太い声で返事をする。

勝ちに行くということは俺の出番はなさそうだな、と一瞬考えたがそれならそれで構わないとも思った。

最後に打たせてもらえたし、明日で引退できるかもしれない。

そう考えると、やっと肩の荷が下りるという安堵感を感じる。

「それでは解散!また明日。」

したーっす、と帽子をとり頭を下げる。

これも今日が最後になるかもしれない、そう思うと気合いが入った。





その日、いつも通りまどかと一緒に帰った。

「あの時、これで打てれば明日試合出れるかもって一瞬考えたでしょ?」

道の途中でまどかに指摘された。

あの時を聞き返すほど信友も鈍感ではない。

少しあきれた声を混じらせ

「よくわかるなぁ、エスパーかなんかか?」

と聞いた。

するとまどかはおかしそうに

「信友は表情には出さないんだけどねー、なんとなくわかっちゃうんだよねー。」

と言った。

そう言われてみれば昔からまどかに嘘をつきとおした記憶がない。

「敵わねぇな。」

と笑いながら言った。

ただ、さすがにまどかにも早く引退したいということは言っていないし、野球に大した未練がないことも言っていない。

その嘘だけがばれないかどうか心配だったが、この嘘は人生で初めてまどかに嘘をつきとおせそうだ。

後味はよくないが、こればかりは仕方ないだろう。

そう思ってふと空を見上げると、見事な夕焼けだった。

「ねぇ。」

まどかが話しかけてきた。

「うん?」

「もし明日試合に出ることになったら・・・」

「ちょっと待てよ。」

信友は苦笑した。

「監督が言ってたの聞いただろう?明日はベストメンバーで行くって。今のベストに俺は入ってないよ。」

「そうじゃないの。」

珍しくまどかは静かに首を横に振った。

「監督の考えとかはどうでもいい。今うちは信友の話をしているの。」

有無を言わせぬ言い方に信友は何も言えなくなってしまった。

一瞬の沈黙。

そして

「チームのためとか考えるんじゃなくて、信友自身が一番納得できるフルスイングをしてきて。きっとそれがみんなのためになるから。」

約束してね、とまっすぐ目を見て静かに言った。

普段明るく話すまどかとのギャップに驚いてしまい思わず

「おぅ。」

と言ってしまった。

それからは普段通りのまどかに戻った。

もし試合に出られたら、か。

今日の結果が違えば話は違ったかもしれないけど、ピッチャーフライだもんな。

あるとすれば試合が決まってから最後の思い出作りといったところだろうか。

さすがの信友もそんな展開にはなってほしくない。

しかし最後まで信友が出る可能性を信じてくれている幼馴染に信友は心の中で心の底から感謝した。

そして、もう一度夕焼けを見上げる。

明日の今頃俺はどんな気分で夕焼けを見ているのだろう。

試合に勝ってまどかやチームメイトが喜ぶ姿を見ながらも、引退が伸びたと苦笑しているか、それとも野球部生活とサヨナラできると内心ホッとしながら周りに合わせて悔しがるか。

明日になってのお楽しみだな。

そんなことを考えながら歩きなれた道をまどかと二人で歩いた。





次の日。

試合は予想通り厳しい試合になった。

先制したのはこちらだった。

予想通りエースである左のアンダースローの代わりに先発した、左の体が大きい背番号三は初回コントロールが定まらずにフォアボールとヒットで二点先制した。

しかしその後制球が定まりだすと背番号三の重い球を打ち崩せずに試合が進む。

そして五回表、相手の一番にフォアボールで粘られた揚句フォアボールを与え盗塁されると、二番にセーフティーバント・エンドランを決められ、無理に二番を刺そうとする間に二塁にいた一番がホームイン。

完全に動揺したところを狙われ、三番、四番に連続ツーベースを許してあっさり二―三と逆転される。

その裏からはショートにいた右のスリークウォーターが登板し、こちらにも抑えられ得点できず。

しかし、こちらも踏ん張りそれ以上の得点を許さない。

そのまま五回以降均衡が保たれ、回は気付けば最終回九回の裏。

相手はこの回から右のオーバーハンドの背番号八にピッチャーを変えた。

事前の調査によれば球速はマックス百五十近く、それにナックルボールを持っているという。

体力不足と、センターとしての運動能力の高さから背番号は八だが、条件がそろえばプロにも注目を浴びるピッチャーだろう。

勝ち目はないか。

信友は思ってしまった。

点差は一点とはいえ、百五十キロ近い速球も、ナックルボールも信友たちは打ったことがない。

このまま一点差でゲームセットか。

それならまぁ恰好はつくかな。

そんなことを考えていると、三番の大崎がセンター前へのポテンヒットで出た。

ランナー一塁でバッターボックスに入るのは四番の太田だ。

信友が試合に出られなくなってからは、太田が基本的にずっと四番を打ってきた。

決して安定して四番の役割を果たしていたとはいえないが、努力もしていたし、ここぞというところでの長打と、ムードメーカー的な役割で何度もチームを救ってきた。

その太田への初球、太田は恐らく直球にヤマを張っていたのだろう。

しかし相手に読まれナックルに空振りでワンストライク。

ふと横を見ると義光が体をほぐしていた。

六番バッターだからこの太田の打席が終わったらネクストに入らなければならない。

それまでリラックスできるときにリラックスしているのだろう。

もし・・・

ふと思った。

もしあの時デッドボールを食らってなかったら、今俺はここで本気で甲子園を目指しただろうか。

意味のない質問だと十分わかっている。

もし悩んで過去が変わるならばいくらでも悩むという話だろう。

しかしそれでも、信友は考えた。

どうだろう。

正直野球が嫌いとは一度も思ったことはなかったし、今この部にいる大半は少年野球チームから一緒の仲間だ。

信友にとって特に目指さないという理由はない。

しかし、改めて考えて本当に本気で目指していたかと言われるとそれはまた疑問だ。

そんなことを考えている間に太田はインコースへの変化球を見逃しツーストライク。

あのピッチャーナックル以外の変化球もあるのか。

信友は舌を巻いた。

恐らくバッターボックスの太田も同じ気持ちなのだろう。

驚きを必死で隠そうとしているのがバレバレな顔でマウンドを見ている。

「打ってけ打ってけ!」

「臭いとこカットだぞ!」

ベンチからは怒声にも似た声がグラウンドに飛ぶ。

仲間たちはまだ諦めていない。

本気でまだ何かが起こりうると信じ、それを起こさせようと必死になって声援を送る。

信友はこういう光景が決して嫌いではない。

ただの精神論で、エネルギーの無駄遣いという話を度々聞くがそのエネルギーで他の選手の気持ちを鼓舞できれば生産効率としては十分ではないだろうかと思っている。

「太田!強気で行け!」

信友自身もそうやって声を出す。

特に意識せずに自然とそういう声が出るようになってしまっている。

九年間野球をやってきたからだろうな、と心の中でこっそり苦笑する。

そして太田は次の三球目を打った。決してきれいな辺りではなかったがとんだところが三遊間の一番深いところだった。

相手のショートが飛びついて、そのグラブにボールが収まる。

「走れ!」

三番大崎は足が速いためセカンドはセーフになるだろう。

残念ながら太田の足は速くないので一塁はタイミング的には微妙だ。

相手もそう判断したのか起き上がりながら体をひねらせ一塁への送球体制に入る。

「いっけー!」

ベンチから声にならない数々の叫びが発せられる。

太田が必死の形相で一塁へ駆け込む。

相手のショートから放られたボールがファーストミット見向けて矢のように飛ぶ。

一瞬空気が止まる。

そして・・・

一塁塁審の両手が大きく広がった。

こちら側のベンチが爆発した。

太田が一塁上で大きくガッツポーズしている。

「竹内。」

興奮冷めやらぬベンチの中ですぐ後ろにいた大貫監督から呼ばれた。

「はい。」

振り向きながら応える。

サードコーチャーの交代か。

「柿崎の次、行くぞ。」

一瞬心臓が止まった。

反応できない。

大貫監督、今なんとおっしゃいましたか?

行くぞ?

コーチャーボックスですか?

なんかの冗談だと思った。

今日もし出番があるとすれば勝負が決まってからお情けでだとばかり思っていた。

というよりそれ以外で信友が出るタイミングがない。

「聞こえなかったのか?」

大貫がこちらを睨む。

そこでやっと口を開いた。

「聞こえましたが理解できませんでした。」

ふん、と大貫は鼻で笑った。

「理解できない、か。」

そう呟くと大貫はこちらを見た。

「いいか、俺は昨日の最後に今日はベストメンバーで行くと言っただろう。」

そう、確かにそう言った。

だからこそ今日は信友に出番はないと思っていたのだ。

「昨日の練習の最後だ。」

そう、昨日の練習の最後だって結局打てなかった。

あれで打てていたら少しは期待したかもしれないが、昨日のあの結果で今日の試合に出してもらえると思うほど信友は甘い考えの持ち主ではない。

「俺はお前が打っている姿はほとんど見ていなかった。」

えっ、と一瞬驚いたが、あれが信友への引退前の思い出作りと思えばそれもまぁ不自然と言うほどではない。

「俺が見ていたのはな、お前が打つ姿を見る他の奴らだよ。」

今度こそ驚いた。

と同時に訳がわからなくなった。

なんでだ?

なんでわざわざ信友が打てない姿を見たときのチームメイトの姿を見るのか。

「お前が打席に立った時の他の奴らはな、一人残らずお前に心底期待していたよ。」

今度は驚く前に大貫を疑ってしまった。

それは嘘だろう。

信友が打てないことはわかりきっていることだ。

期待するとしても太田やまどかなど一部だろう。

「他の奴らはみんなお前が打てないと思うと思ってるんだろう?」

顔に出ていたのだろうか、大貫にそう言われ、頷いた。

「普通に考えたらそうだろうな。俺だってPTSDでまともに打てない奴が打てるとは思わない。」

ならばどうして?

「けどな、お前ならなんかやってくれるんじゃないかと思わせるんだよ。」

それは買い被りではないだろうか。

信友は自分自身にそんな才能があるとは思っていない。

昔の信友にみんな期待しすぎではないのだろうか?

「もちろん、昔の成績なんかは無視してだぞ。」

また心を読まれたかのようなタイミングで言われてしまった。

「俺はこの試合ベストメンバーで臨むと言った。これは本気だ。お情けなんかならお前を試合に出したりしない。でもな、お前はこのチーム全員から期待されているんだ。もちろんあいつも含めて。」

そう言ってネクストバッターサークルにいる義光を顎で指した。

なんだ、気付かれていたのか。

心の中で苦笑した。

まぁこの人ほどの指導者に隠し通せるとは思ってもいなかったが。

「もし誰か一人でも昨日の最後に期待していない奴がいればお前を出さないつもりだった。でも全員、一人残らずお前のお前に期待している。俺を含めてな。そんなやつはこんな場面でなんかやらかしてくれるんだよ。そいつを出さないのがベストメンバーになるのか。そんなことはないだろう。」

最後はこちらに同意を求める形だった。

どうなのだろう。

正直大貫の言うことが正論なのかは疑問だ。

ベンチを振り向いた。

ここにいる全員が自分に期待してくれている、本当だろうか。

たとえ本当だったとしても大貫が言っていることが本当なのか、今自分が出ることがチームにとってベストメンバーになるのか。

早く引退を望む身で贅沢な悩みだな。

自嘲気味に心の中で呟いてみるが、どこか現実味のない声しか心の中で響かない。

「監督。」

信友は一つだけ聞こうと思い声をかけた。

「監督は何か理由があって自分がなにかやってくれると思ったんですか?」

「ないっ。」

すがすがしいまでに言い放った。

「全部俺の勘だ。多分チームの奴らもそうだろう。でもな、これだけは言っておくぞ。世の中なんか知らないけどこう思うってことが時々ある。でもその「なんか知らないけど」ってのがどんな正確な裏付けより頼りになることはたくさんあるんだよ。ましてやその「なんか知らないけど」を思っているやつの人数が多ければなおさらだ。」

それにな、と大貫は付け足した。

「自分のことは一番自分がよくわかるとは言うけどな、他人のほうがよく見えることもあるんだ。チームメイトが期待してるんだ。もっと自分に自信をもっていいんじゃないか?」

行けるな。

そう大貫から目で聞かれ、信友は小さくうなずいた。

確かに根拠はないのだろう。

ただ恥をかきに行くだけかもしれない。

それでもそのすがすがしいまでの根拠のなさと、それをベストメンバーとする大貫の覚悟に信友は逆に心を固めた。

駄目でもともと、でもだからこそなんか起こしてやろうという気になる。

グラウンドを見ると、五番の渡部がツーストライクツーボールで追い込まれていた。

いつも使っていたバットとヘルメットを取りにいく。

ベンチの中は相変わらず興奮した雰囲気が維持されている。

信友がバットをとった瞬間、一瞬その興奮した空気が消えた。

全員が一斉に息をのむと言った表現がぴったりくる状態にほんの数秒なったあと、今までの倍興奮した空気になった。

一瞬まどかの方を見る。

マネージャーとしてむさい男の中で唯一制服を着てベンチに入っているが、選手とともに必死で声援を送っている。

・・・チームのためとか考えるんじゃなくて、信友自身が一番納得できるフルスイングをしてきて・・・

昨日は半分聞き流していた言葉がよみがえる。

少しの間目を閉じ、そしてサポーターをつけヘルメットとバットを持ちグラウンドに出た。





暑い。

グラウンドは思いのほか暑かった。

ベンチにいると案外わからないもんだ。

ネクストバッターサークルに歩いて行く間、そんなことを考えていた。

ネクストバッターサークルでは義光が相手ピッチャーを真剣に見ている。

このタイミングでこいつと話さなければならないのもなんかの縁か。

内心苦笑しながら近づいていく。

近づく陰で気付いたのだろう、義光が振り向いた。

信友の顔を見て、バットとヘルメットに顔が行く。

一瞬顔がこわばったが、すぐに諦めた顔になる。

「交代ですか?」

「あぁ。代打だ。」

今このタイミングで信友が何を言っても嫌味にしかならない。

黙って行き違おうと思ったらすれ違いざまに向こうから声をかけてきた。

「俺らの期待、裏切らないでください。」

やけにあっさり引き下がったな。

監督からだと思ってさからわなかったのか。

そして最後に言ったセリフも気になった。

俺らの期待と。

あいつが自分が期待していることを認めた?

ありえない、新手の皮肉か?

もう少しよく考えていたかったが、渡部がライトにフライを打ち上げた。

ライトが前に出ながらキャッチする。

セカンドランナーの大崎もタッチアップには距離が足りないと判断したのだろう、そのままだ。

ワンアウトランナー一、二塁。

監督が代打を主審に告げ、信友は右打席に向かう。

力を抜き、ゆっくりとバットを構えて相手のボールを待つ。

初球、外なら球種関係なしに振りぬく。

内角ならとりあえずウェイトだ。

無理に初球から打ちにいくことはない。

対策を頭の中で整理する。

ピッチャーが振りかぶった。

その瞬間味方ベンチからの怒声やスタンドからの声など全てが遠くになり、ボールに集中する。

ボールが放たれる。

外への速球だ。

迷わず振りぬく、が、ボールが速い。

振り遅れて一塁ベンチにボールが飛び込みファール。

次はどうするか。

信友側に作戦の変更はないし、むしろ変えようがないのだが、相手の作戦はなるべく読んでおきたい。

初球から手を出したとこから直球狙いと思い、次は変化球で来るのか。

それとも変化球で決めるために追い込むまでは直球主体か。

信友は後者と読んだ。

たとえ直球を狙われても、今のスイングを見ればそうそう打たれないと踏むだろう。

そして直球に慣れさせたところにナックルで決めればひとたまりもないと読むだろう。

それならば狙いは外の速球を右に流すことだ。

そうきめて次の球を待つ。

放たれた球は遅い。

変化球だ。

しかしコースは外。

体制を崩されながらもバットを振りぬく。

ファースト後方にふらふらと上がり、ファーストとセカンド、ライトの三人で追いかけるが、ファールゾーンに落ちてファール。

これで追い込まれた。

内角にも手を出さなければならない。

そして三球目、内角にストレートが来る。

腰が引けそうになりながらもかろうじてバットに当ててファール。

よし、こうやってなんとかしのいで外にくるか、甘くなる球を待って思い切りたたけばいい。

そう考えたが、相手は今までよりあきらかに投げる感覚を短くして三球連続でインコースにストレートを投げ込んでくる。

読まれたか。

最初に二球続けて外に手を出す、しかも二球目は無理に手を出さなくてもよかった予想をはずされた変化球に無理やり手を出したことから外狙いを読まれている。

小さく舌打ちをする。

じゅうぶんにありうる話だ。

「すみません、タイムを。」

片手をあげて主審にタイムを要求し、一度バッターボックスを出る。

相手のペースにはまったら終わりだ。

そう思い一度打席を外す。

すると今まで遠ざかっていた声や雑音が急にボリュームが上がって耳に飛び込んできた。

「楽に楽に!」

「力まないで振りぬけ!」

「いったれいったれ!」

そんな怒声が味方ベンチから飛んでいる。

今まで一緒にやってきた仲間たちが信友に全力で声援を送っている。

一瞬意表をついてセーフティー気味にバントでもすれば少しはチームのためになるのではないかとも思ったが、すぐにやめた。

まどかの姿が目に入ったからだ。

そしてその隣に義光がいる。

ここから表情を読み取ることはできない。

しかし最後に言われた言葉は鮮やかによみがえる。

そして監督の大貫がその後ろで仁王立ちになっている。

なんとなくの力、か。

やってやろうじゃねぇか。

本当にチーム全員が期待しているのか、義光は皮肉で信友にあんなことを言ったのか。

わからないし、どうでもいい。

出てきたからにはなんかやってやる。

「さぁ、はやく。」

と主審に促されて再び打席に入る。

バットを構えマウンドを見る。

多分相手はこちらがインコースを苦手ということは見抜いているだろう。

そして徹底的にそこを狙ってくるだろう。

まともにやったのでは信友はインコースを打つことは無理だ。

それなら。

ピッチャーが振りかぶる。

まともじゃない方法で打ってやる。

ピッチャーがテイクバックをとり左足が踏み出される。

今だ。

右足をバッターボックスの一番外側にずらし、ホームベースから体をできる限り遠ざけた。

相手キャッチャーが小さく息を吐くのが聞こえる。

予想通り、インコースにストレート。

しかし。

右足に重心をずらしその反動を使い左足を思い切り踏み込む。

バッターボックスの一番後ろまで下がった信友にとってはほぼ真ん中に来たストレートだった。

なにが信友にここまでさせたか。

プライドとか、期待にこたえるとかいう問題ではない。

ただの意地だった。

しかし、その意地が捨て身の打法を信友に思いつかせた。

そしてその捨て身の打法で振りぬいたバットは確かにボールを捕らえ、ボールは金属バットの甲高い音を残し、レフトスタンドのさらに後方に向かって飛んでいく。

悲鳴と怒鳴り声が半分半分の意味をもたない声が味方ベンチから飛ぶ。

相手投手の顔色が変わる。

まどかが驚いた顔で喜びの顔を作ろうと努力している。

義光がベンチから体を乗り出し、打球の行方を追う。

大貫が仁王立ちのまま祈る。

永遠にも感じられる数秒が過ぎて、そして・・・

ボールはレフトスタンド後方のフェンスを越えて場外の駐車場へ落ちた。

それと同時に三塁塁審は両手を上げた。

ファールボールの判定だった。




球場関係者も数十年ぶりに見たというレフトスタンドを超えるという特大ファールを打った三十分後、ちょうどボールが落ちたあたりというレフト側の場外駐車場に信友たちは集まっていた。

試合後の簡単なミーティングが終わり、残りは後日行うことになった。

一応全体は解散したのだが、誰一人としてそこから動くものはいなかった。

特に三年生は動こうにも動けなかった。

やっと、か。

信友は空を見上げた。

夕焼けが昨日と同じように広がっている。

そういえば昨日の今頃もこうやって夕焼けを見上げてたんだったな。

今日どんな気分なのか想像していんだったな。

昨日どんなことを考えていたか正確には思い出せないが、恐らく引退したらこんな気分だろうという想像通りのような気がする。

信友たちは今日で引退となった。

あの特大ファールを打ったあと、信友は結局三振に倒れた。

外角高めのストレートにバットを投げるようにして当てにいったが無駄だった。

そもそもあの打法は一回で決着をつけなければ次はない。

あの打球がファールになった時点で信友の負けは決まっていた。

そして後続打者も結局三振に倒れ、信友たちは負けた。

周りの三年生はみんな泣き崩れている。

二年生も何人かは鼻をすすっていた。

そんな中信友はほっとした気分だった。

やっと引退だ。

この針のむしろのような状況からやっと脱出できる。

受験勉強は面倒だが仕方ない。

なんとか現役で日東駒専のどっかにはひっかかりたい。

そんなことを考えていると。

ポトリ

スパイクのつま先に何かこぼれた。

ポトリ

まただ。

何だろう、汚れか何かかと思ったら水滴だった。

雨か?

いや、でもあれだけきれいな夕焼けが出ているのに。

そう思っている間にも水滴は一つずつ増えていく。

なんなんだ、これは?

そう思ってふと顔に手をやってやっと気付いた。

自分の涙だ。

初めての経験に信友は驚いた。

なんでだ?

もらい泣きか?

いや、違う。

もらい泣きにしても何か感情があって涙が出るはずだ。

なんかの病気か?

目の周りの筋肉の病気とか・・・


いい加減素直になれよ。


信友の中で声が聞こえ、その瞬間何かが崩壊した。

そのとたん、涙線が壊れたかのように涙があふれ始めた。

今まで俺はなんで野球部から引退したがっていたのか。

九年前に野球を始めてから、他のことに興味がうつらないくらい野球にのめりこんでいたのに。

中学、高校で野球に入る以外選択肢がみつからないくら夢中になっていたのに。

そして公式戦に出られないとしても野球部に残るほど野球に携わっていたかったのに。

まどかのことは好きだが、それは自分への言い訳に過ぎなかった。

ただ信友は野球が好きだった。

それだけだったのに、不運と、ちょっとした部内での人間トラブルなんかが原因で自分に言い訳をして、挙句の果てにさっさと引退したいなんて思っていた。

なんでもっと楽しまなかった。

なんでもっと必死にならなかった。

なんでもっと・・・

そう考えると涙が止まらない。

八月の日差し、土と汗が入り混じった匂い、野太い声。

真夏のグラウンドを真黒に焼けた高校生たちが走り回る。

グローブの革のにおい、金属バットの甲高い音、ボールがグローブに収まる音。

立っているだけで汗が吹き出し、そばを歩けば土埃にまみれてしまう。

そんな情景をもう二度と味わえない。

そう思うと無性に恋しかった。

「お疲れ。」

上から声がする。

見上げなくてもわかる。

そして何より、今はこの声の主に顔を見られたくなかった。

「信友、本当に野球が好きだもんね。辛いよね。」

あぁ、こいつには全部お見通しだったのかもな。

最初から野球が好きだってこいつには知られていたんだろう。

嘘をついているつもりだったのは俺だけだ。

「でも、野球ならまだできる。みんなでまた集まればいい。みんなでやろうよ。」

そうだ。

高校野球は終わってしまったが、体動く限りはこの大好きな野球とともに人生を歩める。

大学野球か、草野球チームか。

どんな形でもいい。

これからまだまだ野球を続けよう。

そして全力で楽しもう。

うつむいて泣いている信友の上から手が差し出された。

右手でその手をつかみ、左手で涙をぬぐう。

野球を信友に始めさせた幼馴染が目を真っ赤にしてこちらを見ていた。


生まれて初めて手に入れた二つの「どうでもよくないもの」とともに、これから新しくスタートだ。

信友はまどかの手を握り、そして大きく広がる夕焼けを見上げ、そう決意した。


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