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聖女を選ぶと言われ婚約破棄されましたが、王国の呪いを引き受けていたのは私なので、もう知りません

作者: 小野寺 翔
掲載日:2026/05/20

「ミレーヌ・ヴァルトリス。僕は君との婚約を破棄する」


 王宮の大広間に、王太子セドリックの声が響いた。


 夜会の音楽が止まる。


 銀の燭台に揺れていた炎まで、息をひそめたようだった。


 貴族たちの視線が、一斉に私へ向く。


 公爵令嬢ミレーヌ・ヴァルトリス。


 王太子の婚約者。


 そして、誰も知らないところで、この王国の呪いを一身に引き受けていた女。


 私は手にしていた扇を閉じた。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」


 声は震えなかった。


 自分でも驚くほど、静かだった。


 セドリックは胸を張り、私ではなく、隣に立つ少女の手を取った。


 白い神官服。


 柔らかな金髪。


 涙を浮かべた、守られることに慣れた顔。


 聖女ノエリア。


 半年前、大神殿が見出したという癒やしの乙女。


「僕は真実の愛を見つけた。ノエリアこそ、僕の隣にふさわしい女性だ」


「殿下……」


 ノエリアは頬を染め、セドリックの腕に寄り添った。


 広間のあちこちから、ため息が漏れる。


 祝福するようなもの。


 面白がるようなもの。


 私を憐れむようなもの。


 セドリックはさらに声を張った。


「君は冷たい。いつも感情を見せず、王妃教育ばかりを優先し、僕に愛情を示そうともしなかった。だがノエリアは違う。彼女は僕を心から案じ、王国のために祈ってくれる」


 冷たい。


 感情を見せない。


 愛情を示さない。


 その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 夜ごと呪いを飲み込み、眠れぬまま朝を迎えても、私は王太子妃になる者として笑わなければならなかった。


 セドリックが狩猟会で怪我をした夜、彼の傷に流れ込もうとした黒い呪詛を、私が喉の奥で飲み込んだ。


 王都に疫病の兆しが出た時、井戸に滲んだ穢れを、ヴァルトリス家の地下祭壇へ移した。


 王家の祝宴で酒が腐らず、畑が枯れず、王族が悪夢に狂わなかったのは、聖女の祈りではない。


 私の血と眠りと寿命を削った結果だった。


 けれど、それを私は口にできなかった。


 王家とヴァルトリス家の契約は秘匿されている。


 王国の平穏は、王家の威光と神殿の祈りによって保たれていることになっている。


 呪いなど、存在しない。


 存在してはならない。


 だから私は、ただ静かに頭を下げた。


「承知いたしました」


 セドリックの眉が動いた。


「……随分あっさりしているな」


「殿下がお決めになったことですので」


「悔しくないのか?」


 悔しいか。


 その問いに、私は少しだけ考えた。


 悔しい。


 悲しい。


 腹立たしい。


 馬鹿らしい。


 けれど、それ以上に。


 ああ、もう終わっていいのだと思った。


 十歳の誕生日、母は私に言った。


『ミレーヌ。王家を恨んではいけません。これはヴァルトリス家の役目です』


 十三歳の冬、初めて呪いを引き受けた夜、私は血を吐きながら父に尋ねた。


『なぜ、私なのですか』


 父は答えなかった。


 ただ、王国のためだ、と言った。


 十五歳でセドリックと婚約した。


 それから五年間、私は王太子妃になるためではなく、王国を壊さないために生きてきた。


 その結果が、これ。


 真実の愛。


 聖女。


 冷たい婚約者。


 笑ってしまいそうだった。


「殿下」


 私はゆっくりと顔を上げた。


「婚約破棄は、国王陛下と王妃陛下もご承知なのでしょうか」


「無論、これから承認していただく。父上も母上も、聖女を無下にはできない」


 つまり、まだ承認されていない。


 ただの独断。


 貴族たちがざわめいた。


 だがセドリックは気づいていない。


 彼は勝利に酔っていた。


「僕との婚約も、なかったことにしてやる。君はもう、王家に縛られなくていい」


 その瞬間。


 私の胸元に下げていた黒真珠の首飾りが、かすかに軋んだ。


 王家とヴァルトリス家を結ぶ契約石。


 王太子本人が、王家との縁を断つ言葉を公衆の面前で口にした。


 なかったことにしてやる。


 その言葉で、契約の片側が緩んだ。


 私の中で、何かが外れる音がした。


 重い鎖。


 喉の奥に詰まっていた冷たい石。


 肺の裏側に張り付いていた黒い影。


 それらが、少しずつ私から離れていく。


「……そうですか」


 私は、初めて微笑んだ。


「では、殿下のお言葉通りにいたします」


 セドリックは満足げに頷いた。


 ノエリアは勝ち誇ったように私を見た。


 私は扇を胸元に当て、最後に一礼した。


「セドリック殿下。どうぞ、聖女様とお幸せに」


 そして心の中で、静かに告げた。


 王国の呪い。


 もう、私のものではありません。


   ◇


 異変は、その夜から始まった。


 まず、王宮の白薔薇が黒く枯れた。


 次に、王太子の寝室の鏡に、知らない女の泣き顔が映った。


 夜明け前には、王都中央の噴水が赤黒く濁り、魚が腹を見せて浮かんだ。


 それでも王宮は、最初ただの不吉な偶然として処理しようとした。


 だが翌日。


 国王陛下が玉座の間で倒れた。


 王妃陛下は片目が見えなくなり、王太子セドリックは高熱にうなされ、何度も「黒い手が喉を絞める」と叫んだという。


 大神殿はすぐに聖女ノエリアを呼んだ。


 彼女は白い祭服に身を包み、王宮の大祭壇で祈った。


「慈悲深き光よ、王国を覆う闇を払い給え」


 清らかな声。


 美しい祈り。


 神官たちは涙を流し、貴族たちは手を組んだ。


 しかし、祭壇の上の聖水は黒く染まった。


 ノエリアの足元から、黒い蔦のような影が這い上がる。


「いやっ……!」


 彼女は悲鳴を上げた。


 祈りは途切れた。


 黒い影は、彼女の白い袖に触れた瞬間、焼け焦げたような跡を残した。


 癒やしの聖女。


 民の傷を治し、花を咲かせ、小鳥を手に止まらせる少女。


 けれど、王国の呪いは癒やしでは祓えない。


 それは建国の時代から積もったもの。


 王家が踏みつけた死者。


 奪われた土地。


 裏切られた盟約。


 殺された竜の怨嗟。


 王冠を戴く者の血筋に絡みつき、国そのものを腐らせる黒い負債。


 それを代々、ヴァルトリス家の娘たちが受け止めてきた。


 王家の婚約者として。


 王妃になる者として。


 国母という美しい名の下に、呪いの器として。


 でも、もう私はそこにいない。


 王太子が自ら、私を王家から切り離した。


 だから呪いは、本来の持ち主へ戻っただけ。


   ◇


「ミレーヌ! どういうことだ!」


 三日後、ヴァルトリス公爵邸に王宮からの使者が来た。


 使者ではない。


 セドリック本人だった。


 顔色は悪く、目の下には黒い隈があり、金髪は乱れていた。


 数日前まで夜会の中心で輝いていた王太子とは思えない姿だった。


 隣にはノエリアもいた。


 彼女は白い手袋をはめていたが、その手首には黒い痣が覗いている。


 私は応接室で二人を迎えた。


「ご機嫌よう、セドリック殿下。ノエリア様」


「ご機嫌ようではない! 王宮で何が起きているか、君は知っているのか!」


「噂程度には」


「なら、なぜ平然としていられる!」


 セドリックは机を叩いた。


 昔なら、私はその怒声だけで謝罪していた。


 王太子を刺激してはならない。


 王家の機嫌を損ねてはならない。


 呪いが暴れれば困るのは民なのだから。


 そう言い聞かせてきた。


 けれど今は、もう違う。


「殿下。私は婚約を破棄された身です。王宮の問題に口を出す権利はございません」


「君は何か知っているはずだ!」


「どうしてそう思われるのですか」


「君がいなくなった途端におかしくなった! それ以外に理由があるか!」


 ああ。


 そこまでは分かるのだ。


 けれど、なぜなのかを知ろうとはしなかった。


 私は静かに紅茶へ口をつけた。


「殿下は、私を冷たいとおっしゃいました」


「今はそんな話をしている場合ではない!」


「いいえ。大切な話です」


 私はカップを置いた。


「私は、殿下が狩猟会で負った傷の呪詛を引き受けました。王都の井戸に滲んだ穢れを、三晩かけて自分の体に移しました。王妃陛下が眠れぬ夜に見ていた悪夢を、代わりに見続けました。国王陛下の戴冠記念祭の前夜、王冠に絡んだ黒い怨嗟を飲み込み、声が出なくなったこともあります」


 セドリックの顔から血の気が引いた。


 ノエリアが小さく息を呑む。


「何を……言っている」


「王国には呪いがあります。王家はそれを知っています。大神殿も、上層部は知っているでしょう。そしてヴァルトリス家は代々、その呪いを引き受ける役目を負ってきました」


「嘘だ」


「嘘だと思われるなら、国王陛下にお尋ねください」


「父上が、そんなことを僕に隠すはずがない」


「隠します。殿下が、王冠の重さを知ろうとしなかったから」


 セドリックは言葉に詰まった。


 その隣で、ノエリアが震える声を出した。


「で、でも……私は聖女です。私が祈れば、きっと……」


「ノエリア様の祈りは、人を癒やすものなのでしょう。それは尊い力です」


 私は彼女を見た。


「ですが、王国の呪いは怪我ではありません。傷口に薬を塗れば済むものではないのです」


「そんな……」


「そして、その役目を引き受けるには、王家との正式な契約が必要です。血の契約、王冠の契約、国土の契約。そのすべてを理解した上で、長い年月をかけて器を作らなければなりません」


 ノエリアの肩が震えた。


 彼女は何も知らなかったのだろう。


 聖女と呼ばれ、祈れば褒められ、王太子に愛され、自分は国を救えるのだと信じていた。


 その無知は罪か。


 少なくとも、私にとっては救いではなかった。


「ミレーヌ」


 セドリックの声が変わった。


 怒りではない。


 焦り。


 恐怖。


 そして、都合のいい期待。


「なら、戻ってくれ」


 私は黙って彼を見た。


「婚約破棄は撤回する。君を正妃にしてもいい。ノエリアは……側妃にすればいい。だから、もう一度王宮へ戻って呪いを鎮めろ」


 ノエリアが青ざめた。


「セドリック様……?」


「仕方ないだろう! 王国が滅びるかもしれないんだ!」


 私はそのやり取りを見て、ようやく理解した。


 この人は、誰も愛していない。


 私も。


 ノエリアも。


 王国すら。


 自分が苦しくならない世界だけを愛している。


「お断りいたします」


 私が答えると、セドリックの表情が凍った。


「……今、何と言った」


「お断りいたします、と申し上げました」


「君は王国を見捨てるのか!」


「私を先に見捨てたのは、殿下です」


 セドリックの唇が震えた。


「民が苦しんでもいいのか!」


「民を盾にすれば、私がまた自分を差し出すと思われましたか」


「君は公爵令嬢だろう! 国に尽くす義務がある!」


「五年間、尽くしました」


 私は初めて、声を少しだけ低くした。


「眠れない夜も、血を吐いた朝も、殿下がノエリア様と庭園を歩いていた午後も、私は国に尽くしておりました」


「それは……」


「ですが殿下は、皆の前でおっしゃいました。婚約はなかったことにしてやる、と」


 胸元の黒真珠は、もうただの宝石になっていた。


 重さはない。


 冷たさもない。


「ならば、私が王家の呪いを引き受けていた日々も、なかったことになさってください」


 セドリックは立ち上がった。


「許されると思うなよ、ミレーヌ!」


 扉が開いた。


 入ってきたのは、私の父ヴァルトリス公爵だった。


 そして、その後ろには王宮の宰相と、大神殿の老司祭がいた。


 セドリックの顔が強張る。


「なぜ、宰相がここに……」


 宰相は深くため息をついた。


「殿下。国王陛下のご命令です。あなたを王宮へお連れします」


「僕はミレーヌと話している!」


「そのミレーヌ様との婚約を独断で破棄し、王家の古契約を破損させた件について、緊急評議会が開かれます」


「古契約……」


 セドリックは、ようやく自分が何を壊したのか理解し始めたようだった。


 だが、遅い。


 あまりにも遅い。


 老司祭が私に頭を下げた。


「ミレーヌ様。長きにわたり、王国のためにお苦しみくださったこと、神殿を代表しお詫び申し上げます」


「お顔をお上げください。司祭様が私に謝ることではありません」


「いいえ。神殿もまた、あなた様の犠牲の上に祈りの権威を保っていた。知らぬふりは、罪です」


 ノエリアがその言葉に震えた。


 彼女は老司祭を見た。


「私は……私は、本当に何も知らなかったんです」


「でしょうな」


 老司祭の声は厳しかったが、冷たくはなかった。


「だからこそ、あなたも利用されたのです。聖女という名に酔う者たちに」


 ノエリアは泣き崩れた。


 セドリックは何も言えずに立ち尽くしている。


 私はその光景を見ても、心が動かなかった。


 復讐の快感もない。


 同情もない。


 ただ、終わったのだと思った。


   ◇


 その後、王国は大きく揺れた。


 王太子セドリックは王位継承権を停止された。


 ノエリアは聖女の称号を一時返上し、大神殿の管理下で学び直すことになった。


 国王陛下は、王家とヴァルトリス家の契約を長年隠していた責任を問われ、表舞台から退く準備を始めた。


 王国の呪いは、すぐには消えなかった。


 当然だ。


 私一人に押しつけていただけで、呪いそのものがなくなっていたわけではない。


 王都の噴水はしばらく濁り、王宮の薔薇園は半分枯れ、貴族たちはようやく知った。


 自分たちの平和が、誰か一人の犠牲によって成り立っていたことを。


 ヴァルトリス家には、連日のように嘆願書が届いた。


 どうか戻ってきてほしい。


 王国を救ってほしい。


 民を見捨てないでほしい。


 私はすべて読んだ。


 そして、すべてに同じ返事を書いた。


 王国の呪いは、王国全体で背負うべきものです。


 もう、一人の娘に押しつける時代は終わりました。


 父は最初、苦い顔をしていた。


「ミレーヌ。本当にいいのか」


「はい」


「お前は、この国で悪女と呼ばれるかもしれない」


「構いません」


 冷たい令嬢。


 王国を見捨てた女。


 呪いを盾に王家を脅した公爵令嬢。


 そう呼びたい者は、好きに呼べばいい。


 名前など、もう怖くなかった。


 私は自分が何をしたか知っている。


 何を背負い、何を手放したか知っている。


 それだけで十分だった。


 数週間後、隣国ルゼリアから使者が来た。


 ルゼリア王国は、かつてヴァルトリス家の分家が渡った国だ。


 使者として現れたのは、黒髪の青年だった。


「お初にお目にかかります、ミレーヌ嬢。ルゼリア王弟、アシュレイ・ルゼリアと申します」


 彼は柔らかく微笑み、丁寧に礼をした。


「我が国は、あなたを客人としてお迎えしたい」


「私を、ですか」


「はい。呪いの器としてではなく、一人の女性として」


 その言葉に、私は思わず黙った。


 一人の女性。


 そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。


 アシュレイ殿下は続けた。


「ヴァルトリス家の古い記録は、我が国にも残っています。あなたの一族が何を背負わされてきたのかも、ある程度は。だからこそ、逃げ場所が必要でしょう」


「逃げる、ですか」


「ええ。誇り高く逃げればよいのです」


 彼は少しだけ笑った。


「苦しみ続けることだけが、責任ではありません」


 胸の奥が、かすかに震えた。


 誰かに戻れと言われることはあった。


 救えと言われることはあった。


 耐えろと言われることは、数えきれないほどあった。


 けれど。


 逃げていいと言われたのは、初めてだった。


   ◇


 出立の日。


 王都の空は、久しぶりに晴れていた。


 呪いはまだ残っている。


 けれど王国は、少しずつ変わり始めていた。


 神殿は呪いの存在を公表し、王家は各地の貴族に負担を分散させる新たな儀式を始めた。


 簡単ではない。


 混乱もある。


 不満も出る。


 けれど、それが本来の形だ。


 一人の少女が、誰にも知られず血を吐いて支えるより、ずっと健全だった。


 馬車に乗る直前、王宮から一人の男が駆けてきた。


 セドリックだった。


 以前より痩せ、頬はこけている。


 だが身なりは整っていた。


 王太子の華やかさは消え、ただの青年のように見えた。


「ミレーヌ」


 私は振り返った。


「何でしょうか、セドリック殿下」


「……もう、殿下ではない。王太子位は剥奪された」


「そうですか」


「謝りに来た」


 彼は拳を握りしめた。


「僕は何も知らなかった。知ろうともしなかった。君が冷たいのだと思っていた。僕を愛していないのだと」


 私は黙って聞いていた。


「だが、違った。君はずっと……」


「セドリック様」


 私は彼の言葉を止めた。


「謝罪は受け取ります」


 セドリックの目に、わずかな希望が灯る。


 だから私は、続けた。


「ですが、それだけです」


 希望が消えた。


「私はもう、あなたの婚約者ではありません。王家の器でもありません。あなたを支えるために戻ることもありません」


「……分かっている」


「いいえ。分かっていないから、ここへ来たのでしょう」


 セドリックは唇を噛んだ。


 私は静かに言った。


「あなたが本当に償いたいなら、私に許されることを望まないでください。あなたが壊したものを、あなた自身の人生で見つめ続けてください」


「ミレーヌ……」


「どうか、お元気で」


 私は一礼し、馬車へ乗った。


 扉が閉まる。


 車輪が回り出す。


 窓の外で、セドリックが遠ざかっていく。


 かつて私の未来だった人。


 私を捨てた人。


 そして、私がもう選ばない人。


 隣に座るアシュレイ殿下が、そっと尋ねた。


「よろしかったのですか」


「はい」


「泣いても構いませんよ」


 その言葉に、私は少しだけ笑った。


「泣くほどの未練は、もうありません」


「では、これから何をなさりたいですか」


 何をしたいか。


 その問いに、私は窓の外を見た。


 王都の城壁が遠ざかる。


 重かった空が広がっていく。


 体はまだ弱っている。


 夜になれば、昔の呪いの名残で胸が痛むかもしれない。


 けれど、息がしやすかった。


「まずは、眠りたいです」


 私が答えると、アシュレイ殿下は真面目な顔で頷いた。


「それは大事です」


「それから、美味しいものを食べたいです」


「ルゼリアには果実の焼き菓子が多いですよ」


「では、それを」


「他には?」


 私は少し考えた。


 王妃教育でもなく、呪いの儀式でもなく、婚約者としての務めでもない。


 私自身の望み。


 小さくて、くだらなくて、けれど確かに胸を温かくするもの。


「花を育ててみたいです」


「黒薔薇ですか?」


「いいえ」


 私は首を横に振った。


「明るい色の花がいいです。呪いを吸わなくても咲ける花を」


 アシュレイ殿下は優しく笑った。


「では、庭を用意しましょう」


 馬車は国境へ向かって進んでいく。


 背後の王国には、まだ呪いが残っている。


 王家も、神殿も、貴族たちも、これから苦しむだろう。


 それでも、私はもう振り返らなかった。


 聖女を選ぶと言われ、婚約破棄された。


 王国の呪いを引き受けていたのは私だった。


 でも、もう知りません。


 これからは、私の人生を生きる。


 誰かの呪いではなく。


 誰かの王冠でもなく。


 私自身の名で。

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― 新着の感想 ―
古契約で代々ヴァルトリス家の娘が王家の婚約者となって呪いを引き受けてたって設定だと、王妃も知ってる筈だよね? と言うか、彼女もヴァルトリス家の娘じゃないとおかしくない? その辺どうなってんの?
負債を1人に押し付けるのでは無く、王家と全貴族、神殿が引き受けるべきだよね。
> 父は最初、苦い顔をしていた。 「ミレーヌ。本当にいいのか」 「はい」 「お前は、この国で悪女と呼ばれるかもしれない」 「構いません」 いや、父親、何を言っているんでしょう? ミレーヌにこれからも…
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