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薬師アゼルと過ぎし日の恋  作者: かわせみ
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第三章 ある魔獣の討伐

 ほんの数歩の距離で、感情のない紅い瞳がアゼルを見ていた。呼吸のような動物的な気配はまるで感じられない。そこにあるのは、ただ色濃い死の気配だけだった。


(まずいな)


 アゼルは心の中で舌打ちした。フィリスの頼みを聞いたのは、いざとなれば魔獣の一匹くらい、自力でなんとかできると思っていたからだが、この魔獣はアゼルが考えていたよりもかなり強そうだ。


 影のような漆黒の巨体。体高こそアゼルと変わらないが、四足であり体長や体重の差は考える気にもなれない。


 アゼルは息を潜め、ゆっくりとした動きで短剣を握りしめる。少しでも怪しげな動きを見せれば、魔獣は音もなく襲いかかってくると思われた。


 手持ちの武器は触媒の短剣のみ。刃渡りが自分の掌ほどしかない短剣で切ったところで、堅い体毛に阻まれ、急所はおろか外皮にも届くまい。せめて長剣があれば……。


 無いものねだりしても仕方がない。アゼルはどうやれば今の自分が、目の前の敵を屠れるか考えた。


 決して易しくはないが二通りほど、倒せそうな手がなくはない。どちらの手を採るにせよ、初手は同じだ。アゼルは覚悟を決め、短刀を握り締めた。異変を察知して目を覚ましたのだろう、リルルが抗議の声を上げるが、宥める余裕はない。


「堕天の軍靴よ、宿……」


 呪文を唱えようとした瞬間、アゼルは突進してきた魔獣に弾き飛ばされていた。咄嗟に身をひねることが出来なければ喉もとを食いちぎられていたに違いない。


 何とか受け身をとって立ち上がる。魔獣は先ほどと同じように、静かにこちらを見ている。こちらの派手な動きに反応するのか……。


「堕天の軍靴よ」


 アゼルは先程と同じように詠唱を開始し……先程と同じように弾き飛ばされた。先程と違ったのは、飛ばされることを覚悟の上で詠唱し、意識を途切れさせなかったことだ。


「宿れ!」


 一気に、アゼルの身体が軽くなる。身体能力を活性化する魔術だ。これは身体能力で劣るアゼルが他の《騎士》たちと互角に動くための儀式だった。この魔術を使えば、暫くの間は、平均的な《騎士》程度には動くことができる。


 ここから採れそうな手は二つだ。一つは魔獣の攻撃をかわしつつ、発動の速い、従って威力が低めの魔術で削り殺す方法。比較的堅実だが、魔獣の攻撃をすべてかわし切ることは困難であるし、時間もかかる。


 もう一つは、風の魔術を纏わせて貫通力を高めた短剣を投げつける方法。それなら魔術の発動速度も速く、威力も十分だ。魔獣の口腔に短剣を叩き込めれば、一撃で殺すこともできるだろう。しかし、機会は一度きりだ。一撃で仕留められなければ、魔術の触媒も失うことになって、本当に後がなくなってしまう。


 どちらにせよ、容易いことではない。アゼルは一つ目の手を採りつつ、二つ目の手に移行できる隙を窺うという常識的な策を採ることにした。魔獣と戦うのは久しぶりであり、昔と同じように動ける自信がなかったのだ。


 息を飲み、アゼルは短剣を握り直した。集中力を高め、完全に戦闘態勢に入る。しかし、変化は外部から訪れた。


「ご無事ですか?」


 それは、およそこの場に似つかわしくない、可憐な声だった。姿は魔獣の陰になってよく見えないが、少女であることは間違いない。


 少女の動きに反応して、魔獣が動く。アゼルをなすすべもなく吹き飛ばした魔獣の突進を受けたのは赤い楯だった。白く竜をあしらった鮮やかな赤い楯に阻まれ、魔獣が仰け反る。楯から飛び出すように少女が躍り出て、体勢を崩している魔獣に追撃を加えた。


 その少女の動きに、姿に、アゼルは見惚れた。それは、まさに妖精と呼ぶに相応しい可憐なものであったから。少女は華奢な身体を優雅に舞わせて、魔獣に次々と斬撃を浴びせていく。少女が身に纏っているのは動きを損ねないようにするためだろう、必要最小限の軽装だ。肌が透けて見えるほど薄手の絹服に、部分鎧を組み合わせており、露出度も低くない。軽鎧姿から覗く肌は白刃と同じくらい眩しく見えた。こんな可憐な少女が巨大で獰猛な魔獣を斬り裂く様は、ある種非現実的な光景だ。


 そこからは、あっと言う間だった。赤い楯が防ぎ、少女が斬る。息の合った動きで、二人は易々と魔獣を屠ってしまった。


 アゼルはじっとその様子を見ていたが、赤い楯の騎士が倒れた魔獣に止めを刺したのを確認して、二人に近づき、声をかけた。


「ありがとう、助かったよ」


「いえ。ご無事そうで何よりです」


 背を向けて剣を拭っていた少女が、剣を鞘にしまいながら振り向いた。少女を見て、アゼルは思わず驚愕の呻きを漏らした。


「エフィ……エフィーリア……様……」


「それは母の名です。わたしはユフィーリア。あなたは母をご存知なのですか?」


 思いがけず母の名を聞いて、ユフィも驚いたようだ。


「い、いえ、昔王都にいたころに、そのお姿を何度か見ただけです」


 アゼルは咄嗟に嘘をついた。本当のことを言うには、気が咎めたのだ。


「そうでしたか」


 その答えに、目の前の少女、ユフィーリアは少しがっかりした様子だった。


「でも、わたしは母にそっくりなのですね」


 しかし、すぐに気を取り直し、微笑んで見せる。


「ええ、とても……」


 アゼルは眩しい思いでユフィーリアを見た。美しい黒絹の髪に透き通るような白い肌、愛らしい瞳は、アゼルの記憶に残るエフィーリア王妃よりは幾分幼いものの、まさに生き写しだった。


「って、ひょっとして王女様ですか!?」


 感慨深くユフィを見つめていたアゼルは、その事実に気付いて慌てふためいた。


「やっと気づいたか、この間抜け」


 毒づいたのは、沈黙を保っていたナーシェスだ。そもそも、ユフィーリアはまだ成人前であったから、王太子にもなっておらず、王都以外での知名度は余りない。アゼルが知らなくても無理もないはずだ。間抜け呼ばわりされて、アゼルは軽く眉を釣り上げた。


「なんだお前は」


「間抜けな上に無礼な奴だな。見ての通り、王女の護衛役だ」


 確かに、悔しいことに、目の前の若者にはその役回りがお似合いだった。何も言えないアゼルに、ナーシェスは続ける。


「遠くから見たことがあるだけの王妃を、さも知り合いか何かのように馴れ馴れしく呼びやがって。大方妄想の中でナカヨシだったんだろ。情けない奴だな」


 ナーシェスは容赦ない。


(そうならよかったんだがな)


 声に出さず、アゼルは苦く笑った。


「ナシェ、無礼なのはお前も同じだ。薬師殿、よければ宿に戻った後にでも、母のことを聞かせてくれませんか。些細なことでも構いません。王宮では誰も母のことを話してくれないのです」


 ユフィーリアはナーシェスをたしなめ、アゼルに頭を下げた。


「わかりました。大したことは存じませんが、それでよければ」


「それと、わたしのことは王女ではなく、ユフィとお呼びください」


 可愛く微笑んだユフィに釣られるように、アゼルも心から微笑んだ。


***


「ナーシェス様、ご無事だったんですね!」


 《竜の塒亭》の扉をくぐるなり、フィリスが奥から飛び出してきた。ナーシェスたちが戻るのを待ちかねていたのだろう。


「えーっと、そこは心配する相手を間違っていないかい、フィリスさん」


 少し傷ついたようにアゼルが言う。


「もちろん、アゼルさんのことも心配してましたよ! 薬草は手に入ったんですよね!?」


 苦笑して、アゼルが腰袋を開けて見せた。中には薬草がぎっしり入っている。


「わーい、これでわたしのお財布も心配なしですね! 回復薬ができたら、頑張って売りますね!」


 要するに、早く薬を作れと言っているのだ。


「情けない男だな。こんな小娘にいいようにこき使われて」


 ナーシェスが毒吐く。


「お前さんだって、似たようなものだろ」


 ぎょっ、とした風にナーシェスがユフィを見た。ユフィが興味深げにナーシェスの反応を見守っている。残念ながら、ナーシェスはアゼルの反論を否定できなかった。


「そういえば、魔獣はどうしたんですか?」


 フィリスが興味津々で聞いてくる。


「魔獣なら、この二人が見事に退治してくれたよ」


 魔獣の死骸は、ナーシェスが街まで運び、既に街の魔獣商に売却している。アゼルの言葉に、フィリスが瞳を輝かせた。


「すごいですね。こんなにかっこいいのに、その上強いなんて、ナーシェス様、素敵過ぎます!」


「褒めてもらって悪いが、俺は防御に徹していただけで、倒したのはユフィだ」


 今にも抱きついてきそうなフィリスを鬱陶しそうに手で制し、憮然としてナーシェスが言う。


「ナシェの楯がなければ魔獣を倒すことはできなかったのだし、最後にとどめをさしたのもナシェなんだから、素直に褒めて貰いなさい。なんなら自慢話を聞かせてあげたらいい。その間にわたしは、アゼル殿から母の話を聞くことにするよ」


 何も知らないフィリスの前で、王妃であった母の話をするのは憚られたのだろう。ユフィはナーシェスをフィリスの生贄にした。


「ちょ、待てよ!?」


 ユフィの言葉に、フィリスは喜んでナーシェスを自分の部屋へと引っ張って行った。ユフィは心の中でナーシェスに謝りながら、アゼルに向きなおった。


「では、わたしたちも。お部屋にお伺いしてもよろしいですか?」


「え、僕の部屋ですか?」


 仮にも王女である、平民であるアゼルの部屋に足を運ばせるなど失礼にもほどがある。とは言え、ユフィは身分を隠しているようなものであるし、人前で話せるような状況でもない。ユフィの部屋に押しかけるのはもっとダメだろう。暫く考えたが、他に方法はなさそうだ。


「ユフィがそう言うのなら構いませんが……まぁ、薬を調合しながらお話しますよ」


 アゼルの言葉に、ユフィは嬉しそうに目を輝かせた。

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