第一章 ある薬師の日常
「やっと起きたんですか、アゼルさん」
明るい声が、一階に降りてきたアゼルを迎える。
「おはよう、フィリス」
「全然早くないですよ。いつものことですけど」
フィリスが笑う。十六の彼女は、ここ、「竜の塒亭」の看板娘だ。彼女の笑顔を見る度に、アゼルはここに宿を取ってよかったとつくづく思う。
ここに下宿するようになって半年。最初は恥ずかしがって余り喋ってくれなかったフィリスとも随分打ち解けることができた。
もっとも、この酒場兼宿を経営する彼女の両親は、アゼルがここに宿をとるようになって以来、何故か娘が積極的に店の仕事を手伝うようになったのを喜ぶ半面、この得体の知れない流れ者が愛娘に手を出さないかと気が気でないようだ。三十を過ぎたアゼルは、フィリスよりも寧ろ彼らの方に年が近いのだ。
「食事は、いつものですよね?」
アゼルが頷くと、燕のような身軽さでフィリスが厨房へとかけていく。アゼルは、彼女の美しい桃色がかった金髪が揺れるのを見ながら席に着いた。
昼前の微妙な時間だ。二度寝を楽しみ、客のほとんどいないこの時間を選んで朝昼兼用で食事を取るのがここに来てからの彼の日課だった。
「お待たせしました」
焼きたてのガレ(そば粉で作った生地を薄く焼いたもの)に、卵や燻製肉を乗せた一般的な昼食に加えて、いつもフィリスはこっそりと(両親にばれていないとも思えないが)果物をおまけしてくれる。
アゼルの見た目は決して悪くない。顔立ちは整っているし、背も平均よりは高く、均整の取れた身体をしている。アゼルのやや癖のあるくすんだ銀髪は、いつもの着古した黒衣とあいまって、だらしない印象を与えるが、優しげな瞳に困ったような微笑を浮かべると、見ようによっては美男子に見えなくもない。
しかし、彼は、毎朝のフィリスの「おまけ」が、「年上の男性に憧れる少女の、好意の現れ」のような、甘酸っぱいものではないことを知っていた。もっと現実的に、「お得意様」に対する感謝の気持ちだと理解している。
「そうそう、預かっていた回復薬、全部売れましたよ」
「ありがとう。いつもの通り、二割は手数料に取って置いて」
アゼルの現在の職業は薬師だ。実際にはただの薬師ではなく、魔力付与と呼ばれる特殊な技能を持っており、正確には、魔力付与師と呼ぶべき職業である。だが、魔力付与は彼の専門ではなく、初歩である薬品の加工しかできないため、彼は敢えて薬師を名乗っていた。
魔力付与師は、様々な物に魔力を付与することで、通常よりも高い効果を持たせることができる。典型的な例が薬だ。薬に魔力を付与すれば、傷の治癒や病状の緩和に高い効能を持たせることができる。当然、ただ薬草を煎じただけの薬よりもかなり高値で売れる。
アゼルがフィリスに販売を委託している回復薬は、自然治癒力の強化と造血作用を併せ持つ薬で、戦いを生業とする者には必須の常備薬だ。魔獣が多いこの辺りでは、それを狩る狩人も多く、効能の高い回復薬は飛ぶように売れる。
とりわけ、高い魔力を持つアゼルの作る回復薬は、ここ要塞都市カルネでも最高に近い品質であり、高値にも関わらず人気が高い。店を手伝うついでに、何もしなくても売れるほど人気の回復薬を売るだけで、気前よく二割もの手数料が貰えるとなれば、それは破格に美味しい副業なのだ。
そんなわけで、フィリスにとってアゼルは、いつまでも宿に居て欲しい大切なお客様なのだった。
「回復薬の在庫、もうないですよね。なんでも、今朝も魔獣がカルネアの森まで来たらしくて、狩人のみなさんが大騒ぎです。薬草を取りに行くなら、気をつけてくださいね」
危ないから取りに行くな、ではなく、気をつけて取りに行け、と言っているのだ。少女の何気ない残酷さに、アゼルは苦笑した。
カルネアの森は、ここ要塞都市カルネの北に広がる森だ。果実や薬草、茸などが豊富に自生しており、街の住人達の生活に密着した場所である。普段は、危険な獣もほとんどいないが、その更に北には瘴気の森と呼ばれる一帯があり、そこに住む魔獣たちがしばしばカルネアの森、時には街にまで現れる。
もともと、カルネはカルネアの森の北、最奥の瘴気の森を監視するために、王命により計画的に建設された要塞都市だった。魔獣狩りは危険に見合う以上の金になるから、ここを根城にする狩人も多い。
アゼルが長年の放浪の末、ここに落ち着こうと決めたのも、ここには薬を大量に消費してくれる「お客様」が沢山いるからだった。
「魔獣か……怖いし、今日は薬草を採りに行くの、やめておこうかな」
確かに普段は、回復薬が全部売れれば、アゼルは薬草を採りに行く。逆に言えば、回復薬の在庫があるうちは、アゼルはわざわざ薬草を採りに行かない。養う者もない一人身で、金銭にさほど執着のない彼は、勤労意欲にも著しく乏しかった。アゼルの回復薬は高値で売れるのであるから、食べていくだけなら、それほど必死になる必要もない。アゼルとしては、魔獣が出ている時は、在庫がなくても薬草を採りに行かない、という選択肢もあるのだ。
「えぇ~、そんなぁ。魔獣が出ている今は、危機であると同時に、売上を伸ばす好機ですよ! わたしのためにも、ぜひぜひ、ちゃちゃっと薬草採ってきてくださいよぉ」
フィリスがわざとらしく瞳を潤ませてしなを作る。カルネはそれなりに大きな都市だ。王都との交易も盛んで、装飾品の店も食べ物の店も数多くある。少女には欲しいものが沢山あるのだろう。
だが、魔獣は、少女のお小遣いのために相手にするには、危険すぎる相手だ。フィリスも、実際に見たことがないからこそ、これだけ軽く言えるのだろう。
魔獣とは、通常の獣とは異なり、その身に魔力を蓄えた獣である。魔力に覆われた外皮は、魔力付与された武器か、神官によって祝福された武器、もしくは、白銀鉱や鋼玉鉱のようにそれ自体魔力を帯びた素材で作られた武器でなければ傷をつけることもできない。その姿形や大きさ、攻撃方法は個体によって様々だが、概して獰猛狡猾、高い知能を有し、個体によっては人語を操るものまでいる。そのため、魔獣を狩るのは、生半可の腕や装備では無理である。そんな危険な相手だが、命懸けでそれを狩ろうとする者は後を絶たない。魔獣を仕留めた者は、国から高額の報酬を受けられると共に、その強い魔力を帯びた死骸を然るべきところに売ることで、更に多額の金を得ることができるからだ。
そもそも、薬師は、そんな狩人達のおこぼれにあずかるだけの職業なのだから、わざわざ魔獣に出くわす危険を冒す必要はないのだが……。
「やれやれ、フィリスにそんな顔されたら、行かないなんて言えないじゃないか」
アゼルは大きく溜息を吐いて見せた。
「ほんと? アゼルさん大好きっ」
フィリスがアゼルに抱きつく。フィリスのこうしたあざとさが、彼は嫌いではなかった。
***
昼を少し回った頃に、アゼルは薬草採りへと出発した。
街を出る際に、門番を務める衛兵に訊ねたところによれば、今朝から数名の狩人が魔獣討伐に出ているが、まだ戻ってきた者はいないという。
カルネアの森は広い。狩人たちはまだ魔獣と出会えていないだけなのか、それとも既に魔獣の餌食となったのか……。
魔獣の多くは、日が落ちればその力を増す。日が落ちるまで二刻(一刻は約二時間)と言ったところか。フィリスは出かけるアゼルにおやつを持たせてくれたが、あまりゆっくりしている時間はなさそうだ。
アゼルが回復薬に用いる薬草は二種類ある。造血作用のあるホラ草と、自然治癒を高めるアロ草だ。どちらも、カルネアの森のあちこちに多く自生している。共に繁殖力の高い薬草だが、薬草だけでもそれなりの値で売れるため、近場の草は大抵狩りつくされている。
そこでアゼルはいつも、町から普通の大人が歩いて一刻ほど離れた場所にまで足を延ばすことにしていた。一応、曲がりなりにも《騎士》であるアゼルなら、半刻ほどあれば十分辿りつける距離である。
《騎士》、正式には妖精騎士と呼ばれる……それは、妖精の加護を受ける者のことだ。稀に、生まれたばかりの子供に、妖精(守護妖精とも呼ばれる)が憑くことがある。妖精の憑いた者は、普通の人間よりも遙かに高い身体能力を有し、優れた武勇を身につけることができる。故に、守護妖精を持つ者を一般の戦士や騎士と区別して妖精騎士或いは単に《騎士》と呼ぶのだ。
ちなみに、単に騎士と言えば、能力とは関係なく、王族から叙勲されて騎士という称号を与えられた者であるが、《騎士》は守護妖精が憑いてさえいれば、叙勲されずとも《騎士》と呼ばれる。
もっとも、アゼルの身体能力は《騎士》としては最低に近く、運動神経のよい一般人よりもやや高い、という程度に過ぎなかったが。
「リルル、魔獣の気配はある?」
アゼルは、周りに誰もいないことを確認して、自分の守護妖精、リルルに話しかけた。守護妖精は基本的に《騎士》本人にしか見えず、その声も本人にしか聞こえない。
《騎士》同士でも、相手の守護妖精は見えない。独り言を言う危ない人とは思われたくないアゼルは、人前では決して守護妖精に話しかけないようにしていた。
「あルル。でも、まだ近くないルル」
リルルが思いきり首を左右に振った。それだけで、彼女はふらふらしてしまう。ややぽちゃっとした彼女が宙に浮く(飛んでいる、とはお世辞にも言い難い)のはなかなか難しいようだ。
アゼルは、当然他の《騎士》の守護妖精を見たことはなかったが、きっと、こんなにぽっちゃりしてはいないのではないかと思っていた。《騎士》を題材にした絵画では、スラリと美しい妖精が描かれるのが常である。彼の身体能力がそれほど高くないのも、このぽっちゃりとした守護妖精のせいではないか? そう疑っているアゼルであった。
幸い、アゼルが採取場所に着くまでに魔獣には出会わなかったが、森の様子はいつもと違うように感じられる。静かすぎるのだ。動物たちが魔獣に怯えているからだろう。
いつもは、運動がてらに薬草を手で摘んで回るアゼルだったが、今日ばかりは楽な方法を選ぶことにした。
アゼルの意図を悟ったのだろう。リルルが不満気に頬を膨らませたが、アゼルは適当に宥めた。
懐から、愛用の短剣を取り出す。複雑な文様の描かれたその短剣は、彼の魔力付与の師匠の手によるもので、魔力付与の際に、魔力の伝達を容易にしてくれる逸品だ。
だが、それだけでなく、この短剣にはもう一つの使い道があった。それは、魔術の触媒としての用途だ。
「刃の如き風よ……切り裂け!」
言葉を鍵としてアゼルが魔力を解き放つ。アゼルが自らの精神世界に描いた理想が、触媒となる短剣を通じて現実世界に具現化する。アゼルの周囲に鋭い烈風が巻き起こり、辺りの草を一気に刈り取っていく。
魔力は、物質に付与するだけでなく、魔術の源としても用いることができる。いや、寧ろ、付与の方が例外的な使い方と言うべきかも知れない。魔力を物質に留めるには、かなり高度な技術を必要とするからだ。
どちらにせよ、アゼルにとっては、体内で生成した魔力を付与に用いるか、魔術に用いるかに大きな違いはなかった。
自分の計算通りに薬草が刈り取られているのを確認して、アゼルは満足の笑みを漏らした。魔術を使うのは久しぶりのことで、上手くできるか少し自信がなかったのだ。アゼルは一面に落ちている薬草を拾い集めた。
魔術を使ったおかげで、十分な量の薬草を拾い終えても日はまだかなり高かった。精神的な余裕から、アゼルはフィリスの持たせてくれたおやつの焼き菓子に手を伸ばした。
「これからは、もう少し魔術を使ってもいいのかも知れないな」
「いやルル!」
声に出た独り言にリルルがじたばたと抗議した。魔術は、魔力付与と比べて魔力の消費が桁違いに大きいのだ。
一般に、守護妖精は魔力を消費する者を嫌うらしく、《魔術師》や魔力付与師の素養を持つ人間が守護妖精を持つことは稀有なことらしい。少なくとも、アゼルは自分の他にそういった例を知らない。もっとも、アゼルはどちらの才能にも恵まれたことを、余り喜んではいなかった。どちらの才能も、専業でやっている者には遠く及ばなかったからだ。それでも、才能があるだけマシだということは、彼も自覚している。
魔力を扱える者には二種類いる。生まれながらにしてその才を持つものと、後天的にその技術を身につける者である。魔力を持って生まれるかどうかは、遺伝的な要素が大きいと考えられているが、例外も多く、正確なことはわかっていない。
また、後天的に魔力を身につけるには、幼少期に魔力を身に通す必要があると一般には言われているが、こちらもよく分かっていないというのが本当のところだ。
その点、妖精の加護を受け、高い身体能力を有する《騎士》も同様である。統計的に、両親のどちらかが《騎士》なら、その子も《騎士》である可能性は高い。だが、そうでない例も多いのだ。
少なくとも、アゼルの両親は《騎士》でも《魔術師》でもなかった。
《騎士》として戦うことを放棄した日から、リルルが嫌がることもあって魔術を使うことを意識的に避けてきたアゼルであったが、戦闘以外の場面で使うのなら、魔術も悪くないかも知れない……。
これまで、付与は生活のための力、魔術は戦闘のための力と単純に考えてきたが、そういう固定観念を捨てて、自分の持って生まれた力をもっと使いこなせばよかったと、焼き菓子を頬張りながら、彼は少し後悔した。もっとも、魔術を使っておけばよかった、と本気で後悔するような具体的な局面は、今のところ特に彼の記憶にない。所詮魔術など、ないならないで生活に困るほどのこともないからだろう。
様々な後悔と自虐、それがアゼルの思考を構成する主な要素だった。いや、もはや嗜好といってもいいかも知れない。アゼルの心はいつもどこか空虚で、心から笑えることもあまりなかった。三十近くにもなって、情けないことだと自分でも思う。だが、一度生きる目的を失って以来、彼は、自分が、生きているというよりは、緩慢に死につつあるのではないかとすら思っていた。生存に最低限必要な日銭を稼ぐだけで、自堕落に生きる。再び何か生きる目的をみつけない限り、彼は死ぬまで惰性で生き続けることだろう。
しかし、それも悪くないのではないかと、アゼルは何となく思っていた。戦うことには疲れたし、誰に迷惑をかけているわけでもない。何も考えずにのんびりと生きる、或いはそれは、幸せの一つの形なのかも知れない。
くだらない思索に耽り過ぎたようだ。焼き菓子もとっくになくなり、そろそろ日も傾きかけている。リルルはいつの間にか眠ってしまっていた。早く帰らなければ、フィリスが心配することだろう。勿論、アゼルをというよりは、主に薬草を、だ。
「よっと」
若くない掛け声と同時に腰を上げた、その瞬間であった。アゼルはそれと目を合わせてしまった。生き物らしい感情を全く感じさせない赤い瞳、陽炎のように揺れる漆黒の毛皮。呆けていたとは言え、これほどの巨体がここまで近づいてきたのに、気付けなかった自分が信じられない。物音一つ立てずにアゼルを見つめるそれは、まぎれもなく、魔獣だった。




