今日は死ぬには良い日
『今日の天気は一日中晴れです。――には良い日ですね』
「は……?」
朝のニュース番組。いつものアナウンサーが爽やかな笑顔で口にしたその一言に、おれは呆然とした。
「今、なんて……?」
思わず問い返す。もちろんテレビのこちら側から届くわけもなく、画面の中ではアナウンサーたちが何事もなかったかのように『洗濯日和ですね』とか『出社前にシーツを干してきました』などと笑い合っていた。
……いや、それが普通だ。冷静になれ。つい、カッとなりそうだったが、さっきのはきっと聞き間違いだろう。テレビであんなことを言うわけがないじゃないか。あんな――
「あら、おはようございます。今日は死ぬには良い日ですねえ」
「……はい?」
「ほんと、いいお天気で。お仕事頑張ってくださいねえ。うふふ、失礼しま~す」
「いや、あの……」
言った……。今、間違いなく言った。『今日は死ぬには良い日』と……。
家を出てすぐ、近所の主婦が明るく声をかけてきた。ちりとりと箒を持ち、帽子のつばを少し上げて微笑み、いつも通りに。それゆえに、おれはゾッとした。
これはいったいどういうことだ……。さっきのアナウンサーも、あの主婦も、まるでそれが朝の挨拶かのように、自然と口にしていた。いつだろうと口にしていいことじゃない。あんな、し、死ぬにはいい日なんて……。ああ、不謹慎にも程がある。怒鳴りつけてやればよかったかもしれない。呆気に取られている間に家の中に戻っていってしまった。
いやしかし、あの主婦に悪意があるようには見えなかった。ただ笑って、いつものように爽やかに挨拶しただけ。声に棘もなく、皮肉めいた笑顔でもなかった。こちらから無礼な態度を取った覚えもないし、やはり聞き間違いだったのだろうか……。
おれは自分をそう納得させ、駅に向かって歩き出した。
『三番線、ドアが閉まりまーす。ご注意ください。今日は死ぬには良い日です』
なのに――まただ。今度は駅のホーム。アナウンスの最後に、確かに言った。聞き間違いではない。駅員に問い詰めようと思い、電車を降りようとしたが、寸前でドアが閉まった。おれはドアに張りつき、窓越しに遠ざかるホームをただ見つめた。
おれはため息をついて視線を床に落とした。そのときだった。
――死ぬには良い日だ。
――死ぬには良い日ね。
――死ぬには良い日かあ。
ここでもか――。囁くようにそう聞こえた。混み合い、誰が言ったか特定するのは不可能だ。しかし、一人ではないことだけは確かだった。四方八方から、おれの鼓膜を引っ掻き、脳の奥へじわじわと染み込んでくる。
たまらず、おれは次の駅で電車を飛び降りた。ベンチに腰を下ろし、通勤ラッシュが過ぎるまで、目の前を走り抜ける車両をただ黙って見送るしかなかった。
もちろん会社には遅刻したが、もはやそんなことを気にしていられる状態ではなかった。
「ああ、先輩、おはようございます。今日は死ぬには良い日ですね」
「……今、なんて言った?」
ようやく会社に着いたところで、後輩の第一声がそれだったのだ。
「はい? じゃ、外回り行ってきますね!」
言い終えると、後輩は手をひらひらと振りながら、エレベーターに消えていった。
やっぱりだ。聞き返しても、相手は首を傾げるばかり。まるで自分の言葉の異常さに気づいていない。途中で立ち寄ったコンビニでも、レジの若い店員に『死ぬには良い日ですね』と言われた。おそるおそる聞き返したが、店員は『え?』という顔をするだけだった。
「あー、あの、ちょっと」
「あ、はい。自分ですね」
呼び出され、おれは席を立ち、上司のデスクに向かった。上司は眉を寄せ、じっとおれの顔を見つめながら、低い声で言った。
「最近、遅刻が多いですが……死ぬには良い日ですか?」
「え?」
「だから、死ぬには良い日ですね?」
「い、いや、あの……すみません……」
意味がわからず、おれはただ謝るしかなかった。
「まあ、こちらとしても、あまりこういう言い方はしたくないんですよ。今の時代、パワハラだのなんだのって、うるさいですからね。わかってくださいよ。死ぬには良い日だと」
「は、はあ……」
「じゃあ、仕事に戻ってください」
「はい……」
いや、どう考えても、とんでもないパワハラ発言だが、上司にはその自覚がまるでないようだった。
他の同僚たちも、やはり同じだった。トイレの小便器で隣になった男が、真顔で『今日は、死ぬにはぴったりの日だよな……』と話しかけてきたり、荷物の配達員も取引先の担当者も、誰もが当たり前のようにその言葉を口にした。しかし、その誰一人として、自分がおかしなことを言っているという自覚はない。聞き返しても、不思議そうに見つめ返すか、怪訝な顔をされるだけ。
「い、今、はっきりと言ったじゃないか! “死ぬには良い日”だと!」
しびれを切らし、そう問い詰めたら、気が違ったと思われたのだろう。早退を促されてしまった。
実際、頭が痛かった。背中と脇と尻に、じっとりと汗をかくし、動悸がひどい。おれは素直に従い、数日間会社を休むことにした。
だが、それでもこの奇妙な幻聴は消えるどころか、日に日に悪化していった。
いや、認めるしかない。これは幻聴などではない。
ある夜――。電気を消して布団に潜り込んだおれは、それを見てしまったのだ。
闇の中。影よりも濃い黒い塊が浮かんでいるのを。人の形をしているようで、違う。まるで幼子の下手な塗り絵のように、輪郭が曖昧で滲んでいた。
そいつは、おれの頭の上からじっと見下ろしていた。
何も語らなかったが、おれにはそれがなんなのかわかった。
――あれは、死神だ。
あいつは、ずっとそばにいたのだ。そして、囁いていた。出会う人々の口から漏れていたあの言葉――『今日は死ぬには良い日』。それはすべて、あの黒い影の“声”だったのだ……! 現実の声を塗りつぶし、おれを……。
おれは震えた。指先から背骨の奥まで、ガクガクと震えた。息が詰まり、目が熱くなった。小便がじわりと漏れた。その温かさに、ほんの少しだけほっとした。
おれは目をぎゅっと閉じた。あの死神を見ないために。だが、代わりに耳の奥であの声が蘇ってきた。何度も、何度も……。
――今日は死ぬには良い日。
――今日は死ぬには良い日……。
――今日は……死ぬには……良い日……。
「皆さん、おはようございます! 今日は最高の日ですね!」
休養明けの朝。元気よく出社したおれに、同僚たちは一様にぽかんとした顔を向けた。その反応が妙におかしくて、おれは思わず噴き出してしまった。
「ちょっと、先輩……」
後輩の一人が、気まずそうな顔でそっと近づき、声をかけてきた。
「ん、どうした? そんな顔して。外はいい天気だぞお」
「それはそうですけど、まずいですよ……。佐竹さん、亡くなったばかりなんですから」
「え? そうなのか?」
佐竹というのは、この前トイレで隣に立った男だ。体型は普通で、顔色も悪くなかった。事故にでも遭ったのだろうか。
「あ、そうか。休んでたから知らないんですね。先輩が早退した日の午後に……」
「まあ、そういうこともあるよな」
「いや、そんな軽く……あ、どこ行くんですか?」
おれは、フロア全体に響くような声で言った。
「外回りだよ!」
今日は、本当にいい日だ。見上げた空はどこまでも青く、雲一つない。すべてが洗い流されたように澄んでいる。
途中、コンビニに立ち寄り、新作のスイーツを二つ買った。レジで「これ、最後の晩餐用なんだ」と言うと、店員は一瞬きょとんとした後、冗談だと思ったらしく、苦笑した。
この数日間で、身辺整理はすべて済ませておいた。スマホも、ネット回線も、光熱費の自動引き落としも全部解約した。だが、どうやらその必要もなかったらしい。
「ようこそ、安楽死センターへお越しくださいました」
白く無機質な建物の受付で、白いスーツを着た職員が深々と頭を下げた。
説明によれば、ここでは死亡後の身辺整理まで一括で請け負ってくれるという。家具の処分などが残っていたので、ちょうどよかった。国の予算で運営されているから、遠慮はいらない。
「ではまず、首の後ろに埋め込まれているチップを回収いたします。その後、専用の衣服に着替えていただき、静養カプセルにお入りいただく流れとなります」
「チップ……?」
「はい。出生時に埋め込まれた、国民識別用のマイクロチップです。健康管理と身元確認のためのものですね」
「ああ、そういえば、そんなのあったな。すっかり忘れてたよ。ははは、もうずいぶん昔のことだからなあ」
「では、回収しますね。少しチクッとしますが、すぐに終わりますからね」
「はいはい、どうぞどうぞ」
――痛っ。
「はい、完了しました。高齢化社会の進行防止、および若い世代への過度な負担を軽減するために、自ら身を引くご決断をいただけたこと、心より感謝と敬意を申し上げます」
「あー……いや、いいんだ、いいんだ。少子高齢化で一時は国が終わるとまで言われていたものな。そんな時代は、絶対に来させちゃいけない」
おれがそう言うと、職員はにっこりと微笑み、深く頷いた。
実に、清々しい気分だ。ここに来ると決めた瞬間、あの声はおれを褒め始めた。あれは心地よかった。でも、今はもう聞こえない。ただただ静かだ。心が落ち着く……。
……でも、ほんの少しだけ不安になってきた。けれど、大丈夫だろう。だって――
「あ……あの、きょ、今日は死ぬには良い日ですよね……?」
おれが訊ねると、職員は変わらぬ笑顔で、明るく答えた。
「はい。今日は死ぬには最高に良い日ですよ」