兎神社のみなしご狐 6
人付けは野生のゴリラでさえ人の追跡を許すようになる極めて効果的な手法だが、ゼロからその状態に持っていくためには、長い時間と労力を必要とする。すなわち、人付けには根気強さが不可欠なのである。
「うわっ! また出た!」
「こんにちは、岡丸。今日の調子はどう?」
岡崎神社に通いはじめて十日目。しとしとと降る雨が石畳を濡らす中、紬は傘をさして、手水舎の中にいる妖狐に話しかけた。岡丸というのは、紬がこの子につけた名前である。由来はもちろん岡崎という地名だ。岡丸は迷惑そうな顔でふわりと宙に浮かび、こちらを見下ろして言う。
「しつこいなあ……。おいらの狐火をよけようとして水たまりに足を突っ込んだばかりなのに、また懲りずに来たの?」
「ふっふっふ。昨日は確かにしてやられたわ。でも、今日はちゃんと長靴を履いてきたから大丈夫! どこからでもかかってきなさい!」
紬は片足を上げて自慢の長靴を見せびらかしながら答えた。岡丸はそっぽを向いてフンと鼻を鳴らす。
「そんなことしたっておいらは捕まえられないよ~」
「だから捕まえようとしてないってば」
いつもの押し問答を繰り返す一人と一匹。真っ赤な狐火が紬の目の前にボウッと現れたのはその直後だった。
「おっと!」
紬はすんでのところで頭を下げて狐火をよけ、不敵な笑みを岡丸に向ける。
「ふふん。そう何度も同じ手を食うと思ったら大間違いよ。君の攻撃パターンは読めてきてるんだから――。アチッ!?」
しかし、紬の笑みはすぐに歪むことになった。狐火が彼女の背中に命中したのである。
「いししっ! 一度出した狐火はおいらが自由に動かせるんだよー! 残念でしたー!」
岡丸は紬をからかうようにベーッと舌を出すと、手水舎の奥に並べられた絵馬をすり抜けて姿をくらました。
「ひーっ。やられたーっ! かゆいーっ!」
紬は顔をしかめ、急いで取り出した霊符を背中に押し付ける。こうすれば少しは呪いが緩和されるのだが、効果は虫刺されに薬を塗るようなもので、かゆみが完全に消えるわけではない。
「紬ー、大丈夫かあ? 毎日狐火にやられて、体中が呪いだらけになってきてるけど」
千綾が心配そうに声をかけてくる。しかし、紬は瞳に闘志の炎を燃やして首を縦に振った。
「ふふ……。このくらいどうってことないわ。狐火が動くっていうなら、明日からはそのつもりで対策しないとね……」
「うわあ……。すっかりムキになってるじゃん……」
千綾はぺたんと耳を伏せて言った。
***
岡丸の人付けと並行して、紬はこれまでに出会った妖狐たちにも意見を聞きに足を運んだ。
「ふーん。みなしごの妖狐ちゃんねえ……」
と首を傾げたのは哲学の道で再会した小春である。
「そうなんです……。ちょうど小春ちゃんの子供たちと同い年なんですけど、どうやって仲良くなったらいいと思いますか?」
紬が尋ねると、小春は難しい顔をしてゆっくりと尻尾を揺らしながら答えた。
「そうやねえ……。うちの子も親と一緒にいる時間はだんだん少なくなってきてるしなあ……。子供たちは自立心が強くなってくる頃やし、今から見ず知らずの相手と親しくなるのは大変やろうねえ」
「えっ。自立って、もうそんな時期なんですか?」
紬は目を丸くして聞き返す。小春は笑って言った。
「びっくりした? 狐は生まれて半年もすれば親離れをはじめるんやで。といっても、うちの子たちは相変わらずの甘えん坊やし、きょうだいで一緒に遊んでる姿もよく見かけるけどね。完全な独り立ちはまだまだ先になりそうやなあ」
「そっか……。狐は狼みたいに大きな群れをつくる動物じゃないから、大半の子供は家族から離れて行っちゃうんですね。そう考えると、今さら岡丸と距離を縮めようとするのは、遅きに失してしまっているのかも……」
紬は眉根に皺を寄せて唸った。しかし、小春は前向きな口調で続ける。
「うちは諦めるには早いと思うで。狐は親元を離れた後も、恋の相手を探したり、子育てしたりするんやから、新たな出会いの機会がなくなるわけじゃないし。きっかけさえあれば、あんたもそのみなしごちゃんとお近づきになれるんちゃうかな?」
「きっかけ……ですか」
「そう。子狐っていうのは、この世の全てに興味津々な生き物やからね。そのみなしごちゃんのあんたに対する好奇心がなにかの拍子に警戒心を上回りさえすれば、逆に向こうから近づいてくるようになると思うで」
「なるほど! 相手の好奇心を引き出すという発想はありませんでした! 岡丸の警戒心をゼロにするのが難しくても、その手を使えば急接近できる可能性がありますね!」
紬は目を輝かせてポンと高らかに手を打ち鳴らした。
そもそも人付けは野生動物を観察するために開発された技術なので、その目標は動物が観察者の存在を気にしなくなることである。しかし今回、紬が目指しているのは、岡丸との友好的な関係構築だ。ならば、あえて岡丸の注意を引くようにふるまう作戦が功を奏するかもしれない。やはり餅は餅屋だ。妖狐のことは妖狐に聞いてみるのが一番である。
「大変参考になりました! ありがとうございます!」
紬が嬉々として頭を下げると、小春は気づかわしげに首を傾げて答えた。
「張り切んのはいいけど、くれぐれも体を壊さへんように気いつけや」
「はい! 頑張ります!」
紬は元気に返事をして、さっそく新たな作戦の実行に向けて動き出したのだった。
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