吉田山の泥棒狐 8
「どうしたのー?」
足元から茜の不思議そうな声が聞こえる。紬は険しい表情で、千綾と妖狐たちがついてこないように手で制止した。
「危ないから、みんなはここで待ってて。ちょっと見てくる」
紬はそう言って、一人で茂みにゆっくりと歩み寄る。紬は邪気が強くなるのを感じながら、霊符を一枚取り出して右手の平にのせ、左手で慎重に下生えをかき分けた。
(あった……!)
邪気の発生源は容易く見つかった。それはなんの変哲もないただのテニスボール大の石ころに見えたが、他の自然物とは明らかに気配が異なっている。紬は霊符で石を包み込むようにして、そっと拾い上げた。こうすれば、霊符の効果により、石から染み出す邪気を一時的に封じ込めることができるのだ。
と、その時。不意に背後から、
「なにー? なに見つけたのーっ!?」
「おい、こら。待ってろって言われただろ!」
と言い合う茜と千綾の声が聞こえてくる。振り返った紬は、千綾が茜の尻尾をくわえて必死に引き留めようとしているのを見て、ようやく自分が犯したミスに気がついた。
「なにやってんだ。妖狐に『待て』ができるわけないだろ」
折しも、喬がこちらの騒ぎを聞きつけた様子で、あずま屋の中から声をかけてくる。紬は慌てて妖狐たちに駆け寄ると、手にした石を彼らに見えるように差し出した。
「はい! もう邪気は出てないから大丈夫だよ」
「わーっ。なにこれなにこれー?」
千綾に尻尾を解放された茜は、好奇心に目を輝かせて石に鼻先を近づけてくる。
「ふー。とんだおてんば狐だぜ……」
千綾はその後ろでため息をついた。それから間もなく、喬もこちらに合流し、妖狐たちと一緒に石をのぞき込んで言う。
「じゃあ、これが土蜘蛛復活の元凶だったってわけか……。ただの石ころじゃなさそうだな……」
「もともと吉田山にあった石でもなさそうですよね……。手に取ってみます?」
紬が石を手渡そうとすると、喬は渋い顔をして首を横に振った。
「いや、いい。石なんか見ても僕にはなんにも分からないだろうし。それより、そっちの協会にはこういうのに詳しい専門家がいるんじゃないのか?」
「そっか! 確かに、自然物の怪係の土御門先輩なら、なにか分かるかもしれません。――あ、そうだ! そういえば、京大ってここから歩いて行ける距離にありますよね?」
「ん? 京都大学? 確かに近いけど、それがどうかした?」
「それは好都合です! 土御門先輩は京大の地質学教室で客員教授も務めておられるんですよ。もし研究室にいらっしゃったら、すぐに見ていただくことができるかもしれません!」
「なるほどー。そいつはいい。じゃ、僕はここらで家に帰るとするかな」
「なんでそうなるんですか!? せっかくここまで同行してくださったんですから、結果を最後まで見届けてくださいよ! この石の正体が気にならないんですか?」
紬は喬の目の前に石を突き付けて尋ねる。喬はしばし逡巡の表情を浮かべたが、ついに肩を落としてため息交じりに言った。
「分かった。行くよ。行けばいいんだろ。答えを知らないままじゃ、今夜の寝つきが悪くなりそうだしね」
***
妖狐たちと別れて吉田山から下山した二人は、その足で直接京都大学に向かい、わずか十分余りで理学部の建物の一室に到着した。「土御門源弥」と名前が記された扉には部屋の主の所在を示すマグネットが貼られており、今は在室であることを示している。
紬がノックして扉を開けると、スキンヘッドに眼鏡をかけ、作業着のような服を身にまとった四十歳近い男性が彼女を出迎えた。その風貌は、専門書に溢れた室内の雰囲気とはミスマッチに見える。しかし、彼の外見と中身の印象の違いに比べれば、そんなものは些細なギャップに過ぎなかった。
「あれーっ!? 紬ちゃんじゃん! 急にどうしたの?」
そう。こう見えて、土御門先輩はびっくりするほど陽気なのである。紬は扉の外で顔をこわばらせている喬を半ば強引に部屋へ引き入れ、笑顔で土御門先輩に明るく挨拶した。
「いきなりお邪魔してすみません。実はさっき、吉田山で呪物と思しき石を拾ってしまいまして……。あ、こちらは狐番の目付け役、狐坂さんです」
「どうも」
喬は申し訳程度に頭を下げる。だが、土御門先輩はまったく気にしていない様子でパチンと指を鳴らし、朗らかに答えた。
「おー! 君が噂の狐番かあ! ぼかあ生物系の妖怪が苦手で、その手の依頼を引き受けないもんだから、なかなか君と会う機会もなかったけど、京都本部の他のメンバーからよく話は聞いていたよ!」
「そっ……すか」
喬の返事は小さい。どうやら、この二人はすこぶる相性が悪いようである。紬は喬と一緒に、テーブルを挟んで土御門先輩と向かい合って座り、吉田山で起こったことの顛末を説明した。