狐と鼠の陣取り合戦 7
「えっ? どうしたの?」
紬が目を丸くして尋ねると、彼女を囲んだ鼠たちは興奮冷めやらぬ様子で口々に叫んだ。
「やった! やったぞ! ついにあの忌々しい狐一家が出て行ってくれたんじゃ!」
「これで今日から平和に暮らせるよ!」
「君たちが妖狐を追い払ってくれたんでしょ? 本当にありがとう!」
紬は「へ?」と面食らって、足元で跳ね回る小さなあやかしたちを見下ろす。
「ばんざーい! ばんざーい!」
「い、いや、ちょっと待って!? 私はまだなにもしてないし、なにも知らないよ!?」
「ばんざーい! 鼠の天下だー!」
紬は動揺を露わにして鼠たちに声をかけるが、彼らにその言葉は届いていないようだ。
「ど、どうして……?」
紬は困惑して周囲を見回す。しかし、境内に鳶の妖怪が飛来した気配はない。じゃあ、なぜ小春は急に出て行ってしまったのだろう?
「千綾、小春ちゃんの痕跡をたどれる?」
紬は胸騒ぎを覚えて、肩の上の猫又に尋ねた。千綾は口の周りのひげをピンと前に向け、鼻をひくつかせて答える。
「おう、任せろ。かすかにあいつの妖気を感じるぜ」
「案内して!」
紬は切迫した口調で言った。もし、あの子の身になにかがあったら……! 紬は体が疲れ果てているのも忘れ、千綾の後を追って駆け出した。
千綾はまっすぐに神社を出て、そのまま一気に哲学の道を下った。紬は息が上がるのも構わず、不安に駆り立てられるまま足を急がせる。やがて、千綾は住宅地に入ると、何回か角を曲がったところで不意に足を止めた。紬もびっくりして急停止するが、千綾の視線の先を見て、すぐに彼が止まった理由に気がつく。
「狐坂さん……?」
そこには、ボロボロの古民家の前にロードバイクを停め、満足げにたたずんでいる狐番の姿があった。紬の声に振り返った喬は驚きに目を見開く。
「げっ!? 嘘だろ。あんた、こんなところまでついてくんのかよ」
「『げっ』じゃないでしょう! 私に黙って勝手になにやってるんですか!」
紬はたちまち抗議の声を上げるが、それと同時にどこかホッとしてもいた。小春の失踪がこの人の仕業なら、彼女はきっと無事だろうという確信があったからだ。
「小春ちゃんたちはどこですか!?」
紬は喬を押しのけるように彼の前に身を乗り出し、古民家の方をのぞく。すると、見るからに空き家だと分かる建物のそばで、小春が遊び回る子供たちを見守っている様子が目に入った。子狐たちの毛色は以前のような灰色ではなく、いつの間にか成獣と同じ狐色になっている。妖怪は肉体を持たないが、精神が成熟するにつれ、それにふさわしい見た目に変化していくのだ。キャッキャとじゃれあっている彼らは全身で喜びを表現しているように見えた。
「なんだ……。こんなところに引っ越してきていたんですね。この場所はあなたが見繕ったんですか?」
紬は胸をなでおろし、喬を振り返って尋ねる。しかし、喬はスッと視線をそらし、白々しくとぼけた。
「さあ? 狐はなわばりの中に巣を何か所も持っているのが普通だから、ここもそのひとつだったんじゃないか? そもそも、狐は元来、子育て中に巣を変えることが多い動物だ。僕は何もやっちゃいないよ」
「へえー。そうですか」
紬はニヤッと笑って言い、再び幸せそうな妖狐一家に視線を戻す。と、ちょうどその時、空き家の背後から、新たに狐の成獣が一匹姿を現したので、紬は思わず目を瞬いた。新たに登場した成獣は小春に歩み寄り、鼻先を近づけてから、互いに毛づくろいをはじめる。だが、その様子に紬は違和感を覚え、すぐにハッとした。
よく見ると、二匹は物理的に触れ合っていないのだ。小春の体はかすかに透けているが、もう一匹は全く透けておらず、接した部分の輪郭が重なって見えている。それは、後者が生身の体を持った存命の狐だということを意味していた。
「あの子は……。もしかして、小春ちゃんと死に別れたお父さん狐ですか!?」
紬は驚いてもう一度振り返る。――が、喬は素知らぬ顔で、さっさとロードバイクにまたがろうとしているところだった。
「さあね。それ以上は詮索せず、そっとしておいてあげなよ。協会所属の陰陽師としては、私有地に居着いた妖怪は排除しなきゃいけないのかもしれないけれど、あんたはそこまで融通が利かない人間じゃないだろ?」
喬はペダルに足をかけた体勢のままこちらに顔を向けて問う。紬は「うっ」と言葉を詰まらせた。確かに、市民の平和と財産を守るという意味では、小春たちがここに棲むのを見過ごしてはいけないのかもしれない。妖怪は悪気がなくても、少なからず怪奇現象を引き起こすものだからだ。
(――でも、あの子たちをまた追い払うなんて、私には無理だよ)
紬は嘆息し、苦笑交じりに答えた。
「分かりました。今回は特別に見なかったことにしましょう」
「そうか。じゃあ、あんたも共犯だな」
喬はニヤリとして顔を正面に戻すと、勢いをつけてペダルを漕ぎはじめようとする。
その刹那、紬の頭の中にある考えが閃き、彼女は反射的に喬の腕をつかんで引き留めた。
「ちょっと待ってください! もしかして、あなたは最初から、小春ちゃんを夫と再会させるつもりだったんじゃないですか?」
ガクンと上体を後方に引っ張られた喬がムッとした顔で振り返ると、紬は前のめりになって早口で尋ねる。喬はげんなりした表情を浮かべて答えた。
「あー、そうだよ。子狐たちがある程度成長した段階でね」
「ですよね! やっぱり!」
紬はパズルのピースが埋まっていくような快感を覚えつつ、さらに勢い込んでまくしたてる。
「だけど、都合が悪いことに、お父さん狐は改築がはじまった古民家から、すでに別の空き家へ拠点を移してしまっていた! そこに小春ちゃんと子供たちを連れていくところを私に見られたら、公益を優先する陰陽師協会は、彼らをここから追い払ってしまうかもしれない。だから、あなたは私にバレずに妖狐母子の引っ越しを完遂するため、あえて十五日の猶予期間を設け、時間稼ぎをした! 違いますか?」
喬は無言で目を丸くする。その反応を肯定と受け取った紬は、いたずらっぽく口角を上げて続けた。
「――そして、これは私の立場を見極めるテストも兼ねていたんですよね? 陰陽師の中には職業柄、妖怪に対して冷たい人も少なくないですから……。でも、私はあなたが提示した作戦を安易に採用せず、大豊神社に通い詰めて本気で悩んでいた。あなたはそのことを小春ちゃんから聞いて、私が妖怪の味方だと判断したのでしょう? そうでなければ、さっきだって、私がこの件を見逃すかどうかを予想することはできなかったはずですもんね!」
「は? か、勘違いするなって! 僕がそんなことまで考えてるわけないだろ!?」
喬は声を上ずらせると、紬の手を振りほどき、全速力で今度こそ駆け出した。
「ははーん! 図星ですね!」
「やーい! 逃げてやんのー!」
紬と千綾は一緒になって、みるみる小さくなっていくロードバイク上の後ろ姿に向かって叫ぶ。それから、彼らは顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。
「あははっ! 結局、私たちはまたあの人に踊らされちゃってたんだね」
紬はひとしきり笑い、再び空き家の方に目を向ける。そして、こちらの声に気がついた様子の妖狐一家に明るく手を振ったのであった。