ラウンド2:『神の領域か、人の領域か』~その探求は許されるのか~
(ラウンド1が終わり、スタジオには深遠な余韻が漂っている。ダ・ヴィンチの「観察」、ニュートンの「法則」、アインシュタインの「調和」、そして空海の「いのち」。四つの異なる世界観が提示され、互いに反発し、あるいは響き合い、複雑な緊張関係を生み出している。案内人あすかは、その中心で静かに頷くと、次のラウンドの開始を告げた)
あすか:「観察、法則、調和、そしてその全てを包むいのち…。皆様が見てきた世界のカタチは、かくも違い、しかして、空海様のお言葉を借りるなら、同じ一つの山の、違う景色であるかのようにも聞こえました。しかし、その尊い探求は、常に平穏な道ではなかったはずです」
(あすかがクロノスを操作する。すると、ダ・ヴィンチの前に、彼自身が描いた精緻な人体解剖図のホログラムが再び浮かび上がる。そしてその隣には、荘厳なサン・ピエトロ大聖堂の映像と、宗教裁判の様子を描いた厳格な絵画が並んで表示された)
あすか:「ラウンド2のテーマは、『神の領域か、人の領域か』。その探求は、どこまで許されるのか、という問いです。ダ・ヴィンチ様、あなたからお話を伺いましょう。あなたのその探求は、一歩間違えば『神への冒涜』とされ、教会から断罪されかねない、極めて危険な行為でした。一方でニュートン様、あなたはご自身の科学を『神の御業の証明』と捉えておられた。この『境界線』…つまり、人の探求が許される領域と、そうでない神聖な領域は、存在するのでしょうか?存在するとして、その線は、一体どこに引かれるべきなのでしょうか?」
ダ・ヴィンチ:(目の前に浮かぶ解剖図と教会の映像を交互に見つめ、少し不思議そうに首を傾げる)「危険な行為、ですかな?あすか殿、わたくしには、なぜこれが危険なのかが、とんと分かりませぬな」
ニュートン:「ほう。白々しいことを言う」
ダ・ヴィンチ:(ニュートンの野次を意に介さず、あすかに問いかけるように続ける)「わたくしはただ、知りたいだけなのです。神がこれほどまでに精巧に、美しく創りたもうた最高傑作の仕組みを。目の前にあるこの奇跡の構造を調べもせず、ただ何百年も前の古い書物に書かれた言葉を鵜呑みにし、思考を止めてしまうことこそ、神が我々に与えたもうた『知性』という最高の贈り物を放棄する、怠惰という罪ではないのですか?」
(ダ・ヴィンチは立ち上がり、まるでかつての弟子に講義するように、情熱的に語り始める)
ダ・ヴィンチ:「教会の方々はこう仰る。『人の身体は、魂が宿る神聖な器である。それに無闇に刃物を入れるなど、許されざる冒涜だ』と。ごもっとも。ですが、では、その『魂』とは一体何なのです?どこに宿っているのです?この心臓の鼓動か?脳の中の思考か?それを知るためにも、まずはその『器』そのものを、徹底的に調べねば始まりませぬ。わたくしにとって、このメスを入れる行為は、冒涜どころか、神との最も真摯な対話なのです。一筋の筋肉をたどるごとに、一本の血管を追うごとに、わたくしは神の設計の完璧さに、ただただ打ち震え、感謝の念を抱くのです」
あすか:「ですが、ダ・ヴィンチ様。当時の権威であった教会が『否』と言えば、あなたの探求は罪とされた。その『権威』とあなたの『探求心』が衝突した時、あなたはどうなさるおつもりでしたか?」
ダ・ヴィンチ:「権威、ですかな。わたくしが従うべき権威は、ただ一つ。それは、わたくし自身の『経験』だけです。そして、その経験を通して見る、ありのままの自然の姿です。もし教会の方々が、わたくしの描いたこの解剖図をご覧になって、それでもまだこれを冒涜だと仰るなら、それはその方々が、神の創りたもうた真の美しさを見ていない、ということになりましょう。そもそも、『神の領域』などと、軽々しく線を引くこと自体が、人間の傲慢さの表れではないでしょうか。この世界のありとあらゆるものが神の作品であるならば、我々が触れ、学び、知ることが許されぬ場所など、本来はどこにも無いはずです」
(ダ・ヴィンチは言い切り、静かに席に戻った。彼の主張は明快だ。「探求にタブーなし」。その純粋な好奇心は、地上のいかなる権威にも縛られないという強い意志に満ちていた。その言葉を受け、ニュートンが冷ややかな光を宿した瞳で口を開く)
ニュートン:「…青臭い理想論だな。ダ・ヴィンチ殿、貴公の言っていることは、まるで世間知らずの子供の言い分だ」
ダ・ヴィンチ:「ほう、ニュートン殿は、わたくしを子供だと?」
ニュートン:「そうだ。貴公は、探求の『権利』ばかりを主張するが、その『責任』と『目的』を全く理解していない。ダ・ヴィンチ殿の言うことにも、一理はある。神の創りしものを知らずして、神を語ることなどできん。わたくしも、望遠鏡で星を追い、プリズムで光を分けた。その点において、貴公の探求心そのものを、わたくしは否定しない」
(ニュートンは、そこで一度言葉を切り、その声に一層の厳格さを込めて続けた)
ニュートン:「だが、問題はその動機と目的だ!その探求が、単なる人間の飽くなき好奇心を満たすためや、己の名声を高めるためのものであっては、断じてならん!すべての科学的探求は、この宇宙を支配する神が定めたもうた、完璧にして偉大なる秩序と法則を明らかにし、それによって神の栄光を讃え、聖書の記述の正しさを証明するためにこそ、捧げられるべきなのだ!」
アインシュタイン:(小さく呟くように)「科学が、聖書の証明のために…」
ニュートン:(アインシュタインを一瞥し、さらに声を強める)「そうだ!わたくしが天体の運行を計算し、光の謎を解き明かしたのも、全てはこの宇宙がいかに完璧な『設計者』によって創られたかを、数学という最も厳格な言語で証明するためだ!惑星が寸分の狂いもなく楕円軌道を描く様は、まさに神の知性の顕現に他ならない!わたくしは、科学という手法で、新たな詩篇を編み、神を讃えているに過ぎんのだ!」
(ニュートンの前の空間に、彼が没頭した錬金術の奇妙な図形や、聖書の年代記を計算した羊皮紙のホログラムが浮かび上がる)
ニュートン:「わたくしは、聖書に記されたソロモン神殿の構造を研究し、世界の終末がいつ訪れるのかを計算した。これらもまた、神の計画を読み解こうとする、科学的探求の一環なのだ。神の計画を知り、それに備えることこそ、人間に与えられた最も崇高な義務であろう」
(ニュートンは、鋭い視線でダ・ヴィンチを射抜く)
ニュートン:「そこで、ダ・ヴィンチ殿、貴公に問う。貴公のその探求は、果たして神の栄光に繋がっているのか?それとも、ただ珍しいものを描き留めて悦に入る、貴公自身の自己満足に過ぎないのか?その動機こそが、その行いが神聖なる領域に入るか、あるいは俗なる人の領域に留まるかの、唯一絶対の境界線なのだ!貴公の答えや、いかに!」
(ニュートンの厳しい詰問に、スタジオは凍り付いたような緊張感に包まれる。ダ・ヴィンチの自由な探求心に、「神」という絶対的な目的と動機を突きつけたのだ。ダ・ヴィンチが答えようと口を開きかけた、その時だった)
アインシュタイン:「まあまあ、ニュートン先生。そう熱くならないでください。血圧が上がると、時間の進みも僅かに変わってしまいますよ?…おっと、これは失礼」
(アインシュタインが、わざとらしくおどけた調子で割って入った。場の緊張感を和らげようとするかのようなその口調に、ニュートンはさらに眉を吊り上げる)
ニュートン:「貴様…!人の神聖な議論を茶化すか!」
アインシュタイン:「いえいえ、とんでもない。お二人の議論は、どちらも情熱的で、知的好奇心を大いに刺激されます。本当に素晴らしい。ですが、私には、お二人が少しだけ、違う舞台に立っているように見えてしまうのです」
ダ・ヴィンチ:「ほう、違う舞台、とは?」
アインシュタイン:(ダ・ヴィンチとニュートンを交互に見ながら、ゆっくりと語りかける)「ダ・ヴィンチ先生を裁こうとしたかもしれない、地上の組織としての『教会』。そして、ニュートン先生がその栄光を捧げようとする、この宇宙の偉大なる創造主たる『神』。この二つは、果たして同じものなのでしょうか?」
(その問いは、誰もが暗黙のうちに混同していた点を、鮮やかに切り分けるものだった)
アインシュタイン:「私にはこう思えるのです。問題の核心は、個人の純粋な探求心…ダ・ヴィンチ先生の言う『ただ知りたい』という根源的な衝動に対して、外部の何者かが『それは許される』『これは許されない』と、勝手に境界線を引こうとすること、その行為そのものにあるのではないでしょうか?」
(アインシュタインは立ち上がり、ゆっくりとスタジオを歩きながら、まるで学生たちに語りかける教授のように続ける)
アインシュタイン:「ガリレオ・ガリレイのことを思い出してください。彼は、ニュートン先生と同じように、望遠鏡という新しい道具を使って、宇宙の真の姿を見ようとしました。そして、地球が太陽の周りを回っているという事実に気が付いた。しかし、当時の教会は『聖書の記述と違う』という、たったそれだけの理由で、彼の自由な探求を異端とし、断罪したのです」
(アインシュタインは、ニュートンの目の前でぴたりと止まる)
アインシュタイン:「結果、どうでしたか?結局、正しかったのはガリレオでした。何百年も経ってから、教会は自分たちの過ちを認めざるを得なかった。では、ニュートン先生、あなたにお聞きしたい。この時、一体どちらが本当に『神の栄光』を汚したのでしょう?神が創りたもうた宇宙の壮大な真実から目を背け、古い書物の字面に固執した、教会の方ではなかったのですか?」
ニュートン:「…それは、教会の人間が、神の御心を正しく解釈できなかっただけの話だ。ガリレオの発見自体は、神の偉大さを示すものに他ならん」
アインシュタイン:「その通り!その通りなのです、先生!あなたほどの知性があれば、当然お分かりのはずだ。『神の領域』という言葉は、しばしば、為政者や聖職者が、自分たちの理解を超えた新しい発見や、自分たちの権威を脅かす思想を封じ込めるために使う、非常に都合の良いレッテルになりがちです。それは、真理の探求を妨げる、ただの思考停止の呪文に過ぎない」
(アインシュタインは、再びダ・ヴィンチの方へ向き直る)
アインシュタイン:「ですから、ダ・ヴィンチ先生の問いへの私の答えはこうです。『神の領域などというものは、人間が決めるものではない』。そして、ニュートン先生の問いへの答えも、またこうです。『探求の動機が神のためか、自己満足かなんて、他人が裁くことではない』と」
(そして、アインシュタインは、この場の全員に宣言するように、高らかに言った)
アインシュタイン:「本当に大切なのは、神の名を借りた誰かの権威に盲従することでもなければ、探求の目的を神の栄光に限定することでもない。ダ・ヴィンチ先生が体現しているような、子供のままの好奇心と、誰にも、何にも縛られることのない、絶対的に自由な精神を持ち続けること。これこそが、人類を知の地平線の彼方へと導く、唯一の光だと、私は固く、固く信じていますよ」
(アインシュタインの力強い宣言に、ダ・ヴィンチは満足そうに深く頷く。ニュートンは、反論の言葉を探すように、苦々しい表情で唇を噛む。西洋の知性が生み出した「権威」と「自由」という二大テーマが、激しい火花を散らした。その熱気と緊張が最高潮に達した時、それまで静かに三人の議論を聞いていた空海が、静かに、しかしその場の空気を支配するような声で、口を開いた)
空海:「…面白いものですな。境界線を引こうとする心と、その線を消そうとする心。そのどちらもが、かくも激しく、真剣にぶつかり合うとは」
(空海のその一言は、熱した鉄に注がれた水のように、スタジオの空気を一瞬で変えた。三人の天才は、みな一斉に、この東洋の覚者に注目する)
空海:(まず、ダ・ヴィンチに慈愛に満ちた眼差しを向ける)「ダ・ヴィンチ殿。あなた様が、人体の神秘にただ純粋に惹かれ、その美しさに感動するそのお心。それもまた、あらゆるものに仏と成る可能性が宿っているという『仏性』の、まばゆい輝きにございます。その清らかなお心に、どうして罪がありましょうか」
(次に、ニュートンへと視線を移す)
空海:「ニュートン殿。あなた様が、神の偉大さを証明するために、宇宙の深遠なる理を解き明かそうと苦心するそのお心。それもまた、仏の広大無辺なる教えを、一人でも多くの人々に伝えようとする、尊い『菩提心』。そのあまりに一途なお心に、どうして偽りがありましょうか」
(そして、アインシュタインへと微笑みかける)
空海:「そして、アインシュタイン殿。あなた様が、何ものにも縛られぬ自由な精神こそが何よりも大事だとおっしゃる。それもまた、あらゆる執着から離れることで、物事の本質を捉える真実の智慧、『般若』に至ると説く、仏教の『空』の教えと、どこかで深く、深く響き合っております」
(三者それぞれを肯定した上で、空海は静かに本質を語り始める)
空海:「良い、悪い。許される、許されない。神の領域、人の領域。権威か、自由か。そのように、物事を二つに分けてしまう心、これを仏教では『分別心』と申します。そして、この分別こそが、人と人との間に争いを生み、自らの心に苦しみを生む、根本の迷いであると説きまする」
アインシュタイン:「二つに分けること、それ自体が迷いである、と…?」
空海:「さようにございます。知りたいと願う、ダ・ヴィンチ殿の激しい探求心も。それを神の秩序の元に置こうとする、ニュートン殿の敬虔な心も。そのどちらもが、あなた方の中に宿る、同じ一つの、大いなるいのちの、異なる働きに過ぎませぬ。どちらが正しく、どちらが間違っているというものではないのです。光があるからこそ影が生まれ、影があるからこそ光の輪郭がはっきりとするように、その両方の働きがあるからこそ、人は悩み、考え、そしてアインシュタイン殿の言うように、新たな道を探すのではありませぬか」
(空海は、立ち上がり、三人の天才たちの中心に立つと、静かに合掌した)
空海:「探求する心そのものを、ただ静かに見つめ、信じて進めばよいのです。それがそのまま、あなた方だけの尊い仏道となるのでございます。そこに、誰かが引いた境界線など、本来は無いのですから」
(空海の言葉は、これまでの全ての対立構造を、より大きな視座から、静かに包み込んでしまった。神か人か、権威か自由か、という問い自体が、実は小さなものであったと、気づかせるように。スタジオには、先ほどまでの熱気とは違う、澄み切った静寂が訪れた)
あすか:(その静寂を破らないように、しかし確かな声で)「ありがとうございます、空海様。そして皆様。境界線を引こうとする西洋の知性と、その線引き自体を超越しようとする東洋の叡智…。皆様の探求の光と影は、私たちが何を『神聖』とし、何を『自由』と信じるのか、その心の姿そのものを、鏡のように映し出しているのかもしれません」
(あすかは、クロノスを掲げる。その画面には、番組タイトル『神はサイコロを振るか?』が、クローズアップされている)
あすか:「さて、ここまでは皆様の揺るぎない『信念』を伺ってまいりました。ですが、探求の最前線は、時に、信じたくないような『事実』を私たちに突きつけます。アインシュタインさんが、その生涯をかけて異を唱え続けた『偶然性』の問題…。いよいよ、この番組の核心に、踏み込んでまいりましょう」