第5話・やさしさの輪郭
美月は気づいていた。
蓮司が、とても大きな痛みを抱えていること。
それは、ただの「戦争の傷」ではなかった。
心の奥に、何かを、誰かを深く閉じ込めている。
「……それでも、私は……知りたいんです。蓮司さんのこと」
心の中でそう呟きながら、彼女はまた医療棟の中庭へと足を運んだ。
今日もまた、蓮司はベンチに腰を下ろし、無言で夜空を見上げていた。
そこには星の瞬きなどない。都市上空に張り巡らされた防衛フィールドが、空を鈍い膜のように覆っている。
だが、美月にとっては、それでも十分に美しかった。
──蓮司がそこにいる限り。
「……飲みますか?」
いつものように、ポットを差し出す。
蓮司は視線を横に動かすだけで、美月の手からポットを受け取った。
その仕草が、以前よりも少しだけ、柔らかくなっている気がした。
それが、美月には嬉しかった。
「……今日は、寒いですね」
ぽつりと話すと、蓮司は短く頷いた。
「戦場の夜に比べれば、楽なもんだ」
美月は驚いて蓮司の方を見た。
彼が、自ら口を開いたのは、これが初めてだった。
「……南ブロックの都市蜂起。冬だった。吹雪の中を、一週間這って……
敵陣に突入して、……俺以外、全員死んだ。美咲も……そのとき、いた」
名前を口にするその声は、まるで地の底から引き上げられたように重かった。
「美咲さん……その方は」
「……俺を人間に戻してくれた人だ」
蓮司は、顔を上げて夜空を見た。
美月は、黙って隣に座る。
その距離は、ほんの数十センチ。それでも、彼には遠かった。
「……怖いんだよ」
「……え?」
「美咲を忘れることが。誰かを、……好きになることが」
蓮司の声は震えていた。
「忘れたくない。けど……時々、もう……顔が、声が、ぼやけていく。
それが、怖くて……たまらない」
言葉にして初めて、自分の恐怖の正体を蓮司は知った。
忘れること。
愛した人を、心の中から失ってしまうこと。
それが──彼にとっては、生きることよりも、恐ろしかった。
美月は、静かに目を伏せた。
胸の奥が、じんわりと温かく、そして痛んでいた。
(この人は、ずっと……こんな重さを抱えて、生きてきたんだ)
彼を癒やしてあげたい。
自分でも気づかぬうちに、そう思っていた。
けれど、それが「恋」だという自覚はまだない。
ただ、彼のそばにいたいと──それだけだった。
──同時刻、LUX機構・最高警戒区域。
一人の男がその日も目を覚ます。
蓮司と共にこの時代に、蓮司よりも1年前に飛ばされた男。
男の名は──鳴神 刻夜。
蓮司と並ぶ、強化兵計画の“最高傑作”のひとり。
だが蓮司と違い、完全な兵器としての完成体だった。
感情を削ぎ落とされ、忠誠も命令も必要としない。
その存在自体が「敵を屠る」ためだけの存在。
「……蓮司は生きているのか」
口にした名に、かすかな色が混じった。
それは執着なのか、憎悪なのか、それとも──
「ならば、再び証明してやろう。どちらが“真の傑作”か」
鳴神の覚醒により、再び世界が戦慄を始める。
──蓮司の部屋。
夜遅く、眠れずにベッドに腰掛ける蓮司。
ふと、胸元のペンダントを取り出した。
中には、美咲の写真。
「……お前が愛してくれた俺は、今、ちゃんと人間でいられてるか?」
誰もいない空間で、彼はそっと囁いた。
だがその脳裏に、一瞬、美咲の面影の奥に美月の笑顔が重なった。
蓮司ははっとして、写真を胸元に戻す。
──ダメだ。
──お前を、俺の中から消したくない。
美月のことが気になっている。
その優しさに触れたとき、心が揺れる。
それでも、心の奥にいる美咲が、それを許さないような気がして。
「……怖ぇな、ほんとに」
蓮司は、誰に言うでもなく呟いた。
だが。
その心に、確かに灯る光がある。
名前のつかない感情。
まだ淡く、まだ儚い。
だけど確かに、美月と蓮司の間には──風が吹き始めていた。
(次回へ続く)