第4話・静寂の中の灯火
「……また、来てしまいました」
医療棟の小さな中庭。夜の帳が降りたその場所に、美月はそっと立っていた。
星の無い夜空を見上げながら、彼女は手に抱えた温かいポットを抱きしめるようにしていた。
彼女がここを訪れるのは、もう何度目だろう。
ただ蓮司と二言三言、言葉を交わすだけ。
それでも彼女は、変わらず足を運んでくる。
その理由を、彼女自身も言葉にできないまま。
「……他人に踏み込みすぎるの、良くないって分かってるんですけど」
小さく笑いながら、美月はそっと自分の胸に手を置いた。
「たぶん……私が助けてもらいたかったのかもしれません。誰かに……」
──綾瀬美月。
2120年代において、人類再建支援機構〈LUX〉の民間医療技師として働く女性。
彼女の出自は、都市廃区画である“第四居住層”──
いわゆる“棄民層”に分類される非公認居住区の出身だった。
飢え、暴力、薬物、売買される命。
子供の頃の彼女は、毎日をただ「終わらせないため」に生きていた。
「……でも、母は……それでも、笑ってたんです」
蓮司の前で、少しずつ語られる過去。
「人に優しくしなさい、って……
その優しさがいつか、自分を守ってくれるって……」
ある夜、暴動が起きた。
街は燃え、銃声が鳴り響いた。
その中で、母は美月をかばい、亡くなった。
美月はまだ八歳だった。
「それでも……最後まで、私にだけは笑ってくれました。
怖がらせないように……安心させてくれるように……
それが、きっと……ずっと、心に残ってるんです」
蓮司は黙って彼女の言葉を聞いていた。
いつものように、表情は動かさない。
だがその目には、かすかに波紋が揺れていた。
──ああ、そうか。
蓮司は思った。
この女は、美咲に似ているんじゃない。
美咲と同じ場所にいたんだ。
絶望の只中にいても、光を失わなかった。
その光が、他人を照らし、自分すらも照らし返す。
それは、蓮司が心から愛した、かつての“彼女”と同じだった。
「……辛くなかったのか」
ぽつりと漏れた声に、美月は驚いたように目を見張った。
蓮司が、自分に問いかけた。
初めてだった。
あの無機質な男が、自ら心を向けてくれたのは。
「辛かったです。……ずっと、辛かった。
でも……母の最期の笑顔が、ずっと心に残ってて……
……誰かに優しくできるなら、母のこと……忘れずにいられる気がしたんです」
蓮司はそれを聞いて、静かに息を吐いた。
まるで、ほんのわずかに、肩の荷が下りたように。
「……そうか」
それだけを言って、蓮司は背を向けた。
だがその背中は、これまでのような“壁”ではなかった。
どこか、手を伸ばせば触れられるような──そんな距離。
美月は気づいていた。
彼の心に、わずかに風が通ったことを。
──その夜、別の場所。
LUX第七隔離観測施設、最高警戒区域。
「──動いたぞ。やはり、こいつは……」
モニターの奥、冷却睡眠室に封印されていた男が、微かに動いた。
その肉体には、蓮司と同じく“強化兵技術”の痕跡が刻まれていた。
いや、それ以上に──
「……完全に、兵器として設計されている。
こいつは、“人間”を捨てている」
暗がりの中、男の唇がかすかに動いた。
「──レ・ン・ジ……」
それは、かつての同志の名。
憎しみにも似た執着のこもったその響きは、静かに世界の輪郭を歪めていく。
そして──
蓮司は、夜の中庭で一人、風に揺れる灯りを見つめていた。
「……俺は、まだ……人間でいていいのか」
その問いに答えるものは、今はまだいない。
だが。
「あなたは、ちゃんと……人を守ってきた人です」
背後からの声。
振り向かなくてもわかる。美月だった。
彼女の優しさが、少しずつ蓮司の中の“鉄”を溶かしていく。
心はまだ壊れたまま。
だが、その破片の間から、小さな温もりが確かに差し込んでいた。
(次回へ続く)