第17話・さよなら、愛しき人
その日、蓮司は久しぶりに悪夢を見なかった。
血と銃声、断末魔に濡れた夜ではない。
優しい、温かな夢だった。
夢の中。
蓮司は静かな場所に立っていた。
木漏れ日の差し込む並木道。
懐かしい香り。柔らかな風。
そして――そこに、彼女がいた。
美咲。
微笑みながら、ゆっくりと近づいてくる。
変わらぬ姿。けれど、どこか儚げで、遠い。
「……蓮司さん」
その声に、胸が締めつけられる。
もう二度と聞くことはないと思っていた声。
「……今、幸せ?」
問いかけは優しかった。
けれど、その瞳の奥には切なさが滲んでいた。
蓮司は、そっと目を閉じた。
浮かぶのは、美月と過ごした時間。
戦場で、病室で、そして穏やかなキャンプ地で。
眠る娘の寝息。焚き火のぬくもり。繋いだ手の感触。
――そして、星空。
蓮司はゆっくりと目を開け、美咲の瞳を見つめた。
少し照れながら、笑う。
「ああ……幸せだよ」
その言葉に、美咲は目を細めて微笑んだ。
何かを言いかけ、でも言葉を飲み込む。
唇が少し震えた。
「……そう。…良かった!」
蓮司が一番好きだった、あの笑顔。
温かくて、どこまでも優しくて――どこまでも、遠い。
「もう、大丈夫だね」
その言葉を残し、美咲は踵を返した。
歩き出す彼女の背中に、蓮司は思わず叫ぶ。
「――美咲!!」
「ありがとう……君を……愛していた……!!」
その言葉に、美咲は小さく足を止める。
肩が震え、振り返りかける。
でも――思いとどまった。
ゆっくりと、そのまま前を向き、歩き出す。
振り返らずに。
ただ、背後の蓮司に向けて、やさしく、そっと手を振りながら。
蓮司もまた、歩き出す。
美咲とは反対の方向に。
一歩ずつ、確かな足取りで。
未来へ――今を生きる人々のもとへ。
そして最後に、振り返らず、背中越しに静かに呟いた。
「……ありがとう」
それが、蓮司から美咲への、最後の言葉だった。
……
……
その背中が遠ざかっていくのを、美咲はずっと見ていた。
姿が見えなくなるまで、目をそらさずに。
何度も声をかけそうになった。
――私のところに戻ってきてほしい。
――今も愛している。
――蓮司さんの隣にいたい。
けれど、美咲は何も言わなかった。
ただ、涙をこぼしながら、胸に手を当てて――
「……蓮司さん……愛して……いました……」
その涙には、悔しさも、寂しさも、愛しさも、祝福も、すべてが込められていた。
いつかまた、どこかで――そう祈るように。