第1話・凍てつく別離
夜の帳が戦場に落ちた。
焦げた金属と血の匂いが入り混じる瓦礫の街に、乾いた風が吹いていた。
月など、とっくに空から消え失せて久しい。代わりに、無数のドローンの赤い光点が空を染めている。
蓮司──如月蓮司は、立ち尽くしていた。
左腕に抱くのは、血で濡れた彼女、神崎美咲の身体。
あれほど熱かった彼女の体温が、今はただ、ひどく、冷たい。
彼は四十を越えているが、背筋は真っすぐで、鋼のような肉体を保ち続けていた。
顔に刻まれた無数の傷と、深い眼差しが彼の過去を物語る。
二〇二〇年代、日本政府の闇に葬られた極秘計画──強化兵士開発計画《Project Requiem》の、生き残り。
百人以上の志願者、否、被験者が投薬と手術、精神制御によって改造され、その中で人として生き残ったのは、たった七人。
その中でも、如月蓮司は最高傑作と呼ばれた。
心を捨て、命令に従い、感情の一切を排除した純粋な戦闘兵器。
殺すために生まれ、死ぬために戦う。
それが、かつての彼だった。
だが──彼の隣には、もう一人の“異端”がいた。
彼女の名前は、神崎美咲。
同じく《Project Requiem》の被験者であり、かつては**「失敗作」と烙印を押された女**だった。
肉体強化の数値は平均以下、精神安定度は不安定、戦闘適性は限界値ギリギリ。
廃棄寸前の彼女は、それでも諦めなかった。
戦場では誰よりも血に染まりながら、彼女は人としての“心”を捨てなかった。
戦友の痛みに耳を傾け、命の重みを忘れず、誰よりも前を向いていた。
「私は……誰かの盾になることでしか、生きていけないの。
でも、それでいいって思える。……蓮司さん、あなたも、そんな風に思えたことある?」
その言葉が、蓮司の中の氷を、静かに、確かに、溶かしていった。
彼女の“失敗”は、兵器としての適性ではなく──
“人間としての価値”に他ならなかった。
二人は、少しずつ心を通わせた。
“最高傑作”と“失敗作”。
だが、その二つの存在は、戦場の中で唯一無二の支えになっていった。
束の間の休息、食事、会話、夜の焚き火──
そのすべてが、蓮司にとっての「人間らしさ」を取り戻す時間だった。
そして、蓮司は気づいた。
この人を守ることが、自分に残された唯一の“存在理由”だと。
その日も、戦場は凄惨だった。
敵は最新世代の強化傭兵とAI連携型ドローン軍団。
蓮司が互角に渡り合えるのは、自身の強化が既に規格外だったからこそだ。
だが、その戦いの中に──
蓮司と並び称されたもう一人の**“最高傑作”がいた。
かつて、蓮司と同じ部隊で育ち、
だが違う道を選んだ男──“漆黒の破壊者”**。
彼との対決が迫っていた。
その前哨戦だったこの戦場は、あまりに過酷だった。
「蓮司ッ、背後――!」
美咲の叫びと同時に、背後からの狙撃。
振り向いた蓮司の目に映ったのは、彼を庇って身を投げ出した美咲の姿。
銃弾が、美咲の胸を貫いていた。
「……美咲ッッ!!!」
冷徹な蓮司の叫びが、砕けた。
敵を瞬時に排除し、血の海を駆け、美咲の元へと膝をついた。
「くそっ、止血……すぐに……!」
震える指で止血帯を巻き、人工皮膚を貼り、救急ナノデバイスを注入。
だが、美咲の意識はすでに遠のいていた。
「……れん、じ……さん……もう、いいの……」
弱々しい手が、蓮司の手に触れた。
彼は必死に処置を続けるが、美咲は、ゆっくりと首を振った。
「蓮司……私を、愛してくれて……ありがとう……
どうか……人を、愛することを……怖がらないでね……
私、あなたを……愛してる」
そのまま、美咲の手は、音もなく地に落ちた。
蓮司は、声にならない叫びを空に放った。
心の奥で、何かが、確かに壊れた。
人間に戻れた理由──その全てを、今、喪ったのだ。
遠くで、爆撃音が響いた。
蓮司は、美咲の亡骸をそっと抱きしめ、戦場の片隅に座り込んだ。
空は、ただ、黙って赤く燃えていた。
(これが、人間の運命なのか……)
その時、蓮司の腕に埋め込まれた転送装置が、不自然に点滅し始めた。
彼をこの時代に飛ばした、時間装置の誤作動。
警告音が響く。
──タイムワープまで残り30秒。
蓮司は美咲の亡骸を抱いたまま、呻いた。
「……神様がいるなら、せめて、もう一度……この手で、誰かを……守らせてくれ……」
光が炸裂し、時空が捩じれた。
蓮司の姿は、美咲の亡骸と共に、その場から消え去った。
※続く