4話 片鱗
鳥のさえずりが静かに響き、穏やかな陽が世界を照らす中、青年は洗面所に置かれた木桶の水で顔を洗う。布で水気を拭き取り顔を上げると、地味な茶髪に薄水色の瞳が壁に掛かる鏡に映った。これといった特徴のない顔をじっと見つめ、やがて息を一つ吐いて洗面所に背を向ける。
木材と石材を漆喰で固めた、古い寮の廊下を歩く青年エミールは、己の数奇な状況に思いを巡らせた。乙女ゲームの世界へ転生した者としての。
エミールが最初に日本人男性としての記憶を自覚したのは、五つの頃である。しかし、何とも理解し難いあやふやなもので、しばらくは夢の記憶かと思い込んだ。その後も時折ふっと様々な知識や記憶が現れていたものの、精々勉学の補助として役立つ程度以上のものではなかった。
例の乙女ゲームに関しても、ルイの顔を見て初めて脳内に情報がぶち込まれたのである。転生者としてのアドバンテージなぞあったものではない。おまけに学園寮はゲームのヤンデレキャラであるルイと同室。そしてこの前、うっかり成り行きで彼を助けてしまった。
おかげで──。
「おはよう、エミール。良い日和だね」
そう声を掛けてきた黒髪の青年がにっこり笑った。屈託のないそれに、エミールの表情が渋くなる。上級生から彼を助けてから何かとひっつかれ、懐かれてしまった。離れたくとも、ルームメイトとして毎日顔を合わせるゆえに、物理的に距離を置くこともできない。
「……おはよう」
エミールはルームメイトとして義務的に挨拶を返す。今のところは、当初の予定通り付かず離れずの距離感を築くべく、冷めた応対を続けていた。……既に手遅れな気がするが、それは無視している。
かくしてエミールの学園生活は、ルイと共に行動することが基本となった。といっても、男子寮内はともかく、常に一緒というわけではない。エミールとルイは履修する科目が異なっていたためだ。
ゲームではプレイヤーが自由に授業を選択してヒロインを成長させていくが、実際の学園では何の授業を受けるかのスケジュールを学期始めで決めなければならない。新入の生徒は学園が用意した新入生向けに学科別で組まれたものの一つを選べるため、エミールもルイもそうしているが、来学期かその次辺りで自ら考案し提出する必要がある。
エミールは学園に通う多くの貴族子弟が履修する騎士科を選択した一方、ルイは魔術科を選択していた。結果、ルイに四六時中付き纏われることは避けられた。ただし、学園の方針により学科を超えて生徒が交流できるよう、学科が別でも同じ授業を受ける場合も少なくない。特に朝一番の授業は、学科関係なく共通する数学や歴史などの科目が優先的に割り振られている。
そのためエミールとルイが教室で同席することもあった。今のように。
「隣、座るね」
「……」
微笑を浮かべながら当然の如く隣の席に座ってきたルイに、エミールは無視を決め込む。教室には長机が並び、新品の学生達が詰めつつあるが、エミールは余裕を持って入室したために席の空きは多かった。にも関わらずルイはわざわざ隣に来たのだ。おまけに椅子の距離がやたら近い。
鐘の音と共に教師が壇上に立つと、エミールはノートを開き隣を気にしないよう授業のみに意識を集中する。今回は魔術の授業だった。
この世界における魔術は、体に宿る魔力を使用し、呪文の詠唱や杖を始めとする魔道具などによって、超自然的現象を発現させるものだ。一方それとは別に、魔力を操作して身体強化に利用することもあるが、これは騎士が基本的な戦闘技術として身に着けている。
そして魔力には火や水といった属性があり、個々人で具えた属性は異なるが、その属性によって得意な魔術と不得意になる魔術が現れるため、自然とその人々の生業には、属性ごとに一定の傾向が見られた。ルイの持つ闇の魔力が人々から忌避されるのも、発現した闇の魔力の見た目から悍ましい印象を与えることが大きいが、姿を隠すなど隠密や暗殺に有用な後ろ暗い魔術に向くことも要因である。
このように魔力の属性で得手不得手はどうしても出てくるものの、学園は出来る限り属性に関わらず一通りの基本的な魔術を扱えるよう教育する方針を取っており、専門的な魔術を除く魔術の教育は学科を問わず行うよう定められている。
エミールとルイが受けている授業も、新入生ということもあって魔術の基礎を扱っていた。
「えー以上の通り、魔力の属性は個人によって異なり、それぞれ習得しやすい魔術の傾向がある。しかし、だからといって属性によって習得できないということはない。理論上、全ての魔術は属性が何であれ発動が可能である」
教師が口にする説明が端的に黒板の上で纏められていく。それを生徒がノートに書き写す音が心地よく耳を通った。講義の内容は魔力の基本から魔力と魔術の関係へと進む。
「魔力の属性と魔術の相性が合ってなくとも発動が可能なのは、魔力の変換にある。例えば火の魔力を持つ者が水の魔術を発動させようとした場合、魔力の属性を火から水へ変質させなければならない。その変質は、術者自身の魔力操作や呪文の詠唱、魔道具などによって成される。よって──」
魔力と魔術の属性が違う場合、そのズレを補うことにも魔力が消費されてしまい、属性が同じである場合と比べて魔力の消費量が多くなる。逆に魔力と魔術の属性が同じであれば、より少ない魔力で同等かそれ以上の効果を得ることができる。
ゲームでも、キャラクターの属性と発動するスキルの属性が同じであれば、その効果にボーナスが得られたが、これは魔力の変換が行われるか否かによるものだったのだろう。
ここまではエミールも学園に入る前の家庭教育で習うことも多く、難なく理解できた。ところが授業も後半を過ぎて本格的に魔術の解説へ入ると、理解に躓くことが増える。決して致命的なものではない。しかしどこか理解し切れずに、なんとなく「こういうことだろうか」と自分なりに咀嚼するも腑に落ちきらないという状況が時々出てきた。
エミールはそれを大きく態度に出したわけでも、増してや口にしたわけでもない。だというのに、隣からその都度手助けが入った。
「あ、これはね──」
そう言ってルイは自身のノートをエミールのそれと隣り合わせ、分かりやすい図と文章を鉛筆で指しながら解説する。エミールは最初、ことごとく無視しようとした。ルイと馴れ合うつもりは一切なく、近過ぎる距離を修正したかったが故に。
しかし教師の講義より理解が進むルイの説明に、いつの間にか次第と聞き入り、ついには黒板ではなくルイのノートを写し始めた。
この世界の王侯貴族は魔力に優れた血筋ではあるが、ルイも曲がりなりにも王の子であるからか、魔力量とその扱いに優れている。その上でまだ宮廷で過ごしていた幼少期は、書庫に入り浸って魔術を始め様々な分野の本を読み込んでおり、魔術の才能を開花させていた。
そして実践ではなく学問を才の土台としているためか、彼は魔術理論の指南も的確に出来るらしい。
──って、そうじゃねえだろ!
エミールは首を振る。ルイと距離を取らねばと思っていたのに、すっかりルイの指導に浸かってしまった。教壇へ視線を戻し、そちらのみに集中しようとする。しかしすぐにルイの講義に引きずられ、慌てて振り払ってはまた引き戻されることを繰り返した。
授業終了の鐘の音が鳴る。学園の授業は一時間半ずつとなっており、エミールはまんまと四、五〇分はルイの指南を受けてしまった。授業内容は全てしっかり理解出来た上にノートの内容も充実。たとえ全て忘却してしまおうとも、ノートを見返すだけで粗方取り戻せるだろう。
だからちゃうねん。
エミールは自らに突っ込みを入れる。ルイと近過ぎてはいけないと決めていたのに、全く出来ていない。自分は何をしているんだ、次こそはルイをほどほどに拒絶しなければ。そう己を叱咤する。
今後は心を鬼にすると決意し、ノートを鞄に放り込むなり早歩きでルイを置き去りにしながら教室を出た。速度を緩めず廊下を突き進むエミールは化粧室に入り、小用を済ませに掛かる。
学園の授業は午前二回と午後二回の四限制だが、授業時間は一時間半刻み。授業の間に置かれた三〇分の休憩時間や一時間半の昼休憩時の際に、なるたけ用を済ませなければ後々地獄を見かねない。
錆止め塗料が塗られた鋳鉄製の小便器の前で、ほんの少し下半身を力ませた後、息を吐く。本来このような小便器は近代も半ばになってから誕生した物だが、乙女ゲームの世界とあってか、有難いことに学園には水道と共に衛生インフラが完備されている。
マリー・アントワネットの頃のヴェルサイユ宮殿みたく、中庭で用を足さないといけないとかじゃなくて本当に良かったぜ。そんなことをエミールはしみじみ思う。
気分を落ち着かせたエミールがふと隣の気配に気付いた。首を横に回せば漆黒の髪を流す紫の瞳の青年が。
隣の水音が止む前にベルトを締め直したエミールは、洗面所に駆け寄って手洗いを素早く終わらせ、廊下へ飛び出す。そのまま先の教室とは違う次の授業がある部屋に滑り込んで、ようやくエミールが安堵の息を吐いた。流石に学科が異なる以上、ルイもこちらまでは来ない。
安心出来たのはそれが最後だった。
昼の食堂にて──エミールの隣の席にはルイがいた。
「エミール、一緒に食べよう」
午後の授業も終えて寮に戻る際──エミールの横をルイが歩いていた。
「今日はね……ってエミール聞いてる?」
寮の食堂にて夕食を前にした時も──やはりルイが隣で食事を共にした。
そして自らの寮室には勿論、ルームメイトであるルイがいる。エミールに何度も話し掛けてくる青年が。
──え、これ毎日続くの?