1話 記憶とルームメイト
──あ、これはやばい。非常にまずい。
そう思うしかなかった。眼前に立つ黒髪に紫の目を持つ美青年は、おどおどとした様子でこちらを窺っている。どことなく暗い雰囲気を背負ったその青年が、か細い声で名乗った。
「ルイ・ステファン……よろしく」
霧が晴れたように、それまでおぼろげだった見知らぬ記憶が鮮明になっていく。
疑いようがなかった。ここは間違いなく、あのゲームの世界で、目の前の青年はそのメインキャラクターの一人であることに。
剣と魔法の世界で貴族子女が通う学園を舞台に、ヒロインがイケメン達と共に冒険と恋愛を繰り広げる女性向けファンタジーゲーム『クリスタル・コシュマール』。
そのメインキャラクターの一人、ルイが目の前に存在して、あまつさえ手を遠慮がちながら差し出している。それも自分に向かって!
息を呑みつつも、眼前の人物の右手を握り返した。
「……エミール・セルジョン。よろしく」
何の冗談だというのか。学園寮のルームメイトが、乙女ゲームの登場人物にしてヤンデレキャラというのは!
エミールは叫びたかった。が、何とか激情と混乱を抑え込む。
こちらの葛藤を感じ取っていたのか否か、彼は弱々しく握っていた手を離すと、名前以上の自己紹介はせずに、荷物を先に済ませたい旨を遠慮がちに言うと寝台へ向かってしまった。大きな手提げの鞄を下ろし、中身を寝台の上に並べ始める。
エミールも自分の整理途中だった机に体を戻し、山積する本や生活用品の置く位置を定めていく。その途中、一冊の本を手に取りながらエミールはルームメイトとなる青年を横目で盗み見た。
ルイ・ステファン。細身で気弱だが、優れた闇の魔力と美貌を持つ青年だ。そして……ストーリーを進めるに連れ、ヒロインへの好意が異常な執着へと変質していくヤンデレキャラでもある。
なぜそんなことを知っているのか? というと、エミールは前世の記憶を持つ、いわゆる転生者であった。元日本人男性である彼は、またも叫び出しそうな激しい情動に駆られる。
まさか前世でお気に入りだったVtuberが配信でプレイした乙女ゲームの世界に転生していたとは!
思わず天を仰いだ。ゆっくり首の角度を戻していく途中でふと窓に薄く映った自身の顔が視界に入り込む。茶髪に空色の瞳、特にこれといった特徴が無い顔立ちをした青年がそこにはいた。
手に取ったばかりの参考書を握り締め、息を長く吐いた。なんだってこんなことになってしまったのか。エミールは前世の記憶を辿り寄せるが、エミール・セルジョンなるキャラクターはゲームに登場しない。完全に名無しモブの一人である。
しかし、現状としてメインキャラの一人と同寮同室という、とんでもない位置にいるのだ。「どうしてこうなった」と叫びたい気持ちを抑えこむように本を下ろし、またルイの姿を見やる。
陰こそあれど、それでもなお色褪せぬ美青年の横顔が目に映った。
男のエミールから見ても、ルイの造形は美しいものだ。すらりと伸びた身体に漆黒の髪を流し、陶磁器か絹を思わせる滑らかな肌、そして各パーツのバランスが整った細い顔。
流石は乙女ゲームのメインキャラクターというべきか。瞳周りはやや不健康そうな印象を受けるものの、それさえ紫の眼を際立たせ、儚げな顔面の美を補強する要素に見えてしまう。
そんなルイより視線を外し、持っていた参考書を額にとんっと当ててまた深い息を吐く。いくら彼が見惚れるような美貌を誇ったとて、エミールの心中は全く晴れない。
ルイの出自は複雑である。まず彼は王の子息だった。愛人との間で産まれた私生児、であるが。しかし、婚外子つまり庶子とはいえ現王の子であり、身分としては王族に準ずる地位にあり大貴族に並ぶ。
だが闇の魔力を持って産まれた彼は、母親に愛されなかった。人々から忌み嫌われる闇の魔力、それを宿した子を産んだともなれば、王の寵愛を失ってしまうと考えたのだ。故に彼女は養育どころか接触すら拒んだ。
父親たる国王もそれを肯定するかのように、彼を庶子として認知しないまま、宮殿の奥に押し込めていた。そして学園に入学できる一五歳になった途端、当面の生活費だけ与えて宮廷から追いやってしまう。
結局王の認知を得られなかったルイの存在は、全く公表されていないが、人の口に戸を立てられぬもので、公然の秘密として世間に知られている。だからこそ、ルイは誰からも忌避され続けた。
そんな境遇から他者からの愛に飢えているルイは、ヒロインと仲を深めるに連れ、急にスイッチが入ったように執着と偏愛を見せるヤンデレキャラと化す。ストーリーの分岐次第ではラスボス的立ち位置にもなる。バッドエンドの場合は言わずもなが。
それを知ってしまっている以上、ルイとの距離感は慎重にならざるを得ないだろう。この先、自身がヒロインと僅かにでも接点を持ってしまえば、何かの拍子で酷く嫉妬されてしまうかもしれない。
一方で彼と親しくなれば、ヒロインへ向けられるはずだった重過ぎる感情が、こちらへ向く可能性も否定できなかった。
しかしルームメイトとして学園寮の同室ともなると、ルイから離れるどころか避けることも出来ない。
かといって、毎日顔を合わせる相手を無視し続けるなど、恐らく良心が持たないし、場合によってはヒロイン達にルイを虐めていると思われて、面倒なことになる可能性さえあった。
最悪、ルイがヤンデレ化した際、自分が暴走する彼の最初の犠牲者になるやも……。
おっと、詰んだか?
嫌な結論を追い出すようにエミールは頭を振った。諦めるにはまだ早過ぎる。綱渡りではあるが卒業まで、近過ぎず、かつルームメイトとしてほどよい距離であり続けることができれば、あるいは……。
選択肢などほとんどない。それでも、生き残るにはやるしかないのだ。