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水鏡五国志番外編  作者: 子志
第二部
8/12

鴻家の家臣2:尉匡

子ども達が走り回り、主君にふざけかかっては家宰に怒鳴られてわっと散って行く。

そんな騒がしい邸内の様子をにこにこと笑みを湛えたまま眺めながら、尉匡は時に、そんな自分の現状が不思議でたまらなくなるのだった。


どうして自分がこんな場所で、不快の欠片も感じずに笑っていられるのだろう、と。



鴻宵の下に付けられる以前、尉匡は司馬府に居た。

より正確には、紀春覇の下に居たのである。


もっとも、直接春覇に仕えているわけではなく、陪臣、つまりは春覇の臣下に仕える身だった。

尉匡の主君は、尉氏の本家の当主である。尉氏は碧では一時栄えた家だったが、今は中流に落ち着いている。

更に尉匡は分家の庶子であったから、はっきり言って上等な家柄ではなかった。


それでも彼が本家当主の臣下として司馬府でそれなりの官に就くことを許されていたのは、ひとえに彼自身の事務処理能力の高さと如才の無さの故であった。

要するに、仕事ができて人当たりも良い尉匡は当主に重宝されたのである。


但し、残念ながら当主は有能な臣下を取り立ててやろうという温情のある人間ではなかった。


「おい、尉匡」

書類処理の報告に現れた尉匡に、当主はふと思い立ったように声をかけた。

「今日のわしの宿直を替われ」


やれやれ、と尉匡は内心嘆息した。


司馬府の宿直は、ごく限られた高官以外には平等に回ってくる。

当主も普段は仕方なく宿直の任に就くのだが、今日は司馬府の頭、大司馬の官にある紀春覇が出陣していて不在なのだ。

当主は監視の目が無いのをこれ幸いと、きつい宿直を尉匡に押し付けようとしているわけだ。


尉匡は心中溜息を吐きながらも、態度には一切出さずに普段通りの笑みを浮かべた。

「承知致しました」


了承の言葉を口にして当主の前を辞去した尉匡は、太陽の位置を確かめた。

幸い、夕刻まではまだ時間がある。残務を終えた後、夕食を摂りに行く暇くらいはありそうだ。

目算通りに残務と食事を終えて夕刻を迎え、尉匡は宿直の詰所へと向かった。


どうやら他の宿直の者は既に来ているようだ。明かりが点いているし、近づくにつれて話し声が聞こえてくる。


尉匡はそっと眉を寄せた。

表面の人当たりの良さとは裏腹に、彼は他人の起こす喧騒が大嫌いなのだ。

静謐を好む彼にとって、今詰所から聞こえてくるような話し声は騒音でしかない。


加えて、その内容も気に入らなかった。


「だから、頼むから宿直を変わってくれ」

「そういうわけにもいかないだろうが」

今夜の宿直は、当主と同質の人間か。


溜息を圧し殺して、尉匡は詰所の扉を開けた。

中に居た二人の人間が振り返る。


一人は、尉匡も面識があった。

一兵卒の出でありながら、覇姫にその敏慧さを認められて、身分よりはやや高めの職を与えられている男だ。

名は、確か範蔵といった。


尉匡より官位の低い彼は、さっと姿勢を正して目礼してくる。

それに会釈を返して、尉匡はもう一人に目を遣った。


一瞬、見間違いかと目を擦りかけた。


詰所の机について何やら山積みの書類に向かっているその人物は、ぱっと見少女にしか見えなかった。

しかし冷静になってよく見ると、その装束は上士の身分のものである。

つまるところ、尉匡よりも身分が高い。


そこまで数瞬で観察した尉匡は、ああ、これが例の、と納得した。


昨年の初冬に覇姫の肝煎りで仕官し、戦の度に著しい軍功をあげてくるという噂の人物だろう。

名は、鴻宵といった筈だ。

どう見ても十代で上士の身分の者など、他に心当たりは無い。


その人物は、尉匡と目が合うと軽く会釈をした。

尉匡も礼を返す。

しかし、内心の印象はあまり良くなかった。

先程漏れ聞こえた声からは、彼が範蔵に宿直を押し付けようとしていることが窺えた。

己の職務を全うしない人間を、尉匡は認めたくない。


「そうだ、この際貴方でもいい」

不意に、鴻宵が尉匡に向かって言った。

「宿直を替わって貰えないか」

「…はい?」


尉匡は寸時混乱した。

既に宿直の係である尉匡に宿直を替われとは、一体どういう道理か。

ぽかんとする尉匡の前で、範蔵が鴻宵の頭を叩いた。


「いきなりわけのわからん事を言って困らせるな!」

「人目があるぞ、範蔵」

「……やや唐突に過ぎるのではありませんか、鴻氏」

「だって範蔵は替わってくれないんだろう」

「当然です。己の仕事は己で全うすべきです」


尉匡は茫然と二人のやり取りを見ている。

飲みこみの決して悪い方ではない筈の尉匡でも、事態が全くと言っていいほど掴めなかった。


「だったらせめてここに居させてくれ。手伝えとは言わないから」

「駄目です。もう日も暮れたのですからさっさと舎に戻ってください」

「だって書類は持ち出し禁止じゃないか。明日までの書類が片付かない」


二人の会話から、漸く尉匡は自分が誤解していたらしい事に気付いた。

鴻宵は範蔵に宿直を押し付けようとしていたのではない。

逆に、範蔵の宿直の仕事を譲ってもらおうとしていたのだ。


「その事ですが」

範蔵が胡乱な眼で鴻宵を見る。

「何故書類がそんなに山積みになっているのです?鴻氏の職務分はとうに提出なさったのをこの目で見た気が致しますが」


身分差を意識してか範蔵の言葉づかいは丁寧だが、二人の間には明らかに気安い空気がある。

問いを受けた鴻宵は、頬を掻いて淡く苦笑した。


「えぇと……平たく言えば、お願いされて?」

「『お願いされて?』じゃねえ!」

ついに頭にきたのか、範蔵が乱雑な言葉遣いに戻り再び鴻宵の頭を叩く。


「前にも言ったよな?人の仕事をほいほい引き受けるなと、何度も!」

「範蔵、敬語」

「黙れ、お前は少しは懲りるってことを覚えろ!大体お前はもう上士だろうが!人の仕事を引き受けてやる義理なんぞ無い御身分の筈だぞ」

「いや、つい」

「『つい』で捌ききれないほどの仕事を抱えるなこの阿呆!」


そのまま説教になだれ込みそうな二人の会話を横目に、尉匡は鴻宵の前にある書類に目を通した。


確かに、鴻宵のやるべきものではない。

司馬府の高官、更には鴻宵より身分の低い筈の者の仕事まであった。


範蔵の説教に対して「つい」などと茶化しているが、恐らく鴻宵にとっては必要なことだったのだろう、と尉匡は思った。

鴻宵のように異例の速さで昇進を重ねてくれば、周囲との軋轢は想像を絶するものに違いない。それを緩和するための手段として、こうした地道で誠実な努力をしてみせようとしているのだ。


そうまでして何故昇進にこだわるのか、尉匡にはわからない。

しかし、前へ前へと邁進しながらもこうして周囲を顧みる事の出来る在り方が、尉匡は嫌いではなかった。


「鴻氏」

尉匡が声を掛けると、鴻宵は範蔵に散々折檻されたらしい頭を押さえながら振り向いた。

その様子が到底高官のものとは思えなくて、尉匡は思わず噴き出していた。

同時に、あれほど喧噪の嫌いな自分が、範蔵と鴻宵の言い合いに不快さを覚えていない事を発見して少し驚いた。


「……笑われてるんだけど」

憮然と言う鴻宵を、範蔵が冷やかに見下ろす。

「自業自得だろう」


そんな様子に、尉匡は自分でも驚くほど笑いがこみあげてくるのを感じた。


「す、すみません…も、ちょっ…ふはっ」

ひとしきり肩を震わせて笑った後、奇妙に爽やかな気分で、尉匡は口を開いた。


「お手伝いしますよ、鴻氏。鴻氏は城内の舎にお住まいなのでしょう。この量なら、終わらせてから帰って仮眠をおとりになるくらいの余裕はできますよ」

「本当か」

鴻宵が目を瞬かせて書類の山を見やる。

尉匡は傍の棚から筆墨を取り出し、書類に向かった。

「私はこの手の事務仕事は得意ですから」


さっさと書類に目を走らせ始める尉匡を見て、鴻宵も慌てて作業を始める。

範蔵も手伝う事にしたらしいが、どうやら書類処理は得手ではないらしく、苦戦気味だ。

鴻宵も得意ではないようで時折首を傾げているが、概ね安定した速度で書類を捌いている。


そうして三人が黙々と作業を続けること数経。


尉匡の言った通り、深更を迎える頃には書類はすっかりかたづいていた。


「凄いな。仮眠どころかしっかり眠れる」

鴻宵は感心しきりに書類を纏めている。尉匡は軽く微笑んで、筆を片付けた。


「そういえば」

ふと気付いたように、鴻宵が尉匡に目を向ける。

まっすぐにこちらを見る漆黒の瞳に、尉匡はわけもなく緊張を覚えた。


「貴方の名を聞いていなかった。私は鴻宵。官は……」

「近々輿司馬にお移りになるのでしょう。存じ上げております」

尉匡がそう言うと、鴻宵はそうか、と苦笑した。

鴻宵はつい数日前に上士の位を賜ったばかりである。

官職もそれに伴って変わる事になっていた。


「私は尉匡と申します。軍司馬、尉参の家臣です」

尉匡が名乗ると、鴻宵は少し目を見開いた。

その反応の意味がわからず尉匡が首を傾げると、はっとしたように瞬きをする。


「尉匡……そうか、貴方が尉匡か」

まるで尉匡のことを知っているような口ぶりだった。

「あの、私が何か?」

「ああ、いや」


首を振った鴻宵は、目元だけで含むように笑った。


「少し、話を聞いていたものだから」



それから僅か数日後のことであった。


突如、当主から尉匡へ、主君を変えるようにという指示が言い渡されたのである。

どうやら、上からの命があったようであった。


「詳しい事は覇姫様に訊け」

それが、当主から尉匡に投げられた別れの言葉であった。


指示通りに春覇の元へ向かった尉匡は、彼女の執務室で鴻宵と再会を果たすことになった。


「突然済まなかった」

春覇に詫びを言われて、尉匡は恐縮した。

「一体、どういうことなのでしょう」


尉匡の問いに、春覇は一度鴻宵へ視線を投げてから口を開く。


「実はこの鴻宵は近々邸を賜る事になっている。鴻宵は上士になったにも関わらず私臣を持っていないので、私から何人か付けてやることになった」

鴻宵が黙って頭を下げる。春覇は続けた。

「ひとまず、既に省烈という男が鴻宵の下に付いた。それから、優秀な兵士を数人と圉人をつけてやることになっている」


春覇が一度言葉を切る。

切れ長の目が、真っすぐに尉匡を見据えた。

「しかしいずれも武人ばかりだ。一家を立てるのに無骨な連中しかいないのでは具合が悪かろう。そこで、お前に鴻宵の下についてもらいたい」


無論、尉匡に否やは無かった。


退出した後、尉匡は鴻宵に問うた。

「この度のこと、鴻氏の御推薦ですか?」

鴻宵は笑って首を振った。

横に、だ。


「直接会うより先に、私は尉匡という名を聞いていた。覇姫様からな」

尉匡は目を見開いた。

正直、地位の低い陪臣の自分が覇姫の視界に入っていたというだけで十分に意外である。


「あの方は我々が思う以上に下の者を良く見ておられる。上に立つなら、ああなりたいものだな」

そう呟く鴻宵の横顔を見ながら、尉匡は自分の運の良さに感謝した。



「尉匡!」


過去を思い返していた尉匡は、呼びかけられてはっと我に返った。


あれから一年弱。

未だ書類仕事は今一つ得手でないらしい主君が、省烈に小言付きで渡された書類を手に途方に暮れている。


「はいはい、お手伝いいたします」

「こら尉匡!甘やかすな!!」

省烈の叱声が飛ぶ。

苦笑しながら、尉匡は鴻宵の手から三分の一ほどの書類を受け取った。


「では、これだけ私がお手伝い致します。最後の確認は将軍がなさってくださいよ」

「わかっている。助かる」


鴻家は今日も騒がしい。

けれども、尉匡がそれを不快な騒音と感じた事はついぞ無かった。

それはきっと――

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