鴻家の家臣1:省烈
鴻家の家宰である省烈は、書類の束を片手に足早に回廊を歩いていた。
「まったく、あいつはまた内向きの仕事を後回しにしやがって…」
ぶつぶつと主君である鴻宵に対して文句を言いながらも、省烈自身、鴻宵が決して怠けているわけではない事を重々承知していた。
公務の方が忙しく、なかなか家のことにまで手が回らないのである。
そうしてがむしゃらに戦う主君の姿が、省烈にとっては不思議でもあり、また清々しくもあった。
そして、どうにも見捨てられないのである。
「あの馬鹿が…」
悪態を吐きながら、省烈の目にはどこか優しさが宿っていた。
今でこそこうして屋敷内の事務処理などしているが、省烈は元来、将軍府に勤めるれっきとした武人であった。
それが昨年の四月になったばかりのある日、突如上官の命令で、当時司馬府で働いていた鴻宵の部下になれと言われたのである。
鴻宵は短期間のうちに軍功を重ね、近く上士になると噂されていた頃だった。
対して省烈は一応部下を持つ将の地位は与えられていたものの、下士のまま燻っていた。
剛毅な彼は、上司との折り合いが悪かったのである。
そのような状況下にあった省烈は、唐突な異動命令に、自分は厄介払いされたのだと判断した。
当然、面白かろうはずがない。
司馬府は軍務を司る役所で、鴻宵も一端の武将であるとはいえ、将軍でもない者の部下としてつけられるという事は武人省烈にとって挫折に等しかった。
況してや、相手は仕官して半年余りの若者である。
まだ十代半ばの大変な優男だという噂も聞こえている。
きっと、どこぞの高官の密かなお気に入りであるに違いない。
そんな武将の昇進の為に、自分は体よく将軍府を追い出された。
当時の省烈がそう感じたのも無理からぬことである。
ただ、彼の常人と異なるところは、そこで泣く泣く命令に従うでもなく、憤然と辞職を願い出るでもなく、鴻宵に勝負を挑んだということであった。
「私は自分の認めた方の下にしか付きたくありません。失礼ながら、鴻氏のお力がどれほどのものか、納得できないことには配属に同意いたしかねます」
司馬府に乗りこんでそう申し出た時、省烈は半ば死を覚悟していた。
上官になる相手を試そうなどと、無礼なことこの上ない。
咎められその場で斬られても、文句は言えないのである。
(俺を斬るなら、こいつはそこまでの人間ということだ)
そう覚悟を定めて、省烈は鴻宵を見据えた。
噂の通り、若い。
その上、省烈より一回りも二回りも華奢な体は、到底剣を振るうに適しているとは思えなかった。
しかし、その眼差しには一切の騒がしさがない。
鴻宵は省烈の無礼にいきり立つ周囲を制し、真っすぐに省烈を見た。
「では、どうすれば納得してもらえるだろうか」
良い眼だ、と省烈は思った。
縁故や贔屓で昇進する人間に、こんな目ができるはずはない、とも。
けれども、それでは信ずるには足りない。
「――木剣による試合を、申し入れます」
武人が武人を理解するには、剣を交えるに勝る手段は無いのだ。
司馬府の庭に出、距離を取って向きあう。互いの手には木剣。
野次馬が周囲を取り囲んでいるのが目に入ったが、気にはならなかった。
切っ先を向き合わせる。
途端に、省烈は膚を刺すような鋭さを感じた。
殺気では、ない。
氷のように冷たいのでもなく、炎のように熱いのでもない。
ただただ、強く圧してくる。
(こいつ…)
合図が鳴る。互いの足が踏み出し、剣が動いた。
瞬きの間に、省烈の体に鴻宵の振るう木剣が迫る。
乾いた音を立てて、二振りの木剣が噛み合った。
(そうか、こいつはただ…)
小柄な鴻宵は俊敏な動きで省烈の隙を過たず衝いてくる。
(ただ、ひたすらに前へ進もうとしてやがる)
細身の体躯が翻る。
その速さに自分が敵わない事を、省烈は既に確信していた。
鋭い響きと共に、木剣が省烈の手から弾かれて飛ぶ。
省烈は膝をついた。
「参りました」
この後、無礼を働いた自分を斬るとしても、それはこの男の自由だ、と省烈は思った。
もう十分、見極めた。
暫し沈黙していた鴻宵は、木剣を引くと省烈に手を差し伸べた。
「立て――良い試合だった」
はっと顔を上げた省烈の腕を掴み、立ち上がらせる。
「それで、私は仕えるに値すると判断してもらえただろうか」
少し皮肉っぽくそう言う鴻宵に、省烈は頭を下げた。
「使って、頂けるのならば」
「おいおい、不満を申し立てていたのはそちらだろう」
私に不満は無いぞ、とさらりと言って、近くに来た下役人に木剣を預ける。
「明日から司馬府に出仕してくれ――ああ、それから」
思いだしたように、鴻宵は振り向いた。
「お前、案外軍人は向いていないのかも知れないな」
あの時言った事を、鴻宵が再び口にする事はなかった。
ただ邸を下賜されると、黙って省烈を家宰に任じた。
多分、読み取られたのだ、と省烈は今にして思う。
あの時、剣を交えながら、省烈は自分が鴻宵のように前を向けないことを実感した。
斬られる事を覚悟した時、無意識のうちに、自分の亡き後、頼る者の居ない妻子のことが頭をよぎったのだ。
武人としては、あるまじき情けなさ。
しかしもし自分がそれを惰弱だと言えば、鴻宵はきっとこう言うだろう。
違う、お前は優しすぎるんだ、と――
「今日こそ、きっちり片付けてもらうからな」
書類の束を突きつけられ、鴻宵はきまり悪げに筆を執った。
その姿を、省烈は不思議と穏やかな気分で眺める。
本当に優しいのはこの主君だ。
優しいくせに、過酷な闘いに自ら身を投じていく。
そんな主君だからこそ――