たとえ死線を潜るとも
第一部と第二部の間の一幕。
司馬府の職務を終えて、庭に出る。訓練用の棒を軽く回し、勢い良く突き出した。
「はっ」
設えてあった木の的が倒れる。私は軽く唸った。
「函朔とかがやると割れてたんだけどなぁ……」
呟いた声に、背後から答えが返ってくる。
「そりゃお前、体重と筋力が足りないからだろ」
「あ、やっぱり?」
私は振り向いた。
役所の欄干にもたれてこちらを見ている範蔵と目が合う。
「もっと鍛えないと駄目ってことだな……範蔵、訓練に付き合ってくれ」
「断る」
この面倒くさがり屋め。
王歴1281年、三月。
陽射しが暖かみを帯びる季節、私達は昏との戦に駆り出されることになった。
馬に乗り、身に付けた簡素な鎧と武器を確認する。
はるか平原の向こうに、黒い旗を翻す砦が見えた。
「よいか、昏の帥将は鬲喜!東の守備軍の要である」
こちらの将である棟将軍が高らかに告知する。
棟将軍が碧の卿であり大将軍であるのに比べると、あちらは身分的には辺地の一将軍に過ぎない。しかし堅実に東方の地を守備してきた将で、その実力には碧の諸将軍も一目置いている。
私は手にした矛を握り締めた。
現在、三月。
約束の一年まで、あと七ヶ月。
私の今の身分は中士。近々上士に昇格するという話は出ているが、それでも卿になるにはまだ下大夫、中大夫という身分を越えていかなければならない。この辺りでできるだけ次の位に繋がる功績をあげておきたいところだ。
「進め――」
号令とともに鼓が打ち鳴らされる。一斉に全軍が前進を始めた。
今回は野戦ではなく攻城戦だ。
暫く前、春覇の率いる軍がこの地で昏軍に敗れた。敗因は味方の裏切り。春覇付の将軍が戦死したと聞いている。今回の戦は、その時奪われた土地を奪還するためのものなのだ。
攻略対象の砦は、急ごしらえのものだ。昏軍がこの地の守備の為に急遽作ったもの。故に障壁も高くはなく、堀も無い。
しかし砦の壁に押し寄せた第一波の歩兵はかなりの被害を受けた。
投石や矢の雨は予想していたことだ。砦を攻める以上、避けられない。
しかしこの砦から降ってきたのはそれだけではない。
昏兵が投げ落とした小さな壺が何なのか、碧兵は判断できなかった。
できないままに、それが頭上や足元で弾けるのを許してしまう。
炎が飛び散った。
昏軍は油の入った壺を、いわば火炎瓶として使ったのだ。
碧軍にとって好条件だった筈の、堀が無いということは、一転して悪条件となった。消火の為の水を確保できず、碧の前線はほうほうの体で後退を余儀なくされる。
軍の右翼からその様子を見ていた私は、腕を組んだ。
あれは攻めにくい。投石や矢と違い、油の壺は地に落ちた後も被害を広げるのだ。
中軍が退き鉦を打った。一度策を練り直すつもりだろう。火傷を負って命からがら逃げ帰った兵士の皮膚を、春覇が水精霊を使って冷やす。
春覇の力があれば火を消すことは可能ではあるが、あれだけの広範囲で次々に投擲される油壺全てを処理するのは無理がある。あまり春覇一人に負担をかけるわけにもいかない。
「鴻氏」
中軍から駆けてきた伝令が、私を呼んだ。
「棟将軍がお呼びです」
「……私を?」
私は首を傾げた。
私は現在、春覇の下で騎兵の一隊を預かっている程度の身分だ。大将である棟将軍に名指しで呼び出される理由など、普通は無い。
不得要領ながらも、私は中軍の幕舎に向かった。
「おお、来たな」
そこには、棟将軍や春覇、春覇付の角将軍を始めとして、軍の指揮官が揃っていた。私は地に膝を突き、礼をする。
「お呼びでしょうか」
「うむ」
棟将軍が目を細めた。緊張が場を包む。
「この度の戦、そなたはどう戦うべきと思う」
いきなり意見を求められて、私は当惑した。
が、棟将軍相手にその場凌ぎの言葉など通用しない。私は小さく深呼吸してから答えた。
「あの火炎は厄介です。あれを使われ続ければこちらの被害は増える一方でしょう」
まずは無難な事項から。慎重に言葉を選ぶ。
「しかし砦に油の備蓄が大量にあるとは思われません。攻め続ければ、いずれ尽きます……但し、こちらの被害が大きすぎる」
棟将軍はにこりともせずに私をじっと見ている。内心冷や汗をかきながら、私は続けた。
「となれば、火炎を避けつつ砦に蓄えられている油に火を放つのが最も早い手かと」
「いかにしてそれを成す?」
追及は鋭い。私は軽く深呼吸した。
「優れた間者を送り込む、または正面で陽動を行い、裏から精鋭にて突破するほかないかと」
「ふむ」
棟将軍は頷いた。
ここまでの返答は、一応合格のようだ。
「では、その任に堪える優れた間者の心当たりは?」
私は答えに詰まった。
棟将軍の視線が私から離れ、春覇や他の武将達の上を順に巡る。誰もが目を逸らしたり首を振ったりと、否定的な反応をした。
「鬲喜は慎重な男です」
春覇が徐に言う。
「間者では、倉に近づくこともできますまい」
「ふむ。そうですな」
棟将軍もあっさりと肯定する。
すなわち、棟将軍の意図は最初から後者にあったということだ。
「となると、表の軍が陽動を行い、精鋭を砦に突入させるということになる」
普通なら、その重大な役目は有能な将軍に任せられる。この中なら、恐らく春覇が適任だろう。
しかし問題は、私がここに呼ばれたということ。
「陽動の要は陽動と悟らせぬことにある」
棟将軍は高らかに言った。
「本気で門を突破するつもりで攻めていると思わせねばならん。故に、門にはわしと覇姫様が戮力して当たろう」
居並ぶ将軍達が、密やかに顔を見合わせるのがわかった。
私の背を冷や汗が伝う。
棟将軍は、最初からこういうつもりで私を呼んだのだ。
「鴻宵」
重厚な声が、私の名を紡ぐ。
「騎兵二百を率い、北東へ回り込んで突入せよ。北東は山に接しておる。ここの」
棟将軍は地図を広げ、一点を示した。
「崖が砦の外壁に近接しておる。高さもそう変わらぬ。跳び移れよう」
棟将軍は事も無げに言うが、馬で崖から城壁へ跳び移り或いは飛び越えるなど、結構な無茶だ。連れていく兵は馬術に長けていることもさることながら、胆の据わった者を選ばなければならない。
「倉の位置はここ。火炎の壺はこの辺りに作り置きされておる」
倉は北西の方角。北東から侵入して突っ切ればいけないことはない。
問題は作り置きの壺。こちらは当然、前線に近い場所にある。
つまり僅か二百の騎兵で、敵陣のど真ん中を駆け抜けろと言われているに等しい。
「どうじゃ。やれるか」
棟将軍の問い。
言葉は疑問形でありながら、その目は拒否を許さない。
「――承知致しました」
私は深々と頭を下げた。
夜中、私と二百騎の精鋭達は密かに行動を開始した。
馬には枚を含ませ、自分達も極力音を立てないよう息を殺して進む。
夜のうちに、砦の裏山まで回り込まなければならない。当然炬火の一つもない状況の中で、私は闇の中五感を頼りに進んだ。
慎重に進み、やがて待機地点近くまでたどり着く。
先行していた斥候の兵が音もなく私に近づいてきて、小声で告げた。
「見張りがいます。数は二人」
私は前方に目を凝らし、見張りの影を確認して頷く。昏軍の方も、奇襲の可能性は考慮していたということだろう。
私は少し考えてから、傍に居た兵士に手真似で指示し、足音を忍ばせてそうっと見張りの兵に近づいた。背後に出て、合図する。
「――!」
私ともう一人の兵士は同時に敵兵に飛び掛かり、銘々一人を押さえた。口を塞ぎ、剣を喉元に突きつける。
「騒ぐな。おとなしくしていれば命までは取らない」
私が小声で告げると、押さえ込まれた兵士は精一杯私を睨んだ。怯むことはせず、私は続ける。
「定時連絡の時刻と方法は?」
兵士は頑なに沈黙を保っていたが、碧兵が矛で小突くと、手振りで説明を始めた。
「酉戌の経、松明で丸を三回……?」
昏兵が頷く。
私はついともう一人の兵士に目を遣った。どこか安堵したような顔。
「嘘だな」
私はそう断じた。
「正直に言え。言えば無事に家に帰れる」
昏兵と目を合わせ、諭す。
「昏は命を懸けて忠誠を尽くすに足る国か?自分の頭で考えてみたことがあるか」
昏兵は困惑したように顔を見合わせた。
私は続ける。
「故郷に待つ人も居よう。五体満足に帰ってやれ」
この程度の説得で、折れるものではあるまいと思っていた。
沈黙した彼らの顔を、私はじっと見つめる。
その実、意識を向けていたのはその肩でひょこひょこと短い手足を振る炎精霊だった。
「戌亥の経に十字を三つ、か」
「!?」
いきなり暗号を言い当てた私に、昏兵が目を白黒させる。私は口角を上げてみせた。
「隠し事が下手だな。夜が明けたら放してやろう。拾った命は大切にしろよ」
夜明けと同時に、春覇と棟将軍が総攻撃を開始する手はずになっている。
私は部下とともに、夜が白むまで潜伏を続けた。
東の空が、うっすらと明るくなる。
同時に、碧の本陣で鼓が鳴った。
兵士達が一斉に砦に向かって行く。その頭上に降り注ぐ油壺を、縦横に伸びる水の帯が無力化していった。
激しい戦闘が続き、太陽が地平から顔を出す頃、私は馬に跨がった。
「行くぞ!」
号令一下、馬腹を蹴る。手薄になった北東の隔壁を、思いきって一息に飛び越えた。
飛び越える、と言うよりは飛び降りに近い。着地しざまに、見張りの兵を矛の柄で叩き伏せた。
次々と続く兵士達とともに手近な敵兵を掃討し、まずは西へと向かう。油の倉のある場所だ。決して広くない砦の内部を馬で疾駆するのは少々骨が折れるが、この作戦は速さが命。障害物を飛び越え、立ち並ぶ幕舎の間を縫うように走る
「碧兵が――」
慌てて本陣に報せようと走る昏兵の足を、傍に居た部下が矢で射抜いた。知られるのは可能な限り遅い方がいい。
倉には、警備に当たっている重装兵と、油壺の作製・運搬を行っているらしい非武装の工作兵がいた。私達の侵入に気付くと、重装兵が即座に守りを固め、工作兵達は倉の戸を閉じて立て籠った。
指揮が行き届いている。
非武装の兵までが咄嗟にこれだけ素早く動けるというのは、鬲喜の統率力が高い証拠だろう。
そう感じながらも、その相手を潰すために、私達は警備の兵との戦闘に入った。
「我々の侵入を許した時点で、お前達に勝ち目は無い!降れ!」
敵兵の矛や飛来する矢をかわし、手近な兵士を叩き伏せながら、私は叫んだ。部下の兵士達も口々に投降を呼び掛ける。
しかし、降る者は居なかった。
そのことを少しだけ無念に思いながら、私達は倉に到達する。
「火を放て!」
躊躇っている暇は無い。
今この時も砦を攻めている碧本陣の頭上には油の壺が降り注ぎ、春覇が奮闘しているのだ。
大量の油を備蓄していた倉には瞬く間に火が回り、砦の防衛戦術の要は黒煙を上げて焼け落ちた。熱風が頬を撃つ。
延焼しそうな建物が近接していないことをさっと確認すると、私はすぐさま馬首を返した。
「前線へ向かう!」
応、とときの声が返ってくる。
ここから前線まで、敵陣を抜けていかなければならない。
この先が、正念場だ。
「密集隊形をとれ。足を止めるなよ!」
部下達にそう指示して、馬腹を蹴る。疾走が始まった。
「通すな――」
倉から上がった火の手により私達の侵入を知った昏兵達が進路を塞ぐ。馬を止めずに武器を振るい、半ば文字通り蹴散らしながら、私の一隊は進んだ。
前方に、敵兵の一隊が素早く展開する。
その構えを見て、私は叫んだ。
「散れ――」
密集隊形から散った瞬間、私達の頭上に矢の雨が降る。次々に倒れて行く兵士が視界に入る度唇を噛み締めながら、私は馬を走らせた。
もうすぐ弓兵達に届く、というところで、がくりと体が揺れた。馬が矢を受けたのだ。
倒れる馬の背から飛び降りた私に、敵兵が一斉に弓を向ける。
私は咄嗟に、傍にあった井戸の陰に飛び込んだ。
矢の雨をなんとかやり過ごし、隙を衝いては走る。油壺の貯蓄場所はすぐそこだ。
「逃がすな――」
追ってくる敵兵を一々相手にしていたら身がもたない。
私は必死に追っ手を振りきり、目的地に達した。砦の外壁の目の前。大量に並べられた壺が、次々と前線へ運ばれている。
私は前線の兵士達に見つかる前に壺を一つ掠め取り、火をつけた。それを壺の並ぶど真ん中目掛けて放る。
砕けた壺は油を撒き散らし、炎を広げる。
もとより油で満たされていた大量の壺に瞬く間に引火し、貯蓄場所は炎の塊と化した。
昏兵が立ち騒ぐ。
炎によって作戦の成功を悟ったのか、碧軍の猛攻が始まったのがわかった。
私は幕舎の陰に座り込み、深く息を吐く。
作戦は、成功した。
碧軍はもはやあの油壺に悩まされることはない。
しかし私には、まだ難題が残っていた。
――この敵地のただ中から、生還すること。
連れてきた兵はもうほとんど残っていない。
大半が討たれ、生き残っている者も私と同じように身を潜めるので精一杯だろう。頼りにはできない。
「鬲将軍!」
昏兵の声が聞こえた。
「駄目です、倉もこちらも壺は全滅しました。碧軍は勢いに乗っています」
兵士の報告。私はこっそりと幕舎の陰から顔を覗かせた。
「碧め……やってくれたな」
苦々しげに言う男が見える。あれが鬲喜か。
「火を消せ!これより先は意地の戦だ。我らの誇りにかけて、一兵たりとも城壁を越えさせるな!」
昏兵が喚声で応える。切り札だった筈の戦術を潰されてもなお兵の士気が保たれているのは、尊敬に値することだろう。
私はゆっくりと呼吸を整えた。
頭の中で鬲喜の位置と外壁までの距離を測り、「それ」が可能か否か計算する。
生き残らねばならない。
同時に、次の昇進へ繋がる手柄が欲しい。
私は奇襲を成功させたが、突入した兵達を殆ど失ってしまった。これだけでは手柄としては弱い。
静かに、機会を窺う。
一歩間違えば、砦中の昏兵に囲まれてしまう。そうなれば、いくらなんでも生還は難しい。
機会は一瞬だ。
砦を攻める碧兵が外壁にかけた梯子に、鬲喜が最大限近づいた時。
念のため、両手に布を巻いておく。砦の昏兵と碧兵の競り合いが激化し、昏の将軍自らが最前線に出て戦い始めた。
そして、機会は訪れる。
鬲喜が兵を督励しながら自ら碧兵を撃退に向かった瞬間、私は地を蹴った。
一気に城壁の上に駆け上がる。体勢を低くし、周囲の兵士達に止める隙を与えないよう一気に駆け抜けた。幸い碧兵と激戦を繰り広げている昏兵の意識は前方に集中しており、私の存在に気づくのが遅れた。
「曲者――」
誰かが叫んだ時には、私は鬲喜の背後に居る。
はっと振り向いた鬲喜は、私の一撃を辛うじて矛で止めた。
あまり時間はかけられない。
私は鬲喜の矛を弾くと、彼の上体を城壁上の防壁に押し付けるようにしながら足払いをかけた。大人の腰ほどの高さしかない防壁から半ば身を乗り出す形になる。その下には、碧兵のかけた梯子。
「昏将鬲喜、悪いが一緒に来て貰う」
私はそのまま、鬲喜の体を押し出すように下へ落とした。鬲喜は梯子の上を転がり落ちて行く。周囲の昏兵に斬りかかられる前に、私も身を踊らせた。
梯子の両端に手をかけ、一気に滑り降りる。
布を巻いてあるとはいえ、摩擦に掌がちりりと痛んだ。
着地した私を、碧の兵士達が目を丸くして見つめる。
私は梯子の下で呻いている鬲喜の身柄を押さえ、深く息を吸った。
「昏将鬲喜、この鴻宵が生け捕った!」
一瞬の沈黙の後、わぁっと歓声があがる。
程なくして、将を失った砦は陥落した。
「あ痛っ。ちょ、痛い痛い」
「うるさい。少しは反省しろ」
私の怪我を治療してくれながら、範蔵は憤然と言った。
「お前の役目は油壺の始末だったろうが。それが終わったならおとなしくしてればいいものを、誰がついでに敵将を持って帰って来いっつった」
あまりにも無茶なことをした私は、範蔵のみならず春覇からもお小言を頂いた。
しかし棟将軍は何やら満足げに頷いていたから、ひょっとするとあの人はこうなることを予測していたんじゃなかろうか。怖いお人だ。
「まあ生き残れたんだし、いいじゃないか」
そう言うと、頭を叩かれた。痛い。
「こっちの寿命が縮む」
憮然と言って、範蔵は薬草の袋を仕舞いに行った。
私は苦笑を浮かべて、空を見上げた。
捕らえられた鬲喜は、私に一つだけ質問をした。
「なんとも無謀な男だ。命と手柄、どちらが大事なのか」
私は少しだけ笑って、言った。
「どちらも大事に決まっている。勝算が無ければやらないさ」
鬲喜は私の顔をまじまじと見て、次いで苦笑した。
「あの状況下で、勝算があると断ずるか……余程胆知に優れた者か、でなければ狂人だな」
「……褒め言葉と受け取っておく」
「褒め言葉だ」
さらりと言って、しかし鬲喜は強い目を見せた。
「だが我が国を甘く見るな。貴様に勝る将は幾らでもいる」
「ならば俺ももっと鍛練を積むまでだ」
私が言い切ると、鬲喜は一瞬目を見開いて、それから噴き出した。
「大した男だ」
出発を告げる命令が響く。
私は立ち上がり、大きく伸びをした。
この時の功績により、私は上士への昇進に加えて屋敷を賜ることになり、その二か月後には将軍位にのぼることとなる。
その後の話は、また別の機会に――。