殺さざる者の覚悟
第一部と第二部の間、決意の話。
中軍で旗が揚がり、鼓が打ち鳴らされる。
私は矛を掴む手に力を込めた。
この瞬間は、何度戦場に出ても慣れない。
「進め――」
それは、兵士達に敵への攻撃開始を命じる瞬間。
そして、彼らに死にに行けと命じる瞬間でもある。
私の剣は柄紐で封じてある。矛の刃は血で濡れた事は無い。
しかし、こうして命令を発する度、私は確かに人を殺しているのだろう。
敵の将兵然り。
自軍の兵士も然り。
春覇の麾下で一隊を預かるようになった私は、その権力に見合うだけの命を背負う事になった。
それでも自分の手を汚さない事を、或る者は偽善と言うだろう。或る者は逃げだと言うのだろう。
「お前は敵を殺さないらしいな」
戦の後、敵将捕縛の功績を賞して将軍の幕舎に招かれた私は、そんな言葉を掛けられた。相手は春覇付きの将軍だ。
春覇はこの場にいない。別行動で戦後処理に当たっている。
「…はい。出来る限り、殺さぬままでいようと決めております」
頭を下げたまま、私は答えた。
こうした問答には慣れている。
「馬鹿げている。戦は敵を殺してこそのものだ」
吐き捨てるように言って、将軍は私を睨む。
同僚からも、何度も言われた言葉だ。
でも、私は揺らがない。もう十分、考えた。
「それでも、それが私の覚悟です」
直接この手を血で濡らさなくとも、私のこの両手は綺麗ではない。
罪は背負おう。
それでも、何のために戦うのか、それを見失わない為に、私は決して意志を曲げない。
殺す為に戦うんじゃない。
殺さなくていい世界の為に戦っていることを忘れるな。
それは自分への戒め。
困難な道を敢えて選んだのは私自身だ。
殺す覚悟ではなく、殺さない覚悟を決めた。
「分らぬやつだ」
いらだたしげに言って、将軍は席を蹴って立ち去った。
理解してもらおうとは思わない。
確かにこれは、単なる私の我がままであり、偽善的な行為に違いないのだから。
「悪いな。君の功は認めているのだが、あの人はやや狷介なところがあってね」
不意に柔らかな言葉を掛けられて、私は顔を上げた。
苦笑交じりに私を見下ろしているのは、将軍の弟だ。
「私は君のその覚悟を面白いと思う。君がその意志を曲げずにこのまま邁進できるのなら、そう遠くない未来、君は私や兄と肩を並べるかも知れないな」
穏やかな口調で言った彼は、ふっと笑って私の肩を叩いた。
「しかしそれも、命あってこその可能性に過ぎない。殺さずの覚悟を背負ったまま、君がどこまで生き延びられるか、少し興味をそそられる」
温和で好意的な言葉だが、どこか冷たいのは、私の覚悟に興味は持っても共感はできないからなのだろう。
「下がっていい。覇姫様は君に目を掛けておいでのようだ。出来れば死なない道を選ぶがいい」
私は深く頭を下げ、退出した。
戦場で人を殺さずに身を守る事は、敵を殺すことより難しい。
多分、私がその困難を跳ねのけて生き延び、そして彼らと肩を並べるまで、彼が本当の意味で私を認めることは無いのだろう。
「並んでみせるさ」
私の目標は更にその上にある。
殺さない覚悟は、殺す覚悟からの逃げではないのだと、証明して見せよう。
その数ヵ月後に私が将軍位を手に入れ、「殺さずの将軍」と称される事になるのは、また別の話。