ある日の庵氏邸
第一部章之参の少し後のお話。
大商人庵氏の邸の一角には、私兵団の宿舎がある。
簡素なものだが、荷の護衛として働きさえすれば衣食住に困らずに済むその生活は流れ者にとってはなかなかに快適なものらしく、居ついてしまうものも少なくなかった。
そのうちの一人、名を支源という男が、酒の入った瓢を片手に、ぶらぶらと敷地内をうろついていた。
私兵達の立ち入りの許される境界線である柵の辺りへ行って邸の方を覗き込んでは、酒を呷りながら勝手門の方へ行って外を見る。
どうも、誰かを探しているようだった。
そんな支源を見かけた庵覚が、邸の回廊から身を乗り出して声をかける。
「おい、支源、さっきから何やってんだい」
ちょうど柵から離れて裏へ向かおうとしていた支源は、その声に振り向くと叫び返した。
「おう、衛長。末の旦那を知りませんか」
支源のどら声に驚いて、私兵の何人かが宿舎の窓から顔を出す。
しかし、二人の姿を視界に入れると納得したように引っ込んだ。
何しろ、庵覚の居るのは本邸の回廊、支源が居るのは私兵宿舎との仕切りの柵である。
広大な庵氏邸の庭を挟んだ二人の立ち位置には、結構な距離があった。
「識かい?あいつなら今朝また街にふらふら出かけてったきりだよ」
支源が末の旦那と言った人物は、名を庵識という。
れっきとした庵氏の息子で、庵覚の弟である。
この弟の性質は父や長兄よりも次兄の庵覚に似ており、商人よりは武人向きである。その上、庵覚に輪をかけて自由奔放な気質だった。故に、こうして行方が分からなくなることなどざらである。
「またですか?まったく毎日何の用があるんだか…せっかく誘おうと思ったのに」
「お前さんの誘いに乗った日には一日酒場で潰れちまうじゃないか」
呆れたように言って、庵覚は乗り出していた身を引いた。
「非番だからって酒はほどほどにするんだよ。函朔が留守の間はお前さんが筆頭なんだからね」
「うへえ、俺は気楽にやりたいんですがね」
肩を竦めて、支源は宿舎へ戻っていく。
歩き出そうとした庵覚は、支源が歩きながら瓢を呷るのを見て溜息を吐いた。
「まったく、うちの連中は何だってあんな適当な奴らばかりなのかねえ」
間違いなく庵覚のせいである。
しかし誰もそれを指摘する人間の居ないまま歩き出した庵覚は、表門の方から件の弟が駆けこんでくるのを目にした。
「戻ったのかい、識。支源が酒の相手を探してたよ」
そう声を掛けると、庵識はぱっと振り返って庵覚のもとへ駆け寄ってきた。
何やら不機嫌そうである。
庵覚は首を傾げた。
「何だい、随分ご機嫌斜めじゃないか」
「兄貴!」
飄々とした庵覚とは対照的に、庵識は憤然とした面持ちで詰め寄る。
「兄者から聞いたよ!こないだ鴻耀さんが家に来たっていうじゃないか。何で教えてくれなかったのさ!」
ああ、と庵覚は内心納得した。
何しろこの庵識、鴻耀を敬愛してやまないのである。
暇さえあれば街に出て鴻耀を探しまわり、剣の稽古をつけてくれとせがみに行く。
もっとも、居場所をくらませている鴻耀は滅多に見つかりはしないのだが。
「そんなこと言ったってお前さん、別の荷の護衛で碧にいたじゃないか。鴻耀もすぐ帰っちまったし」
「引きとめといてくれりゃいいのに!」
鴻耀に会える機会を逃したのがよほど悔しいのか、頭を抱えるようにして庵識は庵覚に背を向けた。
「今度は北を探してみるか…鴻耀さん、何だって俺を避けるんだ…」
「いや、あれはお前さんを避けてるわけじゃなくて…って、聞いちゃいねえや」
庵覚が言葉を掛けた時には、庵識は既に駆けだしていた。
また日課と化している鴻耀捜索に向かうのだろう。
「ありゃあ、もし鴻耀直々に剣を教わった奴がいると知ったら荒れるだろうねえ。鴻宵とはできるだけ会わせないようにしないと」
ふう、と息を吐いて、庵覚は晴れた空を見上げた。
「鴻宵、か…今頃白でどうしてるんだろうねえ」
小さく呟いた声は、誰にも拾われることなく風に紛れた。
「さて、仕事仕事。明日出る荷は…」
時に騒がしく、時に穏やかに、庵氏兵団の時は流れてゆく。
一見この上なく気楽な場所だが、一度敵に遭遇すれば己の命を守るのは己の腕一つ。
それを重々承知の上で、私兵達はなおそこで暮らしている。
戦乱の世の片隅で、浮草のように漂う者達。
そのうち一握りの実力者だけが、この場所で生きることを許される。
その場所を掠めて行った一人の少女の行く末など、今はまだ、誰も知らない。