鴻家の家臣4:嶺琥
嶺琥は厩の中で、じっと残雪を見つめた。
残雪も、真っすぐに見つめ返してくる。
「……やっぱり、行かなきゃ、だめかな」
小さく嶺琥が言うと、残雪は当然だとでも言うように鼻を鳴らした。
嶺琥の一日は、通常厩の中で始まり厩の中で終わる。
気の弱い嶺琥は、母屋に行くと聞こえる子ども達の騒ぐ声や家宰達の怒鳴り声が怖い。
また、彼自身厩でずっと馬の様子を見ている事が職務であるという事もあって、これ幸いとばかりに厩に籠っているのである。
食事は決まった時間に使用人達が持ってきてくれるし、井戸は厩のすぐ傍にあるので、普段別に困る事は無い。
しかし今、滅多にない問題が発生していた。
飼葉が切れたのである。
いつもなら、飼葉がきれそうな頃を見計らって、食事を持ってきてくれる使用人達に頼んで持ってきてもらう。
ところが嶺琥がうっかりしていて、朝食の際に言い忘れたのである。
結果、今馬達に食べさせる飼葉が無い。
嶺琥は懇願するように残雪を見上げた。
彼としては次の食事の時に使用人に頼みたいのだが、気難し屋の残雪は空腹でご立腹のようである。
ちょっと我慢してくれないかな、と目で訴えかける嶺琥を見下ろし、早く行けとばかりに前足で小突いてくる。
「うう…わかったよ、行って、来るよ」
嶺琥はがっくりと肩を落とし、踵を返した。
残雪の希望通り可及的速やかに飼葉を手に入れるには、母屋へ行って家宰に蔵を開けて貰わなければならない。
蔵に予備があればいいが、もし無ければ外へ買いに行かなければならないかもしれない。
「お前、馬を見る目は良いんだがなぁ。その気の小ささは何とかならねぇのか」
幼少の時分から、嶺琥は常々父にそう言われてきた。
物心ついた頃から、嶺琥は異様に気が小さく、近所の子どもが少し騒いだだけでも怯えて家の中に隠れてしまうほどであった。
誰に似たかと問われれば、間違いなく母に似たのである。
母は常に控えめで、臆病な性格であり、常の口癖が「私は貴方のことを草葉の蔭から見守っております」である。因みに未だ存命だが。
さて、そんな嶺琥は、ある日突然父から士官の決定を知らされた。
嶺琥にとっては青天の霹靂である。
「なに、心配ない。覇姫様のご紹介だし、お前目は良いんだから、行儀よくしてりゃ問題ねえよ」
そう言って嶺琥の背中を押した父は、最後に釘を刺した。
「逃げ戻って来るんじゃねえぞ。お前だって一生厩で暮らすってわけにゃいかねえんだからな」
かくして、嶺琥は鴻氏邸の場所を記した地図と僅かな着替え、馬の鞭だけ持たされて放り出されたのであった。
「こ、こここここ……」
数刻後、嶺琥はもはや自分が「こ」を幾つ言いたかったのかもわからないような有様で鴻家の門前に立っていた。
どうやら家の中は引っ越しのあれこれでばたばたしているらしく、門番も居ない。
嶺琥は深呼吸した。
とにかく、この門を潜らない事には今夜の寝床も無いのである。
ようやく、嶺琥が一歩踏み出そうとした時。
「何してんの?」
「ひぎゃあ!!」
不意に背後から声を掛けられて、嶺琥は文字通り飛びあがった。
思い切り距離を取りながら振り向くと、栗色の髪の中で頭頂部だけが黒髪という奇妙な頭をした青年が首を傾げながら立っていた。
「ちょっと、そんな反応されるとさすがに傷つくよ~」
「あ、ご、ごごごめんなさ……」
ぶるぶると震えながら詫びる嶺琥を見て、青年は首を傾げる。
「そんなに恐がらなくてもいいよ~。ところで君誰?見ない顔だね」
「あ、ぼ、僕は……」
嶺琥はぐっと気合いを入れた。
「れ、嶺琥と申します!鴻氏様に、し、仕官しに参りました!」
頭を下げながら、父から預かった紹介状を差し出す。
青年はああ、と頷きながらそれを受け取った。
「そういえば、覇姫様が家臣をつけてくれるらしいって話だったね~。取り次いで来るから、ちょっと待ってて」
「は、はいっ」
青年が邸に入って行くのを見送りながら、嶺琥はほっと息を吐いた。
幸い怪しまれる事も無く紹介状を渡せたのだ。第一の関門を越えた気分である。
ややあって、歳の頃なら嶺琥と同じくらいだろう青年が門から顔を出した。
「君が嶺琥か」
「は、はいっ」
恐らく相手は将軍の側近なのだろうと当たりをつけて、嶺琥は姿勢を正す。
しかし傍までやってきた青年を見て、思わずぽかんとしてしまった。
少女と言っても通りそうな華奢な体格に、端正な顔立ち。
一瞬本当に男かと疑いたくなるが、服装は間違いなく男のそれである。
何か作業をしていたのか、上着を脱いで袖を捲くっているので正確な身分はわからない。
「悪かったな、門番も居なくて。今ちょっとごたごたしているものだから」
青年はそういうと、手にしていた紹介状を開いた。
「覇姫様のところの圉人の子息か。早速だけれど、厩の馬を見てくれるかな。引っ越したばかりで馬達も落ち着かないみたいだから」
「はいっ」
嶺琥が返事をした時、邸の中からばたばたと駆けてくる足音がした。
「鴻氏!!」
ばんっと音を立てて門を開けたのは、がっしりとした壮年の男である。
その剣幕にびくりと肩を揺らした嶺琥には構わず、険しい顔のまま青年に詰め寄る。
「いくら邸がごたついているからといって、来客に自ら会いに行く当主がどこにいるのですか!それもそんな格好のまま!」
「あ、つい」
「つい、ではありません!!」
全く動じていない青年に対して、男は額に青筋を立てて苦言を呈している。
その様子は小心者の嶺琥にとって十分に恐ろしいものだったが、更に気になる事があった。
「鴻、氏……?」
今、この男は目の前の青年をそう呼ばなかっただろうか。
嶺琥の額を冷や汗が伝う。
「ああ、名乗りが遅れたな」
青年は嶺琥に向き直ると、黒曜の瞳で真っすぐに嶺琥を見た。
「私が鴻宵だ。これからよろしく」
そこからどうやって厩に辿りついたのか、嶺琥は全く覚えていない。
そんな過去を思い出しつつ、嶺琥は母屋の勝手口に立ってそうっと中を覗いていた。
子ども達は向こう側に居るらしく、声が遠い。
これなら喧騒に巻き込まれずに使用人にでも用を頼めるかな、と一歩踏み出そうとした時。
「嶺琥じゃないか。珍しいな」
「ひぎゃっ!?」
不意に後ろから声を掛けられて、嶺琥は飛びあがった。
いつぞやもこんなことがあった気がする。
「……悪い、脅かすつもりは無かったのだけど」
跳ね上がった心臓を押さえながら振り向いた嶺琥の後ろに立っていたのは、鴻宵だった。
「あ、将軍様!も、もうしわけ、ありま」
「いや、いいんだ。でもそろそろ慣れて欲しいかな」
苦笑気味にそう言って、鴻宵は嶺琥と戸口を交互に見た。
「ところで、何か用があったんじゃないのか」
「あ、はい。飼葉を……」
緊張におろおろしながら言う嶺琥の肩に、鴻宵がぽんと手を置く。
「そういうことか。だったら私が省烈に言って来るから、ここで……」
言いかけて、ふと嶺琥を見る。
その視線が、自分より低くなっていることに嶺琥は気付いた。
「……嶺琥、背が伸びたな」
「え、あ……」
厩から殆ど出ない嶺琥は気付いていなかったが、成長期にある彼の身長は此処へ来た当初と比べてかなり伸びていた。
一方の鴻宵は殆ど変わっていないように見える。
「そうか。嶺琥だって大人になるんだよな」
鴻宵にそんな事を呟かれて、嶺琥は無性に恥ずかしくなった。
背ばかり伸びて、鴻宵よりこんなに体は大きくなったのに、自分はまだ、厩から出ようともしない。
「あ、の、将軍、様!」
嶺琥は思い切って言った。
「僕、自分で、行きます。家宰殿に、飼葉を、頂きに」
鴻宵の目が軽く見開かれる。それから、ゆったりと細まった。
「そうだな。それがいい。よし、行って来い」
「はいっ」
意気込んで母屋に踏み込んだ嶺琥は、それでもやはり子ども達の喧騒と家宰の怒鳴り声にびくびくし、やっとの思いで飼葉を持って帰った。
その挙句、残雪に遅いとばかりに小突かれ、必死で謝る羽目になった。
それでも確かに、自分にしては進歩したものだと思えた。
ほんの小さな一歩でも、これまでずっと止まっていた事を考えれば、とても大きな一歩。
その背中を押してくれたのは――