約束
花火の残滓を見送った俺たちは、バルコニーを片付け、部屋に戻った。葉月がシャワーへ行くと、俺は寝室に入り、ベッドサイドチェストから手紙を取りだした。
瞼の裏に、まだ美しい光が残っていた。意を決し、俺は封をあけた。
丁寧に折り畳まれた便箋をひらくと、そこには懐かしい文字が並んでいた。
『約束を守ってくれて、ありがとう。もう一緒にはいられないけれど、あの約束は一生守り続けてください。そしてどうか、暴力とは無縁の幸せな人生をおくってください』
胸を刺されたような衝撃。
あの日、彼女を殴ろうとして振りあげた腕。理性で収めたものの、彼女を暴力で支配したいという衝動に一瞬、抗えなかった。
俺はずっと、約束を破ってしまったのだと思っていた。けれど彼女は、あの約束はまだ反故になっていないと、最後に教えてくれていたのだ。
掴んだ指先から、便箋に皺が寄る。その文字を網膜に焼き付けておきたいのに、視界が滲んでしかたなかった。
つよい夏の光に世界が白く霞む中、うちにやってきたときの格好で玄関口に立った葉月は、眩しげに目を細めはにかんだ。
「壮馬くん、お世話になりました」
「本当に、こんな朝早くに帰るの?」
「うん、だって壮馬くん仕事でしょ。私も帰ってちゃんとしなきゃ」
朝陽に透けて金色に縁取られた髪を、葉月はくしゃりと握った。
「あのね、本当は海で倒れてたとき、死にたいとは思ってなかったけど、何にもいいことないし、このまま死んじゃってもいいかなって思ってたの」
俺たちの人生は、命を粗末に扱うお手本が身近すぎて、いつだって破滅的な手段が選択肢に入り込む。
葉月はするりと髪に手櫛を通し、笑った。
「だけど、砂を踏んで近づいてくる壮馬くんの足音が、死神みたいでさ。ああやっぱり何にもいいことないまま終わるのは嫌だな、まだ死ねないなって思ったんだ」
自分の発言にけらけらと陽気な笑い声をこぼす葉月を見つめ、俺は苦笑いを浮かべた。
瞬きをすれば、瞼の裏に鮮烈に蘇る、あの夜の光景。
人魚かと、思った。
いちばん大切なものを失って、それを嘆く資格もなくて、もう全部投げ出して海底に沈んでしまいたいと、終電で海へ向かった。
それなのに、波打ち際に倒れている葉月を見て、綺麗だと思った。寄せる波にたゆたう髪も、砂にまみれた白い頬も、胸元に散らばった花も、そのすべてが死の誘惑を吹き飛ばすほどに、美しかった。
まるで、童話の人魚姫のように──。
あの渚の輝きをまとって、葉月は首をかしげる。
「ねえ、色々おちついたら、またここに帰ってきてもいい?」
俺は腕を伸ばし、葉月の肩を抱き寄せた。その耳もとに、愛しさを込めて囁く。
「行ってらっしゃい」
抱擁を解くと、葉月は大輪の笑みをほころばせた。
「行ってきます!」
元気に手を振り、葉月は駆けていく。
俺たちはずっと、海の中で息をしてきた。あの夜に俺たちは出会い、陸へあがったけれど、生まれたての足で地上を歩くとき、心に怯えが走る。
肺いっぱいに酸素を吸っても、時に失ったはずの鰓や尾びれが痛む。その痛みはずっと俺たちのそばにあって、どれほど二足歩行に馴染んでも一生手放すことはできない。
それでも俺たちはこの二本の足で歩く。光の中を行く。
夏風に葉月のワンピースの裾が揺れる。その健やかな後ろ姿が階段に隠されるまで、俺はずっと玄関で見送っていた。