花火
ドアが開く音とともに、玄関から葉月の楽しげな声が響いた。
「ただいま」
ソファーで待っていた俺の肩が、思わずゆれる。
おかえり、と応えたかったけれど、どうしても口にすることができず俺が口ごもっていると、葉月が満面の笑みでテーブルの上に戦利品をひろげた。
「メロンパンに、クリームデニッシュ、あんパンにアップルパイでしょ」
「甘いのばっかりじゃん」
日曜の朝、すっかり元気になった葉月がパンを食べたいと言うので、一階のベーカリーまでおつかいを頼んでいた。
ビニールの包みを解くと、バターと小麦の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。甘いパンにかぶりつき、淹れておいた紅茶と一緒に飲みこむと、全身がほどけていく。
もごもごと頬を動かしながら、葉月が言う。
「パン屋さんで聞いたんだけどね、今日、花火大会があるらしいよ」
「花火?」
「この部屋四階でしょ。ベランダから見えるんじゃないかな」
毎年、海岸で花火大会が催されているのは知っていた。けれど付き合っていた彼女とは、一度も見たことはなかった。
花火が怖い、とは言えなかった。暴力衝動と似ているから、なんて説明のしようがなかった。花火が好きじゃない、人混みが苦手だと言えば、「それでも一緒に見よう」と無理強いする相手ではなかった。
俺が口をつぐんでいると、葉月は「花火、見ようよ」と笑った。
「大きい音、苦手?」
雷の晩のことを思い出したのだろう。首をかしげる葉月に、俺は首を振った。
「いや。いいよ、見よう」
怯えはあった。それでも、ただ光の花が美しいと思えますようにと、願った。
甘いばかりのパンは口にもったりとした倦怠感を残し、なぜか懐かしい感覚がした。腹に重く炭水化物がたまっていくと、眠気とともに充足感が体を満たした。
洗い終えた皿を布巾で拭きながら、キッチンに立つ葉月が声をあげた。
「壮馬くん、麦茶用意した?」
「はいはい、ふたつ注いだよ」
ほら、とグラスを両手に持って見せると、葉月は「よし、じゃあ電気消そうか」と笑った。
暗くなった室内から、サンダルを履いてバルコニーに出る。夜空は銀砂をまいたように星屑が散り、夜風は生ぬるく磯の匂いがする。熱さにじわりと汗が滲むと、粘度をもった空気が首筋にはりついてくる気がした。
柵にもたれながら、町並みの向こうに黒くひかる海を眺め、葉月は言った。
「今まで泊めてくれて、ありがとう。明日、帰るよ」
エアコンの室外機の音がうるさかった。喉元に潮の香りがわだかまり、俺は唾を飲みこんだ。
「帰るとこ、あんの?」
「ん、一応ね」
葉月のながい睫毛が、ゆっくりと瞬く。
「私さ、お母さんが死んだあと施設で育ったの。施設を出て就職したのに上手くいかなくてさ。バイトを転々として、友達とルームシェアして暮らしてたんだけど、友達にお金を持ち逃げされちゃって。バイト先も休業しちゃうし、行く宛もなくてNPOのシェルターに保護してもらってたの」
彼女の唇が、空気中の湿度を纏って赤く潤んでいた。
「ご飯を食べさせてもらって、住む場所も用意してもらって、福祉の手続きにも付き添ってもらって、あなたは悪くないよ、一緒に何とかしようねって優しくしてもらって、いたたまれなくなって逃げたの」
葉月は麦茶の入ったグラスを額に押し当てた。硝子に付着していた水滴が、溺れるように息を継ぐ彼女の肌をつたう。
「私、優しくしてもらっていい人間じゃないのにって。私はお母さんを見殺しにしたのにって──」
俺は思わず、彼女の言葉を遮った。
「思い出すの辛いんだろ。無理に言わなくていいよ」
わずかに瞳が揺らいで、ぎこちなく葉月は笑った。
「私が壮馬くんに聞いてもらいたい。駄目かな?」
「……聞くよ」
俺は微笑み、辛抱強く葉月が口をひらくのを待った。小刻みに続いていた震えがおさまる頃、葉月はふかく空気を吸いこみ、声を吐きだした。
「私が十歳のとき、お母さんが死んだの。二人で夜の海に行って、指切りした。『お母さんの後ろをついてきてね。約束だよ』って」
葉月の双眸に、遠い海がさざめく。
「沖へ向かって歩いていくお母さんの背を、必死に追いかけた。だけど波が胸に迫って、一歩も進めなくなった。私は、お母さんが海に沈んでいくのをただ見ていたの」
葉月の半分は、今も暗い海底に沈んでいる。そんな確信が、俺の胸をつらぬいた。
彼女は俺の隣にいるけれど、きっと俺の手に届かない。分かっていても、俺は手をのばした。
グラスが手から滑り落ちた。硝子の砕ける音が、花火の打ち上げ音に掻き消される。
華奢な体を抱き寄せた。破裂音が鼓動とかさなる。もう、怖いとは感じなかった。
「葉月。約束を破ってくれて、ありがとう」
光の花が夜空で弾け、色とりどりの光が降りそそぐ。
「生き残ってくれて、あの海で俺と出会ってくれて、ありがとう」
葉月が俺の背に、しがみつくように腕をまわした。
「昔、お母さんとお父さんと私、三人で住んでいた家からはね、海が見えたんだって。その頃の記憶はないし、お父さんの顔も覚えてないんだけど、私この家に来てからね、こんな場所だったのかなあって思ったの」
一瞬の静寂。息苦しいほど真っ直ぐに俺を見つめ、葉月は言った。
「私、幸せになりたいよ。知らないから、手に入れたい。絶対に」
彼女の半分は今も水底でもがきながら、それでも届かないはずの光を見据えている。もう半分は陸にあがるために、声ではない何か大切なものを犠牲にしたけれど、その手は光を掴んで離さない。
「なれるに決まってるじゃん。俺が保証する」
俺の言葉に葉月が腕をとき、一歩体を引いた。手の甲でぐっと目元を拭うと、彼女は笑った。
「ねえ私、思うんだけどね。果たせなかった約束をそれでも守りたいなら、次の約束を守るしかないんじゃないかな」
菊、牡丹、柳。眩い花が次々と夜を彩り、煙とともに崩れていく。その軌跡さえ、美しかった。
「過去の約束を守れたことにはならないけれど、約束を破った自分と決別することはできるでしょ。約束と一緒に別れた人たちには何の関係もないことだけどさ、私達はこの体と心でこれからも生きていくんだもん、未来のために約束しようよ」
あかるい光に照らされて、葉月が小指を差しだした。
「私たち、幸せになろう。だって私たちの人生の前半戦、ハードモードすぎるもん。こんなんなら絶対に、ウルトラミラクルスーパーハッピーエンドが待ってないと、やってらんない」
「なんて? もう一回言って」
夜の帳に、ひときわ大きく華麗な花が咲く。花が砕ける寂しさすら掻き消すほどの、輝きが空に炸裂する。きらきらと、幾筋もの流星のように光が舞う。
「ウルトラ・ミラクル・スーパー・ハッピーエンド!」
満面の笑みの葉月と、小指を交わした。指切りからは、海の匂いがした。