表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

花火

 ドアが開く音とともに、玄関から葉月の楽しげな声が響いた。

「ただいま」

 ソファーで待っていた俺の肩が、思わずゆれる。

 おかえり、と応えたかったけれど、どうしても口にすることができず俺が口ごもっていると、葉月が満面の笑みでテーブルの上に戦利品をひろげた。

「メロンパンに、クリームデニッシュ、あんパンにアップルパイでしょ」

「甘いのばっかりじゃん」

 日曜の朝、すっかり元気になった葉月がパンを食べたいと言うので、一階のベーカリーまでおつかいを頼んでいた。

 ビニールの包みを解くと、バターと小麦の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。甘いパンにかぶりつき、淹れておいた紅茶と一緒に飲みこむと、全身がほどけていく。

 もごもごと頬を動かしながら、葉月が言う。

「パン屋さんで聞いたんだけどね、今日、花火大会があるらしいよ」

「花火?」

「この部屋四階でしょ。ベランダから見えるんじゃないかな」

 毎年、海岸で花火大会が催されているのは知っていた。けれど付き合っていた彼女とは、一度も見たことはなかった。

 花火が怖い、とは言えなかった。暴力衝動と似ているから、なんて説明のしようがなかった。花火が好きじゃない、人混みが苦手だと言えば、「それでも一緒に見よう」と無理強いする相手ではなかった。

 俺が口をつぐんでいると、葉月は「花火、見ようよ」と笑った。

「大きい音、苦手?」

 雷の晩のことを思い出したのだろう。首をかしげる葉月に、俺は首を振った。

「いや。いいよ、見よう」

 怯えはあった。それでも、ただ光の花が美しいと思えますようにと、願った。

 甘いばかりのパンは口にもったりとした倦怠感を残し、なぜか懐かしい感覚がした。腹に重く炭水化物がたまっていくと、眠気とともに充足感が体を満たした。


 洗い終えた皿を布巾で拭きながら、キッチンに立つ葉月が声をあげた。

「壮馬くん、麦茶用意した?」

「はいはい、ふたつ注いだよ」

 ほら、とグラスを両手に持って見せると、葉月は「よし、じゃあ電気消そうか」と笑った。

 暗くなった室内から、サンダルを履いてバルコニーに出る。夜空は銀砂をまいたように星屑が散り、夜風は生ぬるく磯の匂いがする。熱さにじわりと汗が滲むと、粘度をもった空気が首筋にはりついてくる気がした。

 柵にもたれながら、町並みの向こうに黒くひかる海を眺め、葉月は言った。

「今まで泊めてくれて、ありがとう。明日、帰るよ」

 エアコンの室外機の音がうるさかった。喉元に潮の香りがわだかまり、俺は唾を飲みこんだ。

「帰るとこ、あんの?」

「ん、一応ね」

 葉月のながい睫毛が、ゆっくりと瞬く。

「私さ、お母さんが死んだあと施設で育ったの。施設を出て就職したのに上手くいかなくてさ。バイトを転々として、友達とルームシェアして暮らしてたんだけど、友達にお金を持ち逃げされちゃって。バイト先も休業しちゃうし、行く宛もなくてNPOのシェルターに保護してもらってたの」

 彼女の唇が、空気中の湿度を纏って赤く潤んでいた。

「ご飯を食べさせてもらって、住む場所も用意してもらって、福祉の手続きにも付き添ってもらって、あなたは悪くないよ、一緒に何とかしようねって優しくしてもらって、いたたまれなくなって逃げたの」

 葉月は麦茶の入ったグラスを額に押し当てた。硝子に付着していた水滴が、溺れるように息を継ぐ彼女の肌をつたう。

「私、優しくしてもらっていい人間じゃないのにって。私はお母さんを見殺しにしたのにって──」

 俺は思わず、彼女の言葉を遮った。

「思い出すの辛いんだろ。無理に言わなくていいよ」

 わずかに瞳が揺らいで、ぎこちなく葉月は笑った。

「私が壮馬くんに聞いてもらいたい。駄目かな?」

「……聞くよ」

 俺は微笑み、辛抱強く葉月が口をひらくのを待った。小刻みに続いていた震えがおさまる頃、葉月はふかく空気を吸いこみ、声を吐きだした。

「私が十歳のとき、お母さんが死んだの。二人で夜の海に行って、指切りした。『お母さんの後ろをついてきてね。約束だよ』って」

 葉月の双眸に、遠い海がさざめく。

「沖へ向かって歩いていくお母さんの背を、必死に追いかけた。だけど波が胸に迫って、一歩も進めなくなった。私は、お母さんが海に沈んでいくのをただ見ていたの」

 葉月の半分は、今も暗い海底に沈んでいる。そんな確信が、俺の胸をつらぬいた。

 彼女は俺の隣にいるけれど、きっと俺の手に届かない。分かっていても、俺は手をのばした。

 グラスが手から滑り落ちた。硝子の砕ける音が、花火の打ち上げ音に掻き消される。

 華奢な体を抱き寄せた。破裂音が鼓動とかさなる。もう、怖いとは感じなかった。

「葉月。約束を破ってくれて、ありがとう」

 光の花が夜空で弾け、色とりどりの光が降りそそぐ。

「生き残ってくれて、あの海で俺と出会ってくれて、ありがとう」

 葉月が俺の背に、しがみつくように腕をまわした。

「昔、お母さんとお父さんと私、三人で住んでいた家からはね、海が見えたんだって。その頃の記憶はないし、お父さんの顔も覚えてないんだけど、私この家に来てからね、こんな場所だったのかなあって思ったの」

 一瞬の静寂。息苦しいほど真っ直ぐに俺を見つめ、葉月は言った。

「私、幸せになりたいよ。知らないから、手に入れたい。絶対に」

 彼女の半分は今も水底でもがきながら、それでも届かないはずの光を見据えている。もう半分は陸にあがるために、声ではない何か大切なものを犠牲にしたけれど、その手は光を掴んで離さない。

「なれるに決まってるじゃん。俺が保証する」

 俺の言葉に葉月が腕をとき、一歩体を引いた。手の甲でぐっと目元を拭うと、彼女は笑った。

「ねえ私、思うんだけどね。果たせなかった約束をそれでも守りたいなら、次の約束を守るしかないんじゃないかな」

 菊、牡丹、柳。眩い花が次々と夜を彩り、煙とともに崩れていく。その軌跡さえ、美しかった。

「過去の約束を守れたことにはならないけれど、約束を破った自分と決別することはできるでしょ。約束と一緒に別れた人たちには何の関係もないことだけどさ、私達はこの体と心でこれからも生きていくんだもん、未来のために約束しようよ」

 あかるい光に照らされて、葉月が小指を差しだした。

「私たち、幸せになろう。だって私たちの人生の前半戦、ハードモードすぎるもん。こんなんなら絶対に、ウルトラミラクルスーパーハッピーエンドが待ってないと、やってらんない」

「なんて? もう一回言って」

 夜の帳に、ひときわ大きく華麗な花が咲く。花が砕ける寂しさすら掻き消すほどの、輝きが空に炸裂する。きらきらと、幾筋もの流星のように光が舞う。

「ウルトラ・ミラクル・スーパー・ハッピーエンド!」

 満面の笑みの葉月と、小指を交わした。指切りからは、海の匂いがした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ