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熱病

 朝のひかりに瞼をくすぐられ目をあけると、左手が優しい温もりに包まれていることに驚いた。上体を起こして身をよじれば、小柄な手のひらが重なっているのが見えた。

「おい、ソファで寝ろって言っただろ」

 マットレスに頬をあずけ、床に座ったまま眠っている葉月に俺は声をかけた。彼女の睫毛がちいさく痙攣し、薄茶の瞳がすがたを現すと、肩からかけていた毛布がずり落ちた。

「壮馬くん、おはよう」

 寝ぼけた声で言う葉月に、俺は眉根を寄せる。

「なんで寝室に入ってきたんだ」

「なんでって、おぼえてないの?」

 声を尖らせた俺に、葉月が笑みをこぼす。

「だって壮馬くん、ずっと魘されてたんだよ? 泣きそうな声だったし、怖い夢でもみてるのかと思って、起こしにきてあげたのに全然起きないんだもん。しかたなく手を握ってあげたら、やっと静かになったから、一晩中動けなかったの」

 彼女の言葉に思わず表情が抜け落ちた。温もりに気づいたときに抱いた心地よさの理由は、それだったのかと思った。

 葉月はずり落ちた毛布を肩にかけ直した。

「でも、床で寝るんじゃなかった。あちこち痛いし、なんだか怠いし」

 苦笑いする彼女をよく見れば、昨夜より顔も赤いし浮腫んでいる気がする。不安になって葉月の額に手をのばすと、案の定焼けるように熱かった。

「うわ、熱あるだろ、これ」

「へへ、風邪引いちゃったかも……」

 ゆるんだ表情にも不調が滲んでいるようで、俺は立ちあがりベッドから抜けだした。空になったベッドを指さす。

「たった今まで俺が使ってたとこで嫌かもしれないけど、寝て。体、つらいでしょ」

「んー、ありがと……」

 緩慢な動作でベッドに這いあがった葉月に毛布をかけると、耐えきれなくなったように彼女は瞼を閉じた。

 俺はキッチンに向かい、冷蔵庫の米と水を鍋に入れて火にかけた。ぐつぐつと泡を吹く水と米を眺めながら、思う。俺は、葉月のこと何も知らないんだよな。

 軽く塩で味をつけたお粥を椀に盛り、匙とともに寝室に届けると、葉月はぼんやりと目を擦っていた。視線が絡み、俺は尋ねる。

「なんで、あんなところにいたの」

「お墓参り」

 微笑みを纏い、彼女は言う。

「昔ね、お母さんがあの海で死んだの。昨日が命日だったから、お花でも供えようと思って。だけど浅瀬で足がもつれて転んじゃって、お尻打って痛くて寝転んでたの」

「母親の後を追おうとしてたんじゃなくて?」

 俺が尋ねると、探るような瞳が俺を射抜いた。

「違うよ、お墓参りだって。そういう壮馬くんは、死のうとしてたんだ?」

 指摘され、俺は息をのんだ。墓穴を掘った。図星だった。もし葉月と出会わなければ、俺は入水自殺を図っていただろう。

「なんで? 過労? 借金? まさか失恋?」

 葉月のたたみかける質問に追い詰められ、俺は苦笑を浮かべた。

「そう、失恋。彼女にふられたのが悲しくて、もう生きてる意味ないんじゃないかって血迷ったわけ。笑える?」

「そんなに好きだったんだ?」

 静かな声に、指先が震えた。

 好きだった。暴力的な家庭で育ち、殺伐とした心をもてあましていた。未分化だった感情に、ひとに優しくされると灯る熱を、ひとを大切に思うと凝る切なさを教えてくれたのは彼女だった。

 差しだした愛情に、愛情が応えてくれること。あたたかな信頼に、幸福という名前をくれた。

 だけど、俺が壊した。

「俺が、悪かったんだ」

 きっかけは些細な言い争いだった。お互い仕事で疲れていて、言葉がきつくなった。口論は二人の性格までが俎上に乗り、彼女がため込んでいた不満を爆発させた。

 ──どうして壮馬くんは、心の弱さに向き合えないの!

 彼女の尖った声に、脳裏で極彩色の花がひらいた。

 瞬間、腕を振りあげていた。手のひらが彼女の頬を打ったとき、その頬の柔さに、その頭の軽さに、あまりにもあっけなく倒れ込んだ細い体に驚いた。じんと熱をもつ手のひらを見下ろすと、胸中に墨のような罪悪感と、一抹の恍惚が滲むのがわかった。

 彼女は腫れあがった頬を押さえ、静かに涙をこぼした。

 弾かれたように俺は膝をつき、必死に謝り倒した。本当に悪かった。どうかしていた。もう二度としない。だから許して欲しい。

 氷嚢で頬を冷やしながら、泣き腫らした目の彼女は頷いた。

 ──絶対にもう、暴力を振るわないで。約束してくれるなら、別れない。

 首の皮一枚、つながったと思った。再び彼女を泣かせるわけにはいかないと、死ぬほど反省したつもりだった。

 きっと生育環境に暴力が近すぎたせいで、暴力的な衝動が抑えられないのだと精神医学や臨床心理学の本を読みあさった。覚悟を決めてカウンセリングに通い、自分の生い立ちや性格の偏りについて整理した。おかげで随分、胸中でわだかまっていたものに折り合いがついた。

 これだけ努力したのだから、もう大丈夫だと油断した。

 そしてあの日、他愛のない意見の相違が激しい言い合いとなり、俺も彼女も収拾がつかなくなって、また、花が弾けた。

 振りあげた手を、なんとか堪えて空中で押しとどめた。

 力で相手を蹂躙して、支配して、従わせたい。陰惨な誘惑が耳もとで囁いたが、脂汗をかきながら、理性で腕をおろした。ひりつく沈黙を破り、俺は言った。

 ──別れよう。ごめん、約束を守れなかった。

 彼女は充血した目で俺を凝視し、「分かった」と喉から声を絞りだした。そして翌日には荷物を纏め、このアパートを出ていった。テーブルにひとつ、手紙を残して──。

 葉月からのまっすぐな視線を感じていたが、俺は目を合わすことができないままでいた。

「彼女は俺を信じて約束してくれたのに、裏切った。自分も暴力を振るわれて育ったとか、心の傷が癒えていないとか、言い訳にならないのは知っている。俺は約束を破った。だから、別れた」

 ふうん、と葉月は気の抜けた声を漏らし、俺が持つお粥を指さした。

「おなか空いた。食べてもいい?」

 俺は苦笑し、「悪い。冷めたかもしれない」と謝った。

 匙を口に運びながら、「ありがとう」と葉月は言った。

「私を助けてくれて。私を信用して、大切な思い出を打ち明けてくれて。美味しいお粥を作ってくれて。ありがとう」

 緊張したような、少しかたい声だった。照れを隠すように視線も合わさず、黙々とお粥を食べる葉月は、意地を張った子どもに似ていて微笑ましかった。

「どういたしまして。昼に食べたいもん、何かある?」

 血色のよさを取り戻した顔で、葉月が笑った。

「うどんが食べたい。作ってくれるの?」

「ああ、いいよ」

 答えながら、今日が土曜でよかったと思った。スーパーで何か栄養のあるものを買ってこよう。葉月がもう少し元気になったら、アパートの一階にあるベーカリーのパンを食べさせてもいいかもしれない。彼女と別れてから、こんなに明るい気持ちで未来の予定を立てるのは初めてだった。

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