出会い
人魚かと、思った。
真夜中の波打ち際に、若い女が横たわっていた。月光に照らされた顔は眠っているようで、寄せては返す波が彼女の肩口までを浸している。濡れて広がった髪や胸元には、色とりどりの花が散らばり、波に揺られている。
マーメイド。オフィーリア。水死体。
辿りついた不吉な連想に、俺は顔をしかめた。
「警察……」
ジーンズのポケットからスマートフォンを取りだす。こわばった手でキーパッドを操作していると、青白い顔した彼女の双眸がぱちりとひらいた。血色のわるい唇から、勢いのある声が飛びだす。
「死んでないから!」
俺は表情を引きつらせ、一歩あとずさった。とりあえず、遺体の第一発見者にならなくてよかった。安堵し、気が進まないものの手を差しだした。
「立てる? どこか悪いの」
「平気。ありがとう」
八月とはいえ、波に浸っていた体は冷えたのだろう。ふれた手は冷たく、引きあげた体は小刻みに震えていた。
彼女の肩口まである髪は濡れ、頬や首筋にはりついている。全身が砂にまみれ、濃い眉やながい睫毛を砂粒が化粧みたいに彩っていた。
逃げ場をさがすように、彼女は視線をさまよわせた。
「この辺りって、ネットカフェとか……」
きついアルコールが香る吐息に、俺は思わず顔を逸らした。
「数駅先にはあるけど、終電もう過ぎてる」
「えっと、タクシー呼ぶお金なくて……」
彼女のまるい瞳を見つめ、俺はため息をつく。
「やっぱり警察に保護してもらった方がいいんじゃない?」
俺の言葉に彼女は深くうなだれ、濡れて体に纏わりついたワンピースの裾を両手で握りしめた。
「警察には行きたくない……」
小さな拳が白くなるほど力を込められているのを見て俺が口をつぐんでいると、彼女はぱっと顔をあげ、へらりと口元を緩めた。
「あの、シャワーだけでも貸してくれない……?」
嫌だ。とっさに拒絶の言葉を吐きそうになり、深く息をつく。ずぶ濡れの女性を深夜の海に放置するのは危険だろう。
「シャワーだけだからな」
俺の言葉に、彼女の目が柔和な弧をえがいた。
「ありがとう。私、矢代葉月。葉月でいいよ」
彼女のあかるい笑みから視線を逸らし、俺はぶっきらぼうに声を吐く。
「……瀬川壮馬」
「よろしくね、壮馬くん」
手を差しだす彼女を無視し、俺は歩きだした。「壮馬くん」と俺を呼ぶ高い声に、喚起される記憶があった。懐かしいと振り返るには、膿んで熱をもちすぎている思い出。
「え、なんか遠くない?」
街灯をたよりに夜道を歩いていると、後方から声が飛んだ。振り向かないまま、俺は答える。
「酒くさいから、近寄らないでくれ」
「ごめん……」
葉月は弱々しく謝り、やがて押し黙った。厚い雲が夜空を覆い、速い風に押し流されている。二人の足音にざわめく街路樹の葉擦れと、空気中に濃密にみちた潮の香りが絡みついて、嵐の気配に溶けていった。
エレベーターで四階まで上がると、アパートの壁に打ちつける風の音が低くひびいていた。突き当りまで歩き、ドアに鍵を差し込む。開錠の音と同時に、背後からうめき声が聞こえた。
「壮馬くん、吐きそう……」
振り返ると、葉月が真っ青な顔で口を押さえていた。
「は? とりあえず中入って」
上がり框に座り込んだ葉月にゴミ箱を抱えさせると、すぐにえずく音と饐えたアルコールの匂いが広がった。
背中を丸めた葉月を横目に、風呂場へ行って湯をためる。玄関から浴室までの道のりにバスタオルを敷き、ようやく落ち着いた葉月に着替えを差しだした。
「彼女の?」
女性用の着替えを見おろし首をかしげる彼女に、「元彼女の」と答えると、「ふうん」と葉月は小さく唇を尖らせた。
俺が玄関や廊下に散らばった砂を片付けているうちに、葉月は入浴を終え俺が渡したスウェットを着て出てきた。心もとない足取りで彼女はダイニングに向かい、カーペットの上に座り込む。
喉が渇いただろうと俺が水を用意して近づくと、葉月が近くのローテーブルに手を伸ばすのが見えた。
「手紙?」
彼女の指先が白い封筒を摘まみあげる光景に、脳裏で火花が散った。
花。理性がゆるむときは、決まって色とりどりの花が咲く。殴られたとき、殴るとき、脳内で極彩色の花が弾けるのを、幾度ただ無力に眺めただろう。
俺はすんでのところで衝動を躱し、葉月から封筒を奪った。
「勝手にさわるな」
体が揺れ、グラスから水が零れカーペットが濡れる。きょとんとした顔で、葉月が俺を見あげた。
「大切なものなら、どうして出しっぱなしにしてるの?」
俺は唇をふるわせた。
手封筒に収められた薄い便箋の感触に、神経が逆立つ。どうして、だって? 簡単なことだ。ふれることすらできなかったからだ。
半年前まで同棲していた元恋人が、家を去るときに残していった手紙。中身を読むことはおろか、さわることさえできずに、彼女が机に置いていったそのときのままになっていた。
「俺の家でどうしようと、俺の勝手だろ」
うなるように言えば、葉月はぼんやり「そりゃそうか」と瞬きをおとした。
俺はグラスをテーブルに置き、しっかりと手紙を握りしめて寝室へ入る。ベッドサイドチェストの引き出しに突っ込むと、クローゼットから毛布を取りだし、ダイニングで水を飲んでいる葉月の背中に投げつけた。
「何?」
グラスを両手で持ちながら、葉月が振りかえる。
俺は苛立ちを抑え、ソファを指さした。
「そこで寝ろ」
ほがらかに葉月が笑う。
「泊めてくれるの?」
彼女の言葉を無視し、俺は浴室へ向かった。自分にさえも踏み入ることを許さなかった聖域を、土足で踏みにじられた嫌悪感が苦く滲んだ。
風呂から上がると、風雨が窓を揺らすけたたましい音が鼓膜をつき、思わず体をこわばらせる。
葉月は毛布をかぶり、ソファのうえで小さくなっていた。盛りあがった毛布を複雑な思いで見つめ、俺はため息をついた。本当に、厄介な拾いものをしてしまった。
暗い寝室の扉をあけると、窓に白く閃光がはしり、数秒後に雷鳴がとどろいた。反射的にこめかみを押さえる。まただ。脳裏に鮮烈な花が咲く。
雷は嫌いだった。爆音を聞くと、子どものとき散々父親から殴られたのを思い出すからだ。
酒に酔うと父は豹変し、家族を殴った。固い拳に殴られるとき、美しい花を幻視した。衝撃は痛みや屈辱だけではなく、ある種の恍惚を生んだ。おかげで父から殴られ続けた兄は俺を殴るようになり、いつしか俺も殴り返すようになった。
三年付き合い、同棲までした彼女と別れることになったのも、俺の暴力が原因だった。
再び雷鳴が耳をつんざく。俺は艶やかな幻影を振り払い、ベッドにもぐりこんだ。毛布を頭からかぶっても、空の叫びを遮ることはできなかった。俺は震えながら、逃げるように睡魔に身をゆだねた。