9 ブラッドフォードの豹変
ティナ先生は戸口を出たところで振り返り、小屋の中に声をかけた。
「あと少しの辛抱よ。大丈夫。ここまできたんですもの、成功したようなものよ」
先生を見送るように姿を現したのは、アイベルンだった。
「いえ、まだ。世間に認めてもらえるかどうかが大事です。認めてもらえるまで努力を重ねるしかありませんが」
「焦らないの。ここまで、五年以上も掛けたんだから。卒業式が済んだら、一区切りつけて、きちんと公表すべきよ。そのための準備は、今から進めていないと。じゃあ、私はもう行くわね」
たしなめるようにティナ先生は言って、親し気にアイベルンの肩を叩くと、軽く手をふって踵を返し、歩き始めた。
ウルリカは凍りついたように、その様子を見つめていた。
(アイベルンは、やっぱり、ティナ先生とのことを認めてもらえるか心配してるんだ……! 五年もって、そんな前から、ちゃんとしたお付き合いだったのかな)
だとすれば、学園に来てから、ウルリカとあまり話してくれなかったのも納得が行く。そして、十歳ほども年上の女性との縁談であれば、いくらお相手が素敵な人柄のティナ先生であっても、認めてもらえるかどうかアイベルンが不安がるのも理解できる。
ティナ先生は、三人が隠れているのには全く気付かない様子で、藪の前を踊るような軽やかな足取りで通り過ぎた。ふわりと動く空気に、あの独特の甘い香りが漂った。
ティナ先生が十分離れて、その姿が見えなくなってから、半泣きでウルリカは呟いた。
「これよ。この、甘い香り。やっぱりティナ先生のものだったんだ」
その時、ウルリカの目を引くものがあった。
ティナ先生が歩いて行った後に、はらりと落ちていた、ノートくらいの大きさの紙片だった。何かを言いかけていたスフィリアに構わず、ウルリカは足音を忍ばせつつ、小走りで紙片に駆け寄った。
「アイベルンの字!」
細かい字で、表裏にびっしりと何かが書いてある。
とっさにウルリカは辺りを見回した。少し先に、もう一枚、似たような紙が落ちていた。
(これを他の人に拾われちゃったら大変だわ)
ティナ先生が落とした、アイベルンの筆跡の書面だ。もし、恋文のようなものであれば、とんでもないスキャンダルに巻き込まれてしまう。
アイベルンが学園を卒業した後に関係が発覚するのであれば、事実がどうであれ、『在学時はプラトニックな片想いでした、卒業後からのお付き合いです』と言い張ることで、ロマンチックな恋物語として応援してくれる人達も現れるだろう。けれど、在籍中はまずい。ティナ先生も失職してしまうかもしれない。
(あと少し、って言ってたのはきっとそのことなのね)
ウルリカは走った。あの落ちている紙。絶対に、あれを逃してはいけない。
呼吸が苦しくて、頬が熱い。
「先輩!?」
急に走り出したウルリカに、驚いたようなブラッドフォードの声が聞こえたが、ウルリカは気にも留めなかった。
紙に向かって手を伸ばした瞬間、一陣のつむじ風がウルリカの指先を吹き抜けた。
「だめえー!」
ウルリカはとっさに悲鳴を上げていた。紙が、つむじ風に巻き上げられてふわりと宙に舞い上がる。ウルリカは、逃げる紙片を追って遊歩道から外れ、木立ちの中を走った。小枝が頬や手足をひっかくが、気にしている暇はない。
紙は誘うようにウルリカの前を飛んだり、転がったりしていく。ウルリカは見失うまいと走る足を緩めなかった。あの紙には、大事な人の一生の幸せが掛かっているかもしれないのだ。
やがて、風に巻き上げられた紙は、あおられて一直線に飛んでいき、立ち木の枝に引っかかった。
ウルリカはぱっとその木を観察した。低いところから枝分かれした、粘り強そうな幹の木だった。紙の引っかかった位置は、ウルリカの目の高さの二倍ほど。はためくそれは、次の瞬間にも、またどこかに飛ばされて行ってしまいそうに思えた。
(あれを逃がすわけにはいかない。アイベルンほどじゃないけど、私だって南部の山育ちなのよ。やれるわ)
ウルリカはその木に飛びつくと、一心不乱に登り始めた。
学園に入学してからは、帰省した時でも、散歩を楽しむ程度で木登りまではしなかった。勘が鈍っているかと思ったけれど、ウルリカの手足は木に登る感覚を忘れていなかった。あっという間に目的の紙片までたどり着き、今にも枝を離れかけていたそれを捕まえてぎゅっと握りしめる。
(よかった……!)
ほっとして、木から下りようと足元を見た瞬間だった。
ウルリカはくらりとめまいを起こしそうになって、慌てて太い枝にしがみついた。
思った以上に高い。
(こんなところまでどうやって登ってきたんだっけ……!)
「先輩」
木の下に駆け寄ってきたのはブラッドフォードだった。慌てて追いかけてきたのだろうか。
だが、ブラッドフォードが小声で彼女に呼びかけたのは、ひどく不可解な内容だった。
「いいですか、その紙、ポケットにしまって。これから僕が何を言っても、『いいえ』か、『嫌』と答えてください。僕がいいと言うまで。他の人には、思った通りに返事をしてくださいね。必ず安全に助かりますし、すべて上手く納めて見せますから」
半べそをかきながら、ウルリカがうなずくと、ブラッドフォードににらまれた。
(あ、これはつまり)
「いや、よ……」
彼女の恐る恐るの声に、ブラッドフォードが小さくうなずく。それが何なのかはわからないけれど、もう始まっているのだ。
次の瞬間、ブラッドフォードを包む気配が変わった。苛立ったような、怒ったような声を張り上げて言う。わざと周囲に聞かせるような、よく通る声だった。
「ウルリカ先輩! 僕の話くらい、聞いてください!」
「いやよ!」
「ヒマリ先輩のことなんて、もういいじゃないですか」
「いいえ!」
何が何だか分からない。でも、アイベルンの秘密を知ってしまった今、それはウルリカの口から一番たやすく滑り出てくる言葉だった。
(応援したいなんて、きれいごとだった。私、アイベルンが他の人を好きなの、いやだ……)
頬を涙が伝っているのがわかる。自分がどれだけ混乱した状態で木に登ってしまったのかを理解して、ウルリカは胃のあたりが冷たくなるのを感じた。
走ってくるときに小枝に引っ掛けた切り傷や、夢中で木を登るときにこすれてできた擦り傷が、今になって、ひりひり、じくじくと痛み始めていた。
「ウルリカ! おい、ライオネル。何してるんだ」
その直後、ブラッドフォードの後ろから追いついてきたのは、アイベルンだった。ブラッドフォードの二の腕をぐっと掴む。
「何って、話です。ヒマリ先輩には関係ないです」
アイベルンの腕を振り払うと、冷たく突き放すように、ブラッドフォードは言った。
「ウルリカはケガしてるじゃないか。あんなところに怯えて登るような、怖がらせる真似をしたんじゃないだろうな。いや、そんなことはいい。どけ」
アイベルンはブラッドフォードを押しのけるように木に近寄ると、あっという間にウルリカの隣まで登ってきた。
「無茶するんじゃない」
叱る声が優しい。その一言に、ウルリカのこらえていた感情の堰が崩壊した。
「あ、アイベ……アイベルンっ」
泣きじゃくってしまって、まともに言葉が紡げない。
「ちゃんとつかまってろ、下ろしてやるから」
片腕でウルリカをがっしりと抱きとると、アイベルンはまったく危なげなく、するすると木を下りて、ウルリカを地面にそっと下ろした。
そのまま、ウルリカを背中に隠すようにして彼はブラッドフォードに向き直った。
「ウルリカは、生徒会活動でずっと一緒だったお前のことを信頼していたんじゃないのか。なのに、なんでこんなことをするんだ。悲鳴が聞こえて慌てて出てきてみれば、無理に追いかけて、こんな危険な目に遭わせて」
「こういうときだけ、出てきていい恰好するんですね。先輩があんまりほったらかすから、ウルリカ先輩、すごく不安そうでしたよ。だから、僕の気持ちくらい聞いてくださいって言おうとしただけです。別に怖がらせようと思ったわけじゃありません。勝手にウルリカ先輩が走ったんです」
その挑発するような口調に、アイベルンを包む空気もまた、更に剣呑さを増した。
(いやいやいや。そんな話じゃなかったよね、ブラッドフォード)
当惑して、ウルリカは周囲を見回した。訳の分からない急展開に、涙もひっこんでしまう。
スフィリアはどこなのだろう。スフィリアの前で、ブラッドフォードがこんな変なことを言うなんて信じられない。
(これじゃまるで、ブラッドフォードがずっと私に片想いしていたみたいな言い方じゃない)
断じてそんな事実はない。そのことは、ブラッドフォードの秘密の想い人に気が付いているウルリカにしか分からないのだけれど。
だが、頼みの綱の親友は、ついさっきまで一緒にいたはずなのに、今は影も形も見えなかった。
「勝手にだと。彼女を侮辱するのも大概にしろ。ウルリカ・ジャムナパリに手を出そうというなら、この俺が相手だ。正々堂々と勝負しろ」