5 ブラッドフォード
どん底まで落ち込んだ顔で寮の部屋に戻ったウルリカを、スフィリアはずいぶん心配していたようだけれど、ウルリカは親友にも状況を何と説明していいかわからなかった。言葉少なに、あまり気分がよくないことだけを伝え、シャワーを浴びて、夕食もとらずにベッドに入ってしまった。
なかなか寝付けなかったはずなのに、浅い眠りの後、ウルリカはいつになく早く目が醒めた。夜が明けたばかりの部屋はまだ薄暗く、隣のベッドではスフィリアがぐっすり眠っている。起こさないようにそっと起き出すと、テーブルの上には、寮の食堂のナプキンに包んだ菓子パンと水のコップが置いてあった。
(持つべきものは友だち、か)
スフィリアの心遣いに感謝しつつ、ウルリカは水を飲み干すと、菓子パンを持ってこっそり寝室を抜け出した。まだ、親友に面と向かい合う心の準備ができているとは思えなかった。だから、着替えて、早めに登校してしまおうと思ったのだ。先日の生徒会のミーティングの議事録を仕上げていなかったので、その作業をしに行く、と言えば、校門も通してもらえるだろう。
(夕方には、ちゃんとスフィリアにも話をしよう)
生徒会室に行くと、そこには思いがけない先客がいた。四年生の会計担当役員、ブラッドフォード・ライオネルだ。
「あれ、ウルリカ先輩。早いんですね」
首を傾げて微笑む姿は、絵姿のように整っている。一学年下の彼は、さらさらの金色の髪を少し長めに切り揃えた繊細で中性的な容姿に、申し分ない高貴な家柄で、入学以来、学園中の女子の話題をかっさらっている、生まれながらの貴公子だ。先々代の王弟殿下の流れを汲む名門にして、王国軍の要人を何人も輩出しているライオン獣人の一門、ライオネル公爵家の嫡男である。さらに本人も、頭脳明晰にして運動も芸術も堪能、マナーも完璧にエレガント。普通の女子だったら気が引けてしまいそうな相手だが、ウルリカとは不思議に馬が合う後輩である。
ウルリカはほっと肩の力を抜いた。
「なんだ、ブラッドフォードか。誰かと思った。あんたこそ、こんなに早くから何してるの?」
ウルリカにとっては、アイベルン以外の男子はジャガイモに目鼻がついているのと同じように見える。誰がどんな見た目でも、どんな実家持ちでも、大して違いはない。友だちとして気やすく会話ができるかどうかが判断基準の全てである。学園内では、爵位や収入といった実家の格で生徒を区別するのは厳しく禁じられていた。なので、学園の外に出てしまえば、完全に雲の上の人となってしまうはずのブラッドフォードも、ここにいる間はただの「後輩」というわけだ。
そんなつもりで遠慮なく接していたところ、玉の輿狙いの女子にうるさく騒がれるのに辟易していたらしいブラッドフォードに、すっかり姉御分として懐かれてしまったのである。ウルリカも、家格こそ男爵家と決して高くないものの、堅実な領地経営で知られるジャムナパリ家の跡取り娘として、婿入り先を探している貧乏貴族の二男、三男から、上から目線で品のない誘いの声を掛けられることがないわけでもなかったので、ある意味、共通の悩みを抱えていたともいえる。
(まあ、しつこくしてくる人はいなかったから、私の場合この子ほど困ってもいないけれど)
ブラッドフォードは目の前の帳簿類を示して、肩をすくめた。
「あと三か月ほどで年度末なので、部活動の予算執行状況を確認していたんです。六年生の卒業パーティで、部ごとに余興や屋台を出して予算を使い切ってもらう予定なので」
「部活動か。そのことなんだけど」
ウルリカは、ブラッドフォードの正面の椅子に腰掛けると、身を乗り出して声をひそめた。
「調べてもらいたいことがあるの。裏庭の魔女の小屋って、今、誰が管理しているの? スフィリアが園芸部の作業小屋だったはずだ、って言ってたけど、園芸部はいつまでそこを使っていたのかな、って、気になって」
ウルリカが、布団をかぶって何度も涙ぐみながら、昨夜必死に考えて出した結論がこれだった。
(アイベルンが教えてくれないなら、私から突き止めよう。アイベルンが今何をしていて、これからどうしたいのか。他の夢でも、もしかして他の女の人でも、それがアイベルンの望みなら、これまで幼なじみとして優しくしてくれたことにお礼を言って、全力で応援しよう)
何より、ウルリカが心配していたのは、アイベルンのあのやましそうな、こそこそした態度だった。
もしも違法なことや、根拠のないオカルト的な思想にはまり込んでしまっているなら、ちゃんと止めないといけない。でも、そのどちらも、ウルリカの知っているアイベルンの性格とはあまりにそぐわない想像に思えた。
それよりは、他に好きな人ができた、と考えた方がまだしっくりくる。多くの女子から騒がれるタイプではないけれど、彼の魅力はウルリカが一番よく知っているのだから。もしもそのお相手が禁じられた女性でも、お互いに心から思い合っているのなら、道は必ずどこかにあるはずだ。お相手のためにも、祝福される縁組になるよう努力するべきだ。
アイベルンはいつも真面目で優しくて、でも誇り高くて強い人だった。そんな彼が、正々堂々と胸を張って学園を卒業していけるように、ウルリカは協力したかったのだ。