4 アイベルン
次の瞬間、ぐいっと二の腕を引かれて、彼女の身体が宙に泳いだ。
花の匂いと入れ替わりに、懐かしい、ひだまりの干し草のような匂いとぬくもりが押し寄せてくる。
「アイベルン!」
気が付くと、ウルリカは幼なじみの上級生の胸元にぐっと抱き寄せられていた。腕をつかんでいるのと反対の左手で、慌てたように、アイベルンはウルリカの頬を包んで、口元に指を近づけた。
「今の、食べてないか」
「え?」
何を言われたのか見当もつかず、ウルリカがきょとんとして聞き返すと、アイベルンは眉間にしわを寄せた。
「今の花。白いの。食べてないだろうな」
「……ああ! 食べないよ、やだなあ。素敵な香りがしたから、かいでただけ」
「よかった」
あからさまにほっとした顔になって、アイベルンは腕の力を緩めた。
「何よ、アイベルンってば。私のこと、どれだけ食い意地が張ってると思ってるの?」
呆れてウルリカが頬をふくらませると、彼は憮然とした顔になった。
「だって小さい頃、散々、花の蜜を探して遊び回ってただろ」
「そう言えば、そんなこともあったね」
思い出して、ウルリカは思わず笑ってしまった。
子どもの頃、春真っ盛りになるとよくやった遊びだ。
おいしい蜜がある花を見つけると、摘んで、花の根元を吸うのだ。甘いもの好きのウルリカは、一つの花にわずかしか溜まらない蜜では物足らず、花弁まですっかり食べてしまうこともあって、食いしん坊だとよくアイベルンに笑われていた。
ウルリカの笑顔につられたのか、それまで険しい表情だったアイベルンの目元も少しゆるんだ。
「どうして、ここにいるのが分かったの?」
「帰ろうとして、四階の教室に忘れたものを思い出したから取りに上がったんだ。そしたら、窓から脇道にそれるウルリカが見えたから。こんな暗くなる時間に、変な方に向かっていって迷子になったり危ない目にあったりしたらまずいなと思って」
「いや、いくら何でも学園の敷地内で迷子にはならないでしょ」
「それはどうかな。ウルリカは迷子になる天才でもあったからなあ」
「もう!」
確かにウルリカは、アイベルンの家に遊びに行ったときには、慣れない地形に戸惑ってよく方向を見失っていた。その度に、あっという間に見つけ出してくれたり、道を間違える前に手を引いてくれたりしたのもアイベルンなのだ。
(こんなに近くでアイベルンを見るの、久しぶりかも)
ウルリカは、思わずまじまじと観察してしまった。切れ長の黒い瞳や、さらりと長い黒髪、力強い骨格や精悍な浅黒い肌は、少し大人びてたくましくなった気がする。でも、頬のあたりがやせて、顔だちの彫りが深くなったように見えた。
「アイベルン、ちゃんとご飯食べたり睡眠時間とったりしてる? 冬越しの祭りの休暇に帰らなかったでしょう。アイベルンのお父様もお母様も、心配していらしたわ」
ウルリカの言葉に戸惑ったように、アイベルンは握りこぶしで頬の辺りをこすった。
「ああ、いや。大丈夫」
彼はふいと目をそらすと、ウルリカを離し、先ほどの白い花に歩み寄った。
「これ、地元にはなかっただろ。よく蜜を吸った蘭の花に形は少し似てるけど、種類が全然違う」
「そう言えば、ちょっと似てるね。蘭よりは花弁が薄いかなあ。繊細でかわいい」
「見た目はな。だけどこいつは、花にも葉にも毒があるんだ」
「え、そうなの? あんなにいい香りなのに」
「知らずに食べると、かなりつらい思いをするはずだから、慌てた。手荒になってごめん」
(心配してくれてたんだ)
じんわりと胸に温かいものがひろがって、ウルリカはこくんとうなずいた。
「まさか、もういい大人になって、野原の草をめったやたらには口にしないと思ったけれど、ウルリカは食いしん坊だから」
「ええー! やっぱりひどい!」
からかうような笑みを浮かべた軽口に、ウルリカが抗議すると、アイベルンは白い花を一輪手折ってウルリカに差し出した。
「これ、驚かせたお詫びに」
「え、だって、野のお花なのに、いいの? 折ったら実がならなくなっちゃう」
「昔は散々食べてたやつがよく言うよなあ」
くすっと笑ったアイベルンは、最近のぎくしゃくした雰囲気が嘘のように、まるで昔のままだった。
「これはいいんだ。花がついても、ほとんど種にはならない。主に球根で増える植物なんだよ。全部摘んでしまったわけでもないし、毒も、花瓶に活けて香りを楽しむ程度なら無害だ」
ウルリカは、受け取った白い花をじっと見つめた。アイベルンから何かをもらうのも、こんな風に気やすく話すのも、学園に入学して以来、初めてかもしれない。
「これ、なんていう名前?」
「水仙。水の精霊っていう意味だ。湿った土地や水辺を好む。柳もそうだから、このあたりは地下の水脈が地表に近いのかもな」
アイベルンは辺りを見渡した。その横顔は、懐かしい幼なじみのそれでもあり、まるで知らない人のようでもあった。以前のアイベルンは、体術をもっと極めて、一足早く軍に入隊した二人の兄上に追いつくことばかり考えていたような気がする。こんな風に、自然について穏やかに語るところは、故郷ではあまり見たことがなかった。
「ずいぶん、植物に詳しくなったんだね」
複雑な思いを持て余しつつ、ウルリカが言うと、アイベルンははっとしたように彼女を振り返った。
「……もう、ずいぶん遅いな。寮まで送っていく」
そう言ってアイベルンがウルリカに、エスコートの右手を差し伸べた時だった。
アイベルンの袖口から、ふわり、と、花の匂いとは全く違う甘い香りが立ち上った。
ウルリカは目を見開いて、アイベルンの顔を見上げた。
(これ。この匂い、何だろう)
アイベルンが身にまといそうもない、砂糖菓子のような強い芳香だった。
例えて言うなら、女性向けの香水のような。
何の香りか聞けばいい。ごく当たり前の質問だ。理性ではそう分かっているのに、ウルリカの口は凍りついたように動かなかった。
聞けば、この、何の悩みもなく一緒に過ごすのが当たり前だった幼い日々がそのままよみがえってきたような、魔法の時間が終わってしまうかもしれない。
(アイベルンは、何か他に叶えたい夢があるとか、親が決めた将来じゃない何かを自力で探したいのかもしれない、って思っていた。でも、そうじゃないのかも。親に言われた相手じゃなくて、本当に好きな人が、幸せにしてあげたい人が、見つかっちゃったのかもしれない)
寮までの道のり、アイベルンの半歩後ろを、ウルリカは黙って歩いた。聞きたいこと、聞かなければいけないことはいくらでもあるのに、言葉は一向に、うまく形にまとまらなかった。学園からの並木道は永遠に続いているようにも、一瞬で過ぎ去ってしまったようにも思えた。
「花を活けたら、手をちゃんと洗うんだぞ」
女子寮の玄関の前で、アイベルンはそう言ってウルリカの頭をぽんぽんと軽く撫でると、帰ろうとした。
(ダメだ。これじゃ何も聞けないまま、振り出しに戻っちゃうよ)
「あの、待って」
ウルリカは渾身の勇気を振り絞って、とっさにアイベルンの袖をつかんだ。
「この袖、いい匂いがする。これ、何?」
不思議そうに、ウルリカが示した箇所を自分の顔に近づけたアイベルンの顔色が変わった。
「……これは」
気まずそうに目をそらす。
隠し事をしているときのアイベルンのくせだ。
「何で? 言えないようなことなの? ねえ。『魔女の小屋』で、何をしているの?」
(ウルリカの意気地なし。たった今、本当に聞きたいのは、何をしてるか、じゃない。誰と会っているの、なのに……)
ウルリカはこぼれそうな涙をこらえつつ、目を合わせてくれないアイベルンを見つめた。
『魔女の小屋』という言葉にはっとしたように、アイベルンの肩が小さく揺れた。ウルリカでなければ気が付かなかったかもしれない、かすかな動きだった。
「……ごめん。今はまだ。時期が来たら必ず説明するから」
ウルリカの返事も聞かず、アイベルンは踵を返すと、あっという間に走り去ってしまった。