12 魔女の秘薬
「俺が入学直後に加入したのがこの園芸部だった。俺の目的は単純に、植物栽培について知識と経験を積むことだったんだが、先輩方に、垂直な壁を登る技術を見込まれて、この七不思議の調査にも関わることになったんだ」
アイベルンは、ブラッドフォードが差し出した冊子を受け取ると、懐かしそうに目を細めてその表紙を見つめた。
「今では想像もできないことだけれど、学園の黎明期には探検部の活動が盛んで、外国遠征も何度も行われていたそうだ。その時の植物標本で、正確に記録に残されていないものがあるようだ、という話は、学園関係者にはよく知られていてね。それと七不思議が関係していると推測した先輩方が、本格的に調査を始めたのが、園芸部の七不思議調査班の由来だ。俺が入学した当時、七つ目の不思議は人を言いなりに動かせるような途方もない効き目のある秘薬らしいという噂が過熱していて、学園側は対応に苦慮していた。論理だった説明をできるならと調査班には多少の追加予算も付けてもらえたらしい」
「問題の遠征先はどこだったんですか」
ブラッドフォードの質問に、アイベルンは軽くうなずいた。
「南の山岳国境を越えた隣国を挟んでさらに先、島国のラティーノだよ。政治状況が変わって、今では国交が断絶しているけれど、当時は学生の探査旅行が許可されるほど関係がよかったんだ。知っての通り、あの国ではコーヒーやバナナの栽培が盛んだ。だが、探検部が持ち帰ったのは、そういった植物ではなかった。もっと商品価値の高い植物だったんだ。七不思議調査班が学園内でそいつを再発見するまでの色々の顛末は興味がないだろうから省くが、その植物がこれだ」
アイベルンが示したのは、ガラスの箱の中に入った鉢植えだった。
「見てもいい?」
「ガラス越しなら構わない。この中の気温と湿度を、魔導装置で調節しているんだ」
ウルリカは立ち上がって箱に近寄った。葉脈が平行に走る、つやつやした葉。節くれだって、奇妙に曲がりくねる茎。そして、茂る葉の陰に咲いている淡い緑色の花。
それは、ウルリカの手の中にあるものと同じだった。アイベルンが摘んできてくれた、空中庭園の蘭だ。ただし、ガラスの中の花の方が一回り大きい。
「蘭は、本来この地域では冬を越せない。だが、あの場所は、辛うじてこの植物が枯死しないだけの温度と湿度を冬の間中、提供してくれる場所だった。ひときわ寒さに強い、幸運な個体だけが生き延びたんだろう。だがそれも、花を咲かせるのが精一杯で、結実まではできなかった。細々とあの場所で、枝から根を出してレンガの壁にしがみつきながら生き延びていたんだ」
アイベルンは、ガラス越しに蘭を指し示した。
「ここにある鉢植えは、すべて、探検部が数十年前に持ち帰った株の枝そのものが成長した姿なんだよ。煙突の半ばから枝を採取してきて、水苔に挿して発根させ、育てたものだ」
「でも、先輩。さっき、商品価値とおっしゃいましたよね。この花はとてもきれいですけれど、社交界のマダムたちがもてはやすような、大輪の華やかな蘭に比べると、ずいぶん、その、色も香りも」
地味、と言いかけて、スフィリアはすんでのところで言葉を呑みこんだようだった。学内で『氷の短剣』と称されるほど切れ味鋭い物言いの彼女にも、わずかばかりの遠慮は残っていたらしい。
「ああ、そうだ。これは花を愛でるために品種改良された種類とは違う」
途切れた言葉の先を察してアイベルンはうなずいた。
「この花の真の価値は、実を結ばせた先に見出されるものなんだ」
彼は、ガラスの箱から離れて、金属の貯蔵庫のようなものからガラスの入れ物を二つ取り出した。平たい皿状で、蓋がきちんとしまっている。差し出されたその中身を見て、ウルリカは思わず小さく悲鳴をあげた。
大切そうに保管されたそれは、黒く干からびてよじれ上がった生き物の身体の一部のような細いものと、黒い砂か泥のような細かい粒が固まったような何かだったのだ。
「魔女の薬の材料って、これ? トカゲの尻尾とコウモリのフン?!」
アイベルンは一瞬、呆気にとられたような顔でウルリカを見返した。
「いや、魔女はただの噂だ。ここは園芸部の作業小屋だから、そういう面妖なものはない」
諭されるように言われて、ウルリカの頬はかっと熱くなった。
(うう。だって、釜もあったし、ほんのちょっとは、怪しい黒魔術みたいなのにアイベルンが夢中になってるんじゃないかって心配もしてたし……)
「開けてみて」
アイベルンは、ウルリカとスフィリアに一つずつガラスの器を差し出した。びくびくしているウルリカには、ねっとり固まった砂粒のようなものがほんの少し入った方、好奇心に目を輝かせているスフィリアには、干からびてよじれ上がった黒っぽいものが数本入った方だ。
二人がそっと蓋を開けると、室内に漂っていた甘い芳香がぐっと強まった。
「わあ、本当にバニラだ。香料そのものの姿は初めて見ました。素の状態では、こんなに香りが強いんですね」
二人の後ろから覗き込んだブラッドフォードが言う。少しだけ悔しそうにアイベルンは腕を組んだ。
「やはり、君の予想は的中していたわけか」
「はい。家庭教師から、学園の授業では不足している、現在の近隣国の産業や社会情勢についてのレクチャーを受けているんです。その時に、バニラという植物の特徴や香料の製法について概略を聞いたことがありました。香りも、蒸留酒に浸して抽出したものを少しだけ嗅いだことがあったので、ウルリカ先輩の話で、これは、と」
「バニラ?」
聞いたことのない名前に、ウルリカが首を傾げると、背後でティナ先生が呆れたように苦笑するのが聞こえた。
「ヒマリ君、やっぱりあなた、プレゼンはもうちょっと練習した方がいいわ。……説明するわね」
振り返ったウルリカとスフィリアに、ティナ先生は微笑みかけた。
「バニラというのは、この蘭の名前でもあり、この香料の名前でもあるの。この蘭の花が受粉に成功すると、細長い鞘状の実がなるのよ。それを、枝に実らせたまま十分熟させてから収穫して、直後にその大釜でさっと蒸しあげてから、乾燥させながら数か月かけて熟成させたものが、あなたたちが今手に持っている香料のバニラなの」
「あ、それって、お茶を作る手順とよく似てますね」
ウルリカが目を輝かせると、ティナ先生はうなずいた。
「ジャムナパリさんのご実家は茶園だったわよね。そうよ。茶も、旬の時期に摘み取った若葉に短時間熱を加えて、しんなりさせてから手でもんで撚り上げ、乾燥させてから、熟成させるわね。大まかな手順はそっくり」
ウルリカはこくこくとうなずいた。ウルリカにとっては幼い頃から遊び場のように出入りしていた工房で、毎年繰り返される営みだ。
(ティナ先生、お茶にも詳しいなんて、さすが食品研究部の顧問だわ)
「ジャムナパリさんなら分かるでしょう。口で言うのは簡単でも、どの作業工程にも熟練の職人技が必要よね。その上、この蘭は、気温と湿度の条件が整わなければ栽培すらできないし、実を結ばせるのにも特別な配慮が必要なの。だから、この香料は黄金よりも高価なものなのよ」
「それが、ヒマリ先輩の言っていた商品価値ということなんですね」
スフィリアが、納得顔でうなずく。
「そうよ。特にこの香料は、香水や石鹸だけじゃなくて、食品にも安全に使えるのが素晴らしいところなの! 今では国交が途絶えたうえにラティーノの内政が混乱しているせいで、輸入どころか現地での生産も細々としか行われていないらしくて、わが国にはまったく入荷が見込めないんだけど、昔のラティーノ産のバニラを使ったクッキーやプディングの味ときたらもう!」
ティナ先生の瞳はうっとりと遠くを見るように細められた。
「ごく幼い頃に口にしたのが最後なのに、今でも夢に見るほどよ。あなたたちにも、今すぐ食べさせてあげられたらこの感動が伝わるのに! 七不思議の噂にあるような、人の精神に影響を及ぼす作用はもちろんないけれど、あまりにおいしい香りだから、この香料が手に入るなら何でも言うことを聞く、なんて熱狂的なファンが現れてもおかしくないと思うわ。でも今この国では、この香料の存在すら知らない人が多いの。このままこの文化が失われるのはあまりに大きな損失と言わざるを得ないわ! だから、バニラ香料の生産を完全国内化できる可能性を秘めたこの研究には、ものすごく価値があるのよ」
もはや、ティナ先生はアイベルンのほうに視線すら送らず、ウルリカたち三人に向かってこぶしを固め、熱弁をふるっていた。食べ物の話になると止まらないあたり、完全にいつも通りのティナ先生である。
(そして、さっきから、アイベルンと先生の間に、色っぽいところは全く一切、爪の先ほども感じられないんだけど。……あれ?)
当惑して、再度振り返ったウルリカに、アイベルンは微笑んでうなずきかけた。
「つまり、これが七不思議の最後の秘密だ。人を言いなりにする邪悪な薬なんかじゃなく、幻の香料が、探検部の持ち帰った宝だったんだ」














