10 ウルリカをめぐる勝負
ウルリカは、自分の目の前に庇うように立ちはだかったアイベルンの背中を、息をのんで見つめていた。
ゆるく結んで背に流した黒い長髪ごしに見える、浅黒い皮膚の色だけは、昔から変わらない。だが、アイベックス獣人に典型的な、骨ばって手足のがっしりした体格は、いつの間にか、すっかり大人のそれに近づいていた。そのたくましい首筋や肩には、ウルリカがこれまで見たことのないような怒りと緊張がみなぎっている。
アイベルンの視線の先で、ブラッドフォードは呆れたように目を細め、肩をすくめた。さらさらの金髪にオリーブ色の瞳、こちらはネコ科特有のほっそりしたしなやかな肢体。あくまで優雅で、よけいな力の抜けた余裕のある風情も、アイベルンとは対照的だ。だがその髪の陰にちらりとのぞく耳はぴんと反って、彼がいざというときには間髪なく行動に移る用意があることを示していた。
「もし勝負しろというなら、負けられませんね。たとえヒマリ先輩が相手でも、手加減できませんよ。本気で言ってます、それ? ここで乱闘騒ぎなんか起こして、卒業直前に停学にでもなれば、困るのは先輩じゃないんですか」
最後の一言と共に、ブラッドフォードの瞳はアイベルンを強く睨みすえた。いつもは穏やかで上品で、荒っぽいこととは無縁の優等生の後輩が、常ならぬ攻撃的な気配を発している。
アイベルンはうなった。
「そんなこと、知るか。ウルリカが傷つけられそうになって黙っていられるか。学位なんかよりもウルリカの名誉のほうが大事に決まってるだろう」
(どうしてこうなっちゃったの……!)
何かを言わなければならない。この二人のバカバカしい争いを止めなくては。
だが、ブラッドフォードの先ほどの不可解な指示とその後の言動も、アイベルンの怒りも、ウルリカの理解を越えていた。一旦は口を開きかけたものの、何と言っていいのか分からず、ウルリカはぱくぱくと無為に唇をうごかした。
しかし、次の瞬間、ぱっと剣呑な殺気をひっこめて微笑んだのはブラッドフォードの方だった。
「分かりました。僕も、ライオネルの名に懸けて、挑戦されて引くわけにはいきませんし、負けるつもりもありません。が、そんなことで前途ある先輩の将来に傷がつくのも本意じゃありません。挑戦してきたのはヒマリ先輩ですから、僕の方から勝負の方法を指定して構いませんよね」
「何でも言え」
アイベルンは短く言い捨てた。肩のあたりの緊張は増している。
「やめて! 決闘なんて、そんなの野蛮だわ。どっちも、私のことなんか一番好きじゃないでしょ。本当に好きな人が他にいるんでしょう。こんなの意味がない!」
「ちょっと待て、ウルリカ。どう言う意味だ」
やっとのことで絞り出したウルリカの叫びに、アイベルンがすごい勢いで振り返った。だが、それを遮ったのはブラッドフォードだった。
「では、勝負はウルリカ先輩に決めてもらいましょう。方法は、ウルリカ先輩に最もふさわしい花を一枝、捧げること。全身全霊をかけて、ウルリカ先輩に差し出せる花です。ああ、ウルリカ先輩。この件に関して先輩に『いやだ』と言う権利はありません。これは男同士の勝負ですから。勝負の女神になっていただきます」
ウルリカに意味ありげな目くばせを送って、ブラッドフォードは腕を組むと、傍らの立ち木に寄り掛かった。獲物の動きを待ち伏せるネコ科獣人特有の、隙のない動きだった。
ここは文字通り、今は『いやだ』と言うな、とウルリカに伝えていると受け取るべきなのだろう。彼の姿勢には、ウルリカにも、アイベルンにも、この場を逃げ出すことを許さないという意志がはっきり見てとれた。
(わけわかんない。これっていったい、何なの?)
当惑するウルリカをよそに、ブラッドフォードは続けた。
「勝負の方法を指定したのは僕ですから、ヒマリ先輩の先攻でどうぞ。ウルリカ先輩が受け取ったら、試合終了で結構です」
オリーブグリーンの鋭い視線は、アイベルンに据えられている。
「ヒマリ先輩の花はもう、決まっているんでしょう? もういい加減、はっきりさせましょうよ。ウルリカ先輩のためにも」
呆気に取られて、ブラッドフォードからアイベルンに視線を移したウルリカは更に呆然とする羽目に陥った。
アイベルンは、先ほどまでの怒りが嘘のように、完全に驚いた顔で後輩を見つめていた。
「ライオネル。君は、何をどこまで知っている?」
さっきまで、お前、と言い捨てていたのに、呼び方まで変わっている。その様子は、先ほどまでの、怒りにかられた見知らぬ人のようではなく、完全に、冷静で穏やかな、ウルリカの知っているアイベルンだった。
「七不思議の全てを。ただ、確信をもって推測しているだけで、当然ながら手にしてはいません。それは、僕のではなく、先輩のライフワークですよね」
ブラッドフォードは謎めいた微笑みを浮かべた。
「では、これは、……まさか、不甲斐ない俺のために?」
「いいえ」
ブラッドフォードは肩をすくめた。
「もちろん、勝負ですよ。ウルリカ先輩を、誰が元気にできるか、です。僕はヒマリ先輩に親切にしてあげるような義理はありません。ですが、ウルリカ先輩にはお世話になっていますからね。ウルリカ先輩がこれ以上景気の悪い顔をしているのは嫌なんです。ヒマリ先輩が自分に隠れてこそこそ何かをやっていると心配し始めてからというもの、すっかりしょげているし、見当違いな思い込みで妙な方向に突っ走るしで、生徒会の仕事にも差し障るので困ります。ほら早く、ヒマリ先輩が花をとってきてください。こんな茶番は終わりにしましょう」
「……そうか。そういうことか。見当違いは俺もだな。失礼なことを言ってすまなかった」
アイベルンはブラッドフォードに小さく頭を下げると、ウルリカに向き直った。
「ウルリカ。何を勘違いしているのかはわからないけれど、俺が心配をかけたんだな? あんなところで立ち往生したのは、俺のせいか」
ウルリカは小さく二度うなずいた。心配したことはまぎれもない事実だし、木に登ったのはアイベルンのためだった。ブラッドフォードは、自分以外の人がした質問にはいつも通り答えていいと言っていた。
(私の勘違い。きっと、アイベルンとの将来を何の疑問も持たずに信じていたことだよね。アイベルンは優しいから、私が無遠慮に甘えていたら、言い出しづらかったよね)
じわっと涙がにじんでくる。
ウルリカを見つめていたアイベルンは、苦しそうに一度ぎゅっと目をつぶった。
「すまなかった」
それから、穏やかな表情に戻って言う。
「見せたい花があるんだ。一緒に来てくれるか」
(お別れの花ってことかな。アイベルンは私に申し訳なかったって、気にしちゃっているのかな)
アイベルンの吹っ切れたような表情に、ウルリカの呼吸はどんどん浅く早くなっていった。
最後の瞬間が来るのが怖い。でも、もう、見届けないわけにはいかなかった。
(もう、アイベルンを自由にしてあげなくてはいけない。わがままで甘えん坊な幼なじみのお兄さん役から、解放してあげなくちゃ)
そんなウルリカの内心を知ってか知らずか、ブラッドフォードが静かに口をはさんだ。
「ウルリカ先輩、もう結構です。僕がさっき言ったことは忘れてください。あとは、お心のままに」
ブラッドフォードは晴れやかに微笑むと、ウルリカに向かって優雅に会釈した。ウルリカには、正直言って、彼が何を考えているのかが一番わからなかった。この生意気な秘密主義の後輩らしく、相変わらず完璧なマナーだった。
「ライオネル、君も来てくれるか。君はさっき、確信をもって推測していると言っていた。その推測が当たっているか、興味があるんじゃないのか」
アイベルンの言葉に、ブラッドフォードは首をすこし傾げた。
「見せていただけるのなら光栄です。でも、僕はここでスフィリア先輩を待たなくてはいけないんです。礼儀知らずにも、さっきお使いを頼んでしまったもので。お二人で先に行ってください。スフィリア先輩と合流できたら、向かいます」
どこへ、とは、二人とも言わなかった。すっかり相互理解ができているらしい。
(もう。二人そろって、何の話をしてるのよ)
完全に蚊帳の外に置かれた格好のウルリカは、首をひねるしかなかった。














