1 アイベルンの隠しごと
「ウルリカ・ジャムナパリに手を出そうというなら、この俺が相手だ。正々堂々と勝負しろ」
ウルリカは、目の前に、自分を庇うように立ちはだかった背中を息をのんで見つめていた。
学園の卒業を間近に控えた、一学年上の幼なじみ、アイベルン・ヒマリ。高山の岩場を跳躍して移動する大型ヤギ・アイベックスの精霊たちの深い加護を受けた、アイベックス獣人である。
ゆるく結んで背に流した黒い長髪ごしに見える、浅黒い皮膚の色だけは、昔から変わらない。だが、アイベックス獣人に典型的な、骨ばって手足のがっしりした体格は、いつの間にか、すっかり大人のそれに近づいていた。三日月のようなカーブを描く角も、以前より数倍、力強く見える。そして今、たくましい首筋や肩には、ウルリカがこれまで見たことのないような緊張がみなぎっている。
それは馴染み深い後ろ姿のようでもあり、全く見知らぬ人のようでもあった。
アイベルンの視線の先で、呆れたように目を細め、肩をすくめたのは、一学年下のライオン獣人、ブラッドフォード・ライオネルだ。さらさらの金髪にオリーブ色の瞳、こちらはネコ科特有の、無駄のない筋肉だけがついた、ほっそりとしなやかな肢体。あくまで優雅で、よけいな力の抜けた風情も、アイベルンとは対照的だった。
「もし勝負しろというなら、負けられませんね。たとえヒマリ先輩が相手でも、手加減できませんよ。本気で言ってます、それ?」
最後の一言と共に、ブラッドフォードの瞳はアイベルンを強く睨みすえた。いつもは穏やかで上品で、荒っぽいこととは無縁の優等生の後輩が、常ならぬ剣呑な気を発している。
(どうしてこうなっちゃったの……!)
何かを言わなければならない。この二人のバカバカしい争いを止めなくては。だが、何と言っていいのか分からず、ウルリカはぱくぱくと無為に唇をうごかした。
◇
それより数週間前のこと。
「この頃、アイベルンに避けられてる気がするんだ」
ウルリカが、一人で散々思い悩んだあげく、女子寮の同室の親友、スフィリア・オストランディアに打ち明けたのは、冬越しの祭りに合わせた学園の休暇が終わる前日だった。
お互いに祭りを過ごした実家から戻ってきた翌日、寮の部屋で、お茶を淹れてから、思い切って、相談があると持ちかけたのだ。
「どうして? ヒマリ先輩がクールなのは、もともとじゃない」
冷静に指摘する友人に、ウルリカはしょんぼりと首を横に振った。長いたれ耳が、ふわふわとそれにつれて動く。
「そうなんだけど。でも、前はもう少し、色々話してくれた気がするんだよね」
ウルリカはヤギ獣人。中でも、南部出身のジャムナパリ一族の特徴は、長いたれ耳と、前頭部にちょこんとのぞく小振りな角、雪のように淡いブロンドに濃い茶色の差し毛が混ざり、ゆるくウェーブしたやわらかい髪である。
アイベルンとウルリカの実家は、南部の雨が多い山岳地帯で、領地の境を接する、いわば貴族としての隣人同士の間柄だった。
先祖伝来すみかとしてきた厳しい高山での辺境警備を任務とし、王宮からの俸禄を主たる収入源にしているアイベックス獣人のヒマリ伯爵家と、茶園経営と貿易を主な生業とし、ヒマリ家にも食料や日用品を納めているヤギ獣人のジャムナパリ男爵家は、ジャムナパリ家がこの地に領土を拝領した百年ほど前からごく親しい関係にあった。温厚で人当たりがよく楽天的なジャムナパリ一族の気風と、厳しく自らを律し、一族や王国を守る任務のためには危険をもいとわないヒマリ一族のそれは対照的だったが、かえって、その違いが良かったのかもしれない。
アイベルンとウルリカも、両親に連れられて幼いころからよく互いの家を訪問しあい、野山で遊び回ってきた仲だ。十二歳を過ぎた貴族の子弟が王国の各地から集められ、六年間の基礎教育を受ける王立学園での寮暮らしも、隣の男子寮にアイベルンが一年早く入学していると思えば、ウルリカにはなんの不安もなかった。
ヒマリ家は、南部山岳地帯の辺境防衛の要となる軍人一家だ。アイベルンの二人の兄たちも学園を卒業した後はそのまま王国軍士官学校へと進学していた。だから自然と、アイベルンも卒業したら兄たちと同じ道へ進むのだろう、それならばアイベルンの方が一年早く卒業しても、同じ王都に暮らしていられる、とウルリカは思っていたのだが。
「なんか、士官学校に進学しないっぽいんだ、アイベルン。知り合いの先輩で士官学校の試験を受けた人が、試験会場に彼がいなかった、って言うのよ。六年生の間でもちょっとした噂になってるみたい」
「あら」
親友も驚いたようだった。東部出身でシカ獣人のスフィリアは、普段あまり感情を表に出さないほうだ。真っすぐの濃い茶色の髪に透き通るような肌、頭脳明晰で凛とした立ち居振る舞いの「氷の生徒会長」として下級生女子から絶大な人気がある。だが、驚いたときにはとがった耳がぴんと立って、黒目がちで切れ長の瞳が大きく見開かれるのですぐわかる。
ふわふわと人当たりが良く、ちゃっかりしたところもあるけれど、こうと決めたら粘り強い性格のウルリカと、クールな見た目や歯に衣着せない物言いに似合わず、からっとした気性で頼られると断れないスフィリアは、一年生で初めて出会って以来、ずっと同室の親友同士だ。
周囲の人望に押し切られる形でスフィリアが生徒会長の任を引き受けたときには、目立つのがとにかく苦手だったウルリカも、親友を支えようと崖から飛び降りんばかりの決意を固めて生徒会書記に立候補し、苦楽を共にしてきた仲でもある。
「じゃあ、どうするの? もう、卒業まであと半年もないじゃない」
「だから、それを聞こうと思ったんだってば。なのに、声をかけたら、アイベルンったらやましいことでもあるみたいな顔をして逃げちゃった」
その時のことを思い出して、ウルリカは思わず涙ぐんだ。学年も違うし、男子寮と女子寮では建物も違う。学園に来てからは、普段から会話する機会は多くなかったし、たまたま見かけたとき、いそいそとウルリカが駆け寄るたびに、アイベルンはいつも少し困ったような、クールな対応をしていた。とはいえ、あんな風に会話の余地もなく避けられたのは初めてだった。
「うーん。ええと、婚約者、なんだよね?」
スフィリアは怪訝そうに尋ねる。
「親たちはすっかりそのつもり。私が一人娘で、アイベルンが三男、年も近いから将来的にはジャムナパリ家を継いでもらえばちょうどいいって。でも父が元気なうちは、家のことは任せて、若い者はやりたいことをやればいいから、なんて言ってたのよ。私も、ずっと小さいころから言われてきて、そうなったらいいなって思ってたけど、実は、アイベルンがどう思ってるかちゃんと聞いたことはないんだ」
「でも、親同士がそれだけ大っぴらに公言してたら、まあ、婚約は既定路線だよね。わざわざ確認しなかったからって、ウルリカが悪いとは思わないけど」
あくまで淡々としたスフィリアの指摘に、ウルリカはうつむいた。
「でも、彼の行動、変なの。士官学校の試験を受けなかったことだけじゃないわ。学校の裏庭の古い小屋、あるでしょう。あそこに、このごろずっと、こそこそ出入りしているみたいなのよ。周りを伺いながら出てきて、鍵を掛ける瞬間を目撃しちゃったの」
「あの、学園七不思議の『魔女の小屋』?」
スフィリアは素っ頓狂な声をあげた。