文学はどうあるべきかーギルガメシュ叙事詩と「すばらしい新世界」を比較して
「『文学の本質』をギルガメシュ叙事詩で考える」というエッセイはこれで終わりです。これから書くのはおまけ部分です。ただ見ようによっては、おまけ部分の方が本体だと考えられるかも知れません。
何を書くかと言うと、ギルガメシュ叙事詩の哲学を、現在の文学に当てはめるとどう考えられるか?という事です。先日、読み返したハクスリー「すばらしい新世界」も念頭に置いて書いていくつもりです。構図的には以下のようになります。
現代ー「すばらしい新世界」 古代ー「ギルガメシュ叙事詩」
さて、ギルガメシュ叙事詩においては、死を悟った人間(的存在)が、不老不死を求めるのが物語の中心に位置していました。それは、人間とは動物と神との中間の生物だという、古代の哲学の捉え方と一致するものがあります。現在も同じ事が言えるでしょうか?
もちろん、現在においても人間には「死」がありますので、同じように見る事はできます。ただ、私は違うように見ます。
現在は、エンターテイメント作品が全盛です。それは、人間の悲劇性を直視するのではなく、悲劇から目を逸らす事を眼目としています。エンタメ作品の終わりではよく、結ばれたカップルがキスするシーンで話は終わります。人間の幸福というのは刹那的ものですが、幸福が成就する瞬間で幕を閉じるのは、その瞬間を永遠に引き延ばしていこうという志向を現しています。幸福を重んじるやり方というのは、刹那に多大な意味を付与していく方向に傾斜していきます。
「すばらしい新世界」というディストピア小説では、その本質が巧みに捉えられています。例えば、こういうセリフがあります。
「"過去と未来は大きらい"」(略)「"一グラムのソーマで現在だけを掴む"」
(「すばらしい新世界」 黒原敏行訳)
ソーマというのは、全く後遺症のない麻薬のようなものです。ソーマを飲む事で刹那的な快楽を得る事が社会的に推奨されています。オーウェルの描いたディストピアは、恐怖と暴力を基礎にしていましたが、ハクスリーの描いたディストピアは快楽と知的弛緩によって成り立っています。オーウェルのディストピアよりもハクスリーのディストピアの方が、抜け出しにくい分、恐ろしいとも言えるでしょう。
「すばらしい新世界」を伊藤計劃の「ハーモニー」と繋げて、現代社会の問題をあげつらう事はできますが、やると長くなるのでそれはやりません。ただ、「すばらしい新世界」や「ハーモニー」といった優れた作品においては、個人が社会や経済というマスに完全に溶けてしまう世界が描かれているのは共通です。
個人の在り方は、刹那的な快楽や、与えられた仕事を機械的にこなすという方向に解消されます。その一方で、社会の管理システムは高度になります。言い換えれば、自由と自己を持つのは、社会の頂点を司る管理者ただ一人になります。残りのメンバーは、自分の頭で考える余地を奪われ、それ故に、幸福な存在になります。
先に言ったように、そうした世界とは、「まるで存在しなかったかのような夜」です。人間の中から「眠られぬ夜」は取り除かれ、全ての人間が、麻酔されたような、幸福で、自らの存在を知覚しないあるものに変化します。
現代の社会は、ハクスリーが描いたような世界に酷似しています。こうした世界においては個人は社会に溶け込んでいます。それでは、こうした現代社会の傾向と、ギルガメシュ叙事詩とはどのような関係になっているのでしょうか?
私はこんな風に考えます。ギルガメシュは、自然から切り離されて、個人としての自己を知覚する事から物語を始めました。旧約聖書の楽園喪失の物語も同じです。それと比べた時、現代社会は、人間が世界を支配する力があまりに強すぎて、かえって人間社会そのものがかつての自然=神のような存在になっています。今や、我々が恐れるのは、自然の脅威でもなく、神の託宣でもなく、人間の作り上げた社会そのものです。
神はどこへ行ってしまったのでしょうか? …しかし、神に近づきたいという心性はそのまま残っています。多くのフォロワーを背後にして、傲慢になった人間は、多数者の力を背後に感じて、自分は神になってしまったと過信したのでしょう。こうした人間は、自らがマスに溶け込み、社会そのものと合一したかのような感覚を得ているのでしょう。こうした人を積極的に崇拝する人は、自分もそうした力の集合体、要するに擬似的な神の力をわずかでも受け取りたいという願望を抱いています。
私が何を言いたいかと言えば、ギルガメシュが望んでいた不老不死は、「社会」という形で擬似的に実現しているという事です。どうして「すばらしい新世界」の住人達は刹那的な快楽に浸っていられるのでしょう? どうして自らに訪れる死について考えずに済むのでしょう? それは彼らが、社会という母胎にくるめ取られて、擬似的な永遠を与えられているからです。だから、個人の嗜好としては余計な事は考えず、ただ目の前の快楽に浸っていればいい。永遠とか普遍、本質とかいった難解な哲学的概念を個人が考える必要はないーー何故なら、それらは前もって社会が私達に用意してくれているからです。
こうした社会においては、個人は社会と合一する事で、不老不死が実現しているかのような状態になります。社会は巨大な機械として運行し、その中の成員は絶えず入れ替わります。社会そのものが一つの生命体となり、一人の人間は一つの細胞に過ぎなくなる。細胞は老化すると、剥がれ落ち、新たに造られた細胞と入れ替わります。一つの細胞としての人間は、自らを社会に溶け込ませている限り、死を感じずに済むのです。
「すばらしい新世界」では、こうした社会が完璧に実現しています。このような社会において、忘れられたシェイクスピアをそらんじる「野蛮人」のジョンは、新たな冒険を欲します。彼は、古い倫理観、古い価値観に則って、快楽が支配した世界を否定しようとします。ジョンは、世界統制官のムスタファ・モンドと対決し、次のような会話を交わします。
「快適さなんて欲しくない。欲しいのは神です。詩です。本物の危険です。自由です。美徳です。そして罪悪です」
「要するにきみは」とムスタファ・モンドは言った。「不幸になる権利を要求しているわけだ」
「ああ、それでけっこう」ジョンは挑むように言った。「僕は不幸になる権利を要求しているんです」
「もちろん、老いて醜くなり無力になる権利、梅毒や癌になる権利、食べ物がなくて飢える権利、シラミにたかられる権利、明日をも知れぬ絶えざる不安の中で生きる権利、腸チフスになる権利、あらゆる種類の筆舌に尽くしがたい苦痛にさいなまれる権利もだね」
長い沈黙が流れた。
「僕はそういうもの全部を要求します」ようやくジョンはそう言った。
ムスタファ・モンドは肩をすくめた。「まあ、ご自由に」
ここまでくれば、私の言いたい事も伝わるのではないかと思います。今の文学には必要なのは、ジョンの言う所の「不幸になる権利」の要求です。
歴史それ自体が三千年という時間を通して一周したのかもしれません。ギルガメシュ叙事詩において、ギルガメシュは自然から離反し、自己の死を明確に認識しました。そこから不老不死を求める旅を始めました。
それから長い時間が経ちました。死すべき運命の人間は、知性でもって自然を分解し、科学技術によって強大な力を身に着けました。人々は集合して、自然を作り変え、巨大な社会を作り上げました。この社会は恒常性が目指されています。それは、人間の不老不死への憧れの形式化と言っていいでしょう。
今、文学に必要なのは、こうした社会からもう一度外に出る事です。つまり、楽園喪失した人間達が作り上げた社会からもう一度「楽園喪失」する事、それが目指されるべきではないかと思います。
ギルガメシュの願望と、野蛮人ジョンの願望はちょうど真逆になっています。ギルガメシュは、自らの死という運命を克服しようとしますが、ジョンは一人の人間として死に至る正当な過程を望みます。ギルガメシュは不老不死を、ジョンは死を望みます。
ギルガメシュ叙事詩の哲学を現在に当てはめると、そんな風に、状況は丁度逆になっていると思います。人は、社会という第二の自然を離れて、自己の不幸を、死を追求する物語を始めるべきかもしれません。もちろん、その過程は、この現代社会において、全く無意味であり、ムスタファ・モンドのような人によって弾かれたり、快楽装置に浸っている人々には見向きもされないものでしょうが、そうしたものこそが今日の文学にふさわしいのではないでしょうか。そういう意味では、社会とたやすく合一し、楽園から離れようとしない主人公の物語は、現代における優れた文学に位置するのは難しいと思います。