女神
(なんなんだよあいつ‥‥死んだような目つきしやがって。死ぬのは俺の方なんだぞ!!)
(あれ? 死ぬ? 俺、死んで‥‥?)
身体は動かず、目の前は真っ暗だ。
温かいか寒いかもわからない。
(死んだのか? 俺の人生は終わったのか?)
(死んでも意識ってあるのか‥‥‥でも、何も感じない)
(あぁ、結局妹とは喧嘩別れになったな‥‥父さんと母さんも先に息子が亡くなるなんて‥‥泣くだろうな)
(最後の会話なんだっけ‥‥俺、母さんに弁当作ってもらって、ありがとうって言ったっけ? 父さんが会社行くとき「いってらっしゃい」とかって言ったっけ? あ‥‥妹に最後に「プリンなんかで騒いで、面倒な奴!」とか言っちゃったな‥‥)
(友達だって‥‥泣くよな。はぁ‥‥まだ、あいつらと遊びたかったよ)
(‥‥‥死にたくない‥…)
突然、視界が晴れた。
目は開いているという感覚はあって、辺りを見渡すと真っ白な空間が広がっていてるのだが、地平線が見えない。
「ここは、どこだ? 天国なのか?」
考えたことが素直に言葉になって出てきた。
自分の身体を確かめるとしっかりと四肢がついていて、電車に轢かれたのが嘘のようだ。
「俺の身体‥‥ちゃんとある! 生きてるのか!?」
そう思いたくて叫んでみたものの、この空間が彼の考えを否定している。
「まだ‥‥まだ夢だって可能性が‥‥」
「ぐちぐち騒がしい奴よのぅ! おぬしは死んだのじゃ。受け入れい!」
声に突然叱られて振り返ると、先ほどまでなかった石造りの椅子にふんぞり返って座っている女性がいた。
ただ、明らかにその女性は人間ではなく、座っているにもかかわらず二階建ての建物ほどの大きさがあり、髪と瞳は燃えるような赤色で、耳は獣の様だ。
「神様‥‥ですか?」
「ま、そう呼ぶ者もおったのぅ」
神はけだるそうに頬杖をつきながら、何もかもを見透かすような瞳で見下ろしてきた。
「ここは、命を終えたものが流れ来る場所‥‥おぬしは命を終え、この場所に流れついたのじゃ」
「‥‥もう、元には戻れないんですか?」
「はんっ! 戻りたいのか? あんなぐちゃぐちゃになった身体に?」
神と呼ばれる存在は、こちらの不幸に寄り添うことはなく、嘲り笑った。
電車に轢かれた身体を想像するとぞっと背筋が凍る。
そして、もう二度と元には戻ることがないのだという絶望が心に重くのしかかった。
「俺‥‥これからどうなるんすか?」
「そのうち意識も薄れ、この空間に溶ける。そして、新たな命の糧となるのじゃ‥‥それが全ての命の定めじゃ」
「そんな‥‥‥」
吐き出した言葉は酷く掠れた。
絶望で涙も出なかった。
「どうして、俺が死ななくちゃいけなんだっ‥‥俺を殺したあいつが代わりに死ねばいいじゃないか!」
「そうだよ、神様! 代わりにあいつを殺してくださいっ‥‥俺は、まだ‥‥まだ‥‥」
「余の知ったことではない。余にとってはおぬしの命もおぬしの命を奪った者の命も変わらぬ。それに‥‥余はここに縛られておる身、代わりに命を奪うことなどできぬわ」
「っつ! なんでだよ!? あんなクソ野郎が生きて、俺が死ぬだなんてっ‥‥こんなの間違ってる‥‥」
悲痛な叫びをあげて神に訴えるが、はぁと浅いため息をついて鬱陶しそうに見下ろすばかりだ。
その視線の冷たさに「命が変わらない」というこの神の考えが「どの命も気にかけるような存在ではない」という意味であると理解できた。
「くっそ! なんでだよ‥‥死にたくない‥‥死にたくない‥‥」
「鬱陶しいのぅ‥‥そうやって赤子のようにごねていれば、おぬしの願いが叶うとでも思おておるるのか? 大人しく命が溶けるのを待っておれ」
神はそう呟くと、興味をなくしたのか視線を外し、空中に漂わせた。
それからどれくらいの時間が経ったかわからないが、溶けると言われたものの、どれくらいでそれが起こるのかもわからず、優斗はもう絶望してもしょうがなくなってきて、じっと座り込んでいた。
「命が流れ着き‥‥溶けていく‥‥無垢な赤子も、名もなき花も、他者を殺めた者も、国を治めた老人も‥‥」
神が不思議なことを呟くので、視線が向く方を見つめてみるが何も見えなかった。
神の顔を見上げると、その顔がなんだか切なそうだった。
「何が見えるんだ?」
神に敬意を払うのが生前なら当たり前であったが、今となってはどうでもよくなった。
神もそれを気にしている様子はない。
「おぬしには見えぬだろう。おぬしがぼーっとしている間にも多くの世界から命がここに流れ着き、溶けているのだ」
「神様はそれを見守っているのか?」
神がふと視線を落とし、こちらを一瞥したがまた視線は遠くに戻った。
「見守る‥‥か。余はただ見ているだけだ。あの者らに対し、余にできることはない。ここに縛られ、ここに在ることを強いられた。ただそれだけじゃ‥‥」
目を細めて、遠くを見つめるその表情に少し寂しさが見えた気がした。
「辛くない‥‥か? 見るだけをずっとするなんて」
神は目を見開いて、嘲笑うように唇の端があがった。
「はんっ、余を哀れんでおるのか? 変わった奴よのぅ‥‥それにまだ溶けていかぬとはしぶとい奴じゃ‥‥」
「もう、やることないし‥‥それに神様がなんか辛そうな顔してたんで」
神がふーむと唸って何か考え込み始めた。
「余を哀れむならばおぬし、何か面白い話をせい。余は退屈でたまらん!」
「えぇ‥‥ハードル高っ‥‥」
「ほれほれ、はよせい。いつおぬしが解けて消えてしまうかわからんからな」
「い、嫌な期限付きだな‥‥」
けっこうくだらない話だったのだが、よほど暇だったのか優斗のする話に神は興味深そうに瞳を輝かせて相槌をうっていた。
そのはしゃぎように、少し自分よりもずっと大きいはずの神が小さな女の子に錯覚してしまう。
「‥‥‥それで、俺がプリンを食べちゃって」
「ぷりん? ぷりんとはなんじゃ?」
「え? プリンってのは、卵と牛乳で作ったお菓子で、こう、ぷるぷるしてて、口に入れると滑らかで、甘い」
「ぷる? その、う、うまいのか?」
「うまいよ。神様は食べたことないんだ?」
プリンがかなり気になったようで、想像しているのか、よだれをじゅるりと垂らしそうになった。
やはり子供に見える。
その様子が妹によく似ていて、目じりに涙が薄っすら浮かびながらも笑った。
「‥‥!?」
ふと、足元から久方ぶりの冷たさが這い上がってきて下を向くと、足が消え始めていた。
消えるという恐怖がよみがえってきて、肩が震えて口が乾いてきた。
「は、はは、ごめん神様、お別れだな‥‥」
「‥‥そうじゃな」
無理やりに笑った顔はおそらく情けないくらい引きつっていただろう。
すると、神が椅子から立ち上がって、膝をついてかがみこみ、優斗に顔を近づけた。
髪の毛がカーテンのように空間を遮って、吐息が直にかかり、甘い花の香りに包まれた気がした。
「ユウト、余はおぬしが気に入った。少しだけ延命してやろう。その分もがけ、そして‥‥」
「生きろ」
優斗は頭に柔らかい感覚がしたと思った瞬間に、意識が途絶えた。