怨念の復活
黎琳は再び見えた仇敵に眉をひそめた。
重々しくゆらり、ゆらり、と歩を進める溜謎の姿。
「もう動けないはずなのに、どうしてだ……?」
「……違う。あれは、溜謎じゃない」
「!?」
弾かれたように衿泉は黎琳を見た。
彼女の目にははっきりと見えていた。纏う気の質が違いすぎる。迷いのあったその気が、もはや付け入る隙などないと言わんばかりに濃厚な黒に変貌していた。黎冥を見ても、先程彼女が口にしたような感情が湧いているようには思えなかった。
そして血走った目からは正気が感じられない。
「お前は……誰だ?」
睨み付けると、溜謎の身体を乗っ取った人物がご丁寧にも挨拶をした。
『わたくしの名は、嬌薇。妖魔を束ねる、天狐なり』
「「!!」」
まさか、実の母親が娘の身体を利用するとは。
『嬌薇、溜謎を乗っ取ってなおも自らの憎しみを晴らそうと言うのか』
『その通り。わたくしの心は癒えていない。わたくしは、間違ってなどいなかった。だのに、あの方は妖魔の……わたくしの存在を否定したのよ!』
高ぶる気が容赦なく打ち付ける。神剣では耐えられず、今にもその気に呑み込まれそうになっていた衿泉を自身の気で何とか救い出すために、黎琳は彼を抱き寄せた。
『わたくしの願いは間違っていない!間違っているのは、あの方よ!あの方は理解を示そうとしなかった!そんな主神がこのまま君臨していれば、平等な幸せの未来は創れないのよぉぉぉぉ!』
「やめよ!嬌薇!」
凛としたその声に反応して、嬌薇は振り向いた。
そこにはずっと愛していた人の姿があった。最終的には否定し、裏切った憎しみの相手がそこに。
『あなた様……』
強かった濃厚な気が少しだけだが収まっていく。
『わたくしが一度死んだ時、あなた様は悲しんでくださらなかったそうですね。一度とは言え、想いも身体も混ざり合った仲であったと言うのに!』
「嬌薇……我を憎むのは致し方がない。だが、これからの未来をつくる者達まで、巻き込まないでほしい」
『あなた様の望む未来を創ろうとする者達は、生かしておけません。わたくしや、妖魔達の希望も、何もかも打ち砕く先など、みすみす受け取るわけにはいかないのです!』
復活したかつての姫君に、妖魔達の闘気が一気に上がる。圧倒的に天界軍が有利だった状況はひっくり返り、逆襲が既に始まっていた。間近に見えた勝利に余裕を見せていた天界の兵達が隙を突かれて散り散りに撃破されていく。
緑晶の木葉乱舞や桜紅の火炎、蒼翠の滝水が妖魔達に襲い掛かる。既に倒れて等しいはずなのに、異常な精神力でそちらへとやって来る。
「しまっ……!」
雪崩のように力の抜けた妖魔の身体が押し寄せる。三人ともそれの下敷きとなり、身動きが取れなくなる。そこへ逃さず後方から更にやって来た妖魔が攻撃を加える。
自らの力で何とかその攻撃を防御しきったものの、傷なしとはいかなった。
『さあわたくし達を陥れる天を滅ぼせ!わたくし達こそが、真の正しい未来を切り開く者であると、その刃で証明するのです!』
「……我に、そなたを殺せと言っているのか」
『いいえ、わたくしが……あなた様を殺します』
熱波が主神を襲う。焼け付くような熱に、顔を歪めながらも身体には何一つ問題がないようだ。そのままゆっくりと嬌薇の方へと前進していく。
「あの時、我が一思いにそなたの魂もろとも滅ぼしておけば、こんな事にはならなかったのだろうか……?今こうしてそなたが未だなお憎しみのしがらみから逃れる事ができずに苦しむことは……」
『わたくしの御霊を封印したのは、あなた様でしょう。あなた様はわたくしの魂が娘にとりついているのに気付き、あの黒月の烙印を刻み付けたのでしょう!?』
「そうだ」
『それは恐ろしかったからでしょう!?わたくしが娘を乗っ取って、そのままあなた様の命を奪おうとすることが!!』
「それは断じてない!」
気迫ある主神の言葉に、嬌薇は身をすくめた。
「我がそなたを消せなかった理由くらい、分かるであろう!!……そなたを一度は愛してしまった時から、我はそなたを殺せるはずがなかった。そして……死した後、我には、その証としてどうしても、娘だけは守らねばならぬと思ったのだ。そなたを消すためには、愛する子でさえも手にかけなければならなかったのだから!!」
『そうしてあなた様はまたわたくしの心を乱そうとするの!!』
聞きたくないと言わんばかりに嬌薇は耳を塞いだ。
少しずつだが、溜謎と同じように迷いが見え始めている。このまま主神が説得を続ければ、もしかすると――。
対峙する二人を見守る黎琳。その腕の中で、衿泉が気がつく。
「我は、別にそなたを嫌いになったわけではなかった。ただ、事が大きすぎて、心を取り乱してしまったのだ。あの頃はまだ若く、思慮に欠けていたのでな。だが、今なら言えよう。たとえ妖魔を束ねる者であったとしても、嬌薇、そなたを愛していると」
『嘘……!わたくしだって、主神という相対する立場であったとしても、あなた様をずっと愛しているのに!絶対、嘘よ!』
「嘘なんかじゃないさ」
口を挟んだのは衿泉だった。
「俺だって、最初はただの暴力女だと思っていた黎琳が伝説の応龍であると知った時は戸惑った。それでも種族の違いなんて関係なく俺は黎琳を心から好きになった。そしてこれから衝突することが多々あったとしても、二人で乗り越えていけると、俺は信じている」
わなわなと唇をふるわせた嬌薇。
しかしそこから吐き出されたのは愛の蜜ではなく、嫌悪の毒に過ぎなかった。
『そんなの理想論に過ぎない!現にわたくし達は再び理解できずにこうして対峙し、世界の命運を手にかけている!お前のような人間には分からないのだろうな。愛する者から絶望を与えられる事など!』
尾が長く伸び、素早く黎琳の喉に絡みついた。
「ああっ!」
そのまま黎琳は持ち上げられ、嬌薇の元へと引き寄せられてしまった。慌てて立ち上がり、剣を構える衿泉。しかし彼女が敵の手の内にある以上、手出し出来ないのは明白だった。黎冥が妹を助けようと向かったが、もう一つの尾が鞭のように黎冥を叩き落した。
『わたくしが主神から受け取った絶望と憎しみを、お前も同じように受け取るがいい!!』
言うなり、嬌薇は黎琳の腕に噛み付いた。
黎琳は抗おうとしたが、そこから直接注入された闇の気にはとても対抗することが出来なかった。
「うあっ……あ……!」
身体の感覚がなくなっていく。
「衿、せ……」
また、引き離されるのか。ようやくこうして共にある幸せを掴んだと言うのに。
何より、このまま衿泉を残してなど、いけないのに!
黎琳は悔しさに顔を歪めた後、そのまま顔をがっくりうなだれた。