裏切りの傷
沈黙を破ったのは嬌薇だった。
「わたくしには理想があると、言いましたね。わたくしは、妖魔の長として君臨した時から思っていたのです。果たして、この国は、この世は力で支配される道が理想なのかどうか。そして争いを絶えずしてよいのか。わたくしは思うのです。人と妖魔、そして神がそれぞれ手を取り合えれば、平和な楽園がこの国に実現されるのではないと。ですから、わたくしは貴方様とこうして心を通わせる事が出来た事が理想への大きな一歩として嬉しかったのです」
主神は何も答えない。
「愛する娘のためにも、今こそ我々は変わらなければならないのです。貴方が、ひずみの子としてわたくしと接するのを見てきて、確信しました。この方ならきっと、わたくしの思いを理解し、共に理想へと向かっていけるであろうと」
歩み寄り、嬌薇は白いその手を差し伸べた。
「わたくしは貴方様がたとえ主神であろうとも、ただの人間であろうとも、貴方様をずっとお慕いします。……心から、愛しているのです。貴方様ただ一人を。その間に身分も立場も関係なく」
心からの笑みを浮かべる嬌薇。これで真に結ばれれば、互いの種族は分かり合える。共に手を取って歩んでいける。その道を指し示せる――。
彼は手を取ってくれる。純粋に、そう、信じていた。
しかし主神の出した答えは――頑なに拒む事だった。
乾いた音を伴って払われたその手に嬌薇は驚きを隠せなかった。
ゆらり、と主神が動く。そこからもはや愛情の欠片の一つも感じられなかった。あるのは逆上、怒りのみだった。
「この我をよくも今まで騙していたものだ」
「……貴方様」
「そんな風に呼ぶな!」
次の瞬間、嬌薇は厚い気の壁に吹き飛ばされていた。壁に背中を強く打ち、そのまま力なくへたり込む。
「最初から知っていれば、こんな事にはならなかったのに……」
知らなかった故に七神の命を犠牲にした。妖魔などに力をつけさせる結果など招かなかった。
主神の脳内には裏切りの構図が構築されていた。そう、何を言おうかこの女の目的は主神の力を受け継いだ強大な力を持つ半妖の子を産む事だったと。全ては地上を掌握し、天界を破滅へ導くために。
本気で愛してしまう前に、殺しておくべきだったのに。守るなんて甘ったれた考えなど、持ってはならなかったのに。
殺せない。どんなに怒りに震えようとも、殺せないのだ。
「……去れ。皆が気付かぬうちに。早く天界から出て行くのだ。地上で、身を潜めて暮らすのだ。さもなければ――命の保障は出来ぬ」
だから一度だけ、許すつもりだった。
この女が話す絵空事を信じるつもりになった。その方が、心に傷を残さないで済むと思ったから。
嬌薇もその意向を悟って、ただ歯を噛み締めていた。
「いつか、もし、この事を了承して下さる時が来たら――わたくしは、いつでも、いつまでも待ってます。貴方様のお優しいその心が再びわたくしに開かれる事を」
さよなら。
声にならない声でそっと呟く。
まだ幼い溜謎には状況がいまいち分かっていないらしい。それが余計に悲しみを増幅させる。
先程はいつか、と言ったが、もうこの身体は待ってくれないだろう。このままで終わってしまう。そう思うと崩れ落ちてしまいそうだったので、あえて考えなかった。
窓を開き、そこから飛び降りようとした時だった。
「させない!」
完全に迂闊だった。
がら空きだったその背に焼け付くような気の光線が放たれていた。その力の強さにが傷をつけるどころか、胸を貫いた。
込み上げてくる吐き気に耐え切れず、嬌薇は血を吐く。そのまま雲の下へ、真っ逆さまに落ちていく。何とか無傷で済んだ愛しい我が子を抱いたまま。
「嬌……!」
名前を呼んでしまっては関係がばれてしまう。いや、既にばれてはいるのだろうが、あくまでしらを切らなければ。
「まさか主神様が先に乗り込んでいらしたとは……」
「流石は主神さまですっ」
どうやら天龍が悪しき気配をしかと読み取って、それを案内に他の七神がここへとやって来たらしい。あの気を放ったのは天龍らしい。七神がよくやったと頭を撫でて褒め称えていた。
これは正しい判断だった。正しき措置だったのだ。
それなのに、納得出来ない自分が居る。
――ここまで我は堕ちてしまっていたのか……
同じような過ちを繰り返さないためにも、もっと強い心を持たねば。他者に干渉して、自分の心を揺るがすような事があってはならないのだ。何故なら、主神というのは、その言葉、命一つで世界の在り方に影響を与えかねる存在だから。
――もう、誰にも、心を完全に開いたりはせぬ。孤独に怯えたりも、せぬ!我は主神として地上を導かねばならないのだから!だからこそ、過ちをこれ以上放っておくわけにもいかぬ……
正しい世界の在り方のためにも。
「天龍、並びに七神に命ず。あの忌々しき妖魔の長を――」
殺せ。
その命により、各地に七神が散った。天龍も地上を駆け巡り、嬌薇と溜謎を捜した。しかし、十数年もの間、彼女達は行方をくらましたままだった。
『あの時のわたくしはまだ幼すぎて、記憶もなければ、あったとしても何が起こっているかは分からなかっただろう』
主神は今こそ頑なであるが、それには確かに理由があった。
それは愛する人が本当の事をひた隠しにして来た事。よりにもよって、彼女は敵対する妖魔を束ねる存在だった。主神として、それを討たねばならないのは仕方ない。けれど、一度愛してしまった人をそう簡単に討てるはずもない。相対する二つの思いにさぞ悩まされたはずだ。嬌薇を恐らく討った後、今までずっと――。
何となく分かった。自分の出生の際に香耀の言った事が。
混血は悲劇を生むことになる。混ざり合う事で未知の力を持つ子が生まれ、そしてそれは混沌の渦に巻き込まれて不測の事態を起こす。だから猛反対したのだ。父に、致命傷を負わせてまで。
不器用な気遣いが隠されていたのだ。全ての荒事の裏には。
それらの行動全てが正しかったかどうかは別として。
『でもわたくしは覚えていたのさ。血にまみれた母がわたくしを庇って地上に叩きつけられ、かなりの傷を負っていてもわたくしを離そうとしなかった事だけは!』
溜謎は今にも泣きそうだった。
『人里に近い場所で療養している間、母上はずっとお前の名前を呼んでいた。そして完全に傷が癒えた頃には母上はこう言っていたよ。裏切られた……信じていたのに!ってな!』
「それは我に対しても同じだ!」
『癒えぬ心の傷を抱えた母上はどうなったと思う?』
主神の脳裏には悲しき結末の光景がまざまざと蘇ってきていた。