天界の干渉
「……」
主神の顔は強張ったままだった。
ちょくちょく抜け出していたせいでそろそろ仕事が溜まりすぎている。怪しまれないためにも、出来るだけ早く消化しなければならない。しかし事態はそう好転してくれない。
結局定期的にいけていた地上の愛人並びに娘との密会は出来ずにいた。
少しでも側に居たい。
今この時にまた素性の知れない妖魔に襲われていないか心配になる。
そう、あの場所に展開されている術のせいで一介の妖魔も彼女達の元へは入れないはずなのである。なのにあの妖魔は入ってくるのがまるで当然のように侵入してきた。何処かに綻びがあった訳でもなかったはずなので、不思議な事この上ない。それに今までこのような事があれば彼女も最初からそう相談しているはずだ。対処する能力がないのだから。
――対処する能力がない。彼女は所詮、人間なのだから
理屈的にそれは間違っていない。けれど、何処か矛盾点があるように引っ掛かりが消えなかった。
「……!」
その頃、彼女達の元へ歓迎されざる客がやって来ていた。
にこり、と相手は警戒心を解こうと言わんばかりに笑みを浮かべていた。しかし彼女はいつも主神に見せる柔らかな物腰ではなく、鋭い眼光を放っていた。
その相手は主神の配下であれど、主神の意思に従っているようには思えなかったからだ。主神は自分の事をペラペラと口走っているはずがない。いつからか尾行してこの場所を特定し、排除するためにやって来たのだ。主神の心を揺るがす存在となってしまった、その愛する者達を消すために。
「察しのよい人間は嫌いだ」
自らが司る雷の力でまずは子供の方に攻撃を加える。身体中に電気が走り、悲鳴を上げて気絶する溜謎。
その身体が変化していく。人としての存在を保てなくなったのだ。
「駄目!」
彼女が必死で娘の変化を止めようとする。しかしそれは叶わない。うっすらと幻影のようにしか見えていなかった妖魔のそれは具現化して彼女の身体の一部となってしまった。
「妖魔、いや、半妖の子か」
びくり、と彼女は肩を震わせた。
「貴様、人間ではないな。お前のような存在が主神をかどわかすだけでなく、御身体までも汚すとは!」
「わたくしは……!」
「お前もここで消えてしまうがいい」
雷の七神が攻撃を放とうとした。
しかし、それより先に強烈な妖気が周囲に急速に広がった。
殺気を帯びたそれは七神の力を持ってしてもかなりの殺傷力を持っていた。身体中に亀裂が走り、危険を感じた七神は飛び退く。
もはや彼女の姿は何処にもなかった。そこに居たのは巨大な狐の妖魔だった。尾が十本揃っている、天狐と呼ばれる存在だ。それは地上の中で最も力を持つ妖魔だと言われ、主神に匹敵すると言う。そして、しばらくの間姿を消したと言われている、現妖魔どもの長である。
「まさか、生まれてはならぬひずみの人の子に化けているとは」
『化けるのは狐の得意分野。わたくしの場合は元々人の子になりたい、と願っていたのですが……』
「ますますこのまま放置しておく訳にはいかない」
再び攻撃を繰り出す七神。それに対抗して炎を吐き出す天狐。両者の間で攻撃がぶつかり合い、激しい爆音が轟いた。
煙が充満する中、突っ込んでくる七神の気配を感じ、回避する天狐。
『話が分かる人ではないようですね……。わたくしは、もうどうでもいいのです。ただ、あの方のお側に居られれば。このような境遇などどうでもいいのです。わたくしがあのお方を愛してしまった事に変わりはないのですから』
鋭い爪で七神の細い首を掴む。
『従えてきた臣下達すら裏切って、わたくしはあのお方の側に居る事を決断しました。わたくしに残された時間はあと少しなのです。その間だけでいい。駄目もとで問いますが、そっとしておいて下さいませんか?』
「断る。特にその子供に関しては早急に滅せねば、大変な事に――!」
『……残念です』
次の瞬間、七神の頭と胴体が引きちぎれた。
溢れかえる血をぼうっと眺める天狐。
「う……」
溜謎の呻き声で我に返った天狐は慌ててその無残な形となった残骸を森の奥へと放り出し、人間の姿へと戻る。
「溜謎!」
「お、かあ、さん……」
やはり傷は普通の人間を遥かに凌ぐ回復力で塞がれつつあった。折角この力に目覚めぬように、人として育てる事を決意していたと言うのに。
運命はいつだっていたずらに残酷だ。
あの方は何も話していない。そう信じている。
だけど、もし、万一そのような事が有り得るとしたら――。
ぎゅっと溜謎を抱きしめ、自分でも制御できそうにない黒いもやもやとした気持ちをどうすればいいのか、分からずにいた。
主神がやって来たのはその出来事があってから半年ほど経過してからだった。
「貴方様……溜謎が」
既に妖魔としての姿をとってしまった我が子の事を知り、主神はただただ溜謎を哀れんで見つめるしかなかった。
運良くば、そう思っていたが、そうはいかなかった。
根源たる理は主神であってしても覆す事は出来ないのだ。
「わたくしも……時々何が起こっているのか分からない時があります。意識を乗っ取られる、と言いますか」
あくまでひずみの子としてなりすます天狐。殺めた七神の話など一切しなかった。
「もし、そうなったら、容赦なくわたくしを――」
「分かっている」
その時が近い。そう思うだけでこんなにも胸が苦しくなるものなのか。
主神はまともに彼女を正視する事が出来なかった。
もう残された時間は少ない。恐らくのんびりしていたら、もう次はないかも知れない。
一瞬たりとも、離れたくない――。この命が終わる、その一瞬まで。
気がつけば天狐は主神の胸に顔をうずめていた。自分でも情けないと思うような声で膨らんでいくその望みを吐き出す。
「わたくしの側を離れないで下さい。最後の時まで、お側に居させてください」
「……!」
それは不可能だ。本来ならそう言うべきだったのだ。
けれど、主神は思考を巡らせた。天界へ連れて行き、側に置いておけば、満ちる気によって穢れが祓われるかも知れない。そうすれば、一生手放すことはない。自らの手で天命を下す必要もなくなる。
これは救済と言うより、運命からの逃げに過ぎなかった。
「……来い、我が元へ。我らが宮殿へ」
「!貴方様……!」
彼女に他意など決してなかった。ただ純粋に主神を愛し、最後の時まで側に居たい。その一心だった。
どうしてあの時の彼はそう信じれなかったのか。
時の歯車は軋みつつも一点の結末へ向けてこぎ出していた。