消える意志 残された力
「遠方ご苦労だった。さぞ疲れたろう」
主神に対峙し、彼が真っ先にかけた言葉がこれだった。
労いの言葉にも毒が一切入っていない。これは一種の精神的病気にでもなったか。
「話したい事は山ほどあるのだが、今日はもう休むがよい。明日、詳細については話そう」
使いの者が横からやって来るなり、彼らを部屋へと案内し始める。
「応龍様も、こちらへ」
「私は平気だ。いつもの定期報告をする――」
「!黎琳……・!」
何をしようとしているのかを察して香耀が引き止めようとするが、使いの者に押し出されてしまい、客間ならびに部屋のある通路へ続く扉は堅く閉ざされてしまった。
こうした方が一番手っ取り早いし、仲間達を巻き込まずに済む。
しんと静まり返ったこの空間に黎琳の声が響いた。
「報告よりも、聞きたい事が幾つかある。答えてもらうぞ」
「……この絶対なる主神に答えられぬものなどない」
「まず一つ目。香耀をどうして天界から追放した?」
いきなりの率直な質問に主神も内心呆れた。
「あれは我が意思に背いた。それだけの事よ」
「その原因は自らにあった……なんて一欠けらも思ってないんだろうな」
非があるのは恐らくこの頑固者であるに違いない。
でも表立って逆らうとは、あの郷に入っては郷に従え方針の彼女らしくない。何か余程の事を言ったのではないか。
その瞳で主神に語っていたらしく、主神は見事にその疑問への回答をして見せた。
「お前を使役する事が出来ぬ事を指摘したのだ。お前は、我々の切り札としての自覚が足りなさ過ぎる」
次の瞬間、捕縛の方陣が黎琳の足元に浮かび上がった。氷漬けにされたように身体が全く動かなかった。
玉座から立ち上がり、こちらへと歩み寄ってくる主神。
「我々にとって必要なのは『黎琳』ではない。応龍としての『力』、これを保持したいだけだ。故に、お前の意思はもう必要ない。決戦の時が近づいているのだ。悪く思うな」
「……っ!」
応龍の力を以て捕縛の陣を何とか破壊し、後ろへ飛び退く。
「だったら何故私を地上へ赴かせたんだ!あのまま幽閉していた方が御しやすかっただろうに!」
「油断していただろう?私は自由の身となった、使命はあれども自らの意思で何処へだって行ける。そうは思わなかったか?」
図星を突かれ、黎琳の動きが一瞬乱れた。その好機を逃さず、豪腕が細い首を捉えた。
「ふう……く……!」
「これで応龍の力は我が物に!今度こそ、地上にあまねく悪しき妖魔どもを全滅させてくれる!」
「そうは……させない。私の後に、香耀を、殺す、つもりなんだろ!あの、仲間達も!」
「そうだと言って、お前に何が出来る!?」
「あああああぁぁぁ!」
身体中に熱い気が流れ込む。異常なその気が彼女の存在そのものを危うくしていく。
今にも均衡を崩してその身が滅びそうかと言う時だった。
「烈風波!」
一筋の風が主神の腕ごと、黎琳を彼から切り離した。
「香、耀……!」
――よりによってこんな時に来るなんて!
挙げ句の果てには巻き込むまいと遠ざけた仲間達まで入ってきていた。
「主神、貴方って人は……!」
「やめろ、香耀!」
怒りに呑まれ、主神にたたみかけようとした彼女を制する。
その背後からも衿泉が振り上げたその右腕をがっちり掴んでいた。はっとし、香耀は溢れ出そうになったその感情を抑えた。
「ふん、今更遅いわ……。術は発動した。応龍、お前は消えるのだ。残るのは、その力だけ」
腕を切断された事はさほど問題ではないらしい。既に骨と筋肉が再生されつつあった。直、新たに右腕が形成されてしまうだろう。
それよりも今の話を聞いた仲間達が居ても立っても居られずこちらへと駆け寄ってきた。
「黎琳!」
「一体何をされたんですか!」
「立てるか?」
「私に、触れるな!」
訳の分からない気を打たれた以上、触れれば何かしらの悪影響を及ぼしてしまうかも知れない。助けを借りずに、その場へと立ち上がる。
そしてその異変に一番最初に気付いたのは他でも無く衿泉だった。
「お前、足……!」
「え?」
本人ですら気付いてなかった。
自分の足が透け、ほとんど消えかけている事に。
「……!」
先程の主神が放った言葉は偽りではなかったという事か。
本気で、消される。
「黎琳殿、一体何があったのか?」
「……どうやら、私の出番はここまでのようだ」
「何を言うか!これからと言う時なのに……そそくさと退場など許さぬのじゃ!」
足だけでなく、手先も透けていく。
「この国を守るために必要なのは、『私の存在』ではなく、『私の力』だけなのさ。こんな単純な事も気付かずに掌で踊らされてたのは非常に不愉快だが……真実である以上、認めざるを得ないな」
「そんなの!」
「それに、その方が黎冥相手に躊躇わずに済むからな。使い方さえ間違わなければ、渦に飲み込まれることもない。これほど理に適ってるんだ。反論も抗いも出来ないさ」
胴体ですらも消えかかり、手と足は既に虚空へと消えていた。
「いやぁ、黎琳!」
「お前達は平和な世界を勝ち取るんだ。私が消えても、お前達が勝利を手にし、幸せに暮らしていけるならそれでいい……。私は、もう運命に翻弄されて、疲れたよ……」
「消えるな、黎琳!」
衿泉が必死に手を伸ばす。しかし透けたその存在はもはや肉体という物質としてそこにはなかった。
「私の代わりに、黎冥を……運命の鎖から解き放ってくれ。頼む……」
本当は納得出来ない。
けれど、受け入れざるを得ない。
自分一人の犠牲で、明るい未来が造れると言うのなら、安いものだ。
だって、この仲間達が住む地上の国を、守りたいから。
皆それぞれ苦しみ、戦ってきたのだから、彼らには幸せな未来を築いてやりたい。
特に……あいつには。
「ごめん……衿、泉――」
薄れる意識の中でうわ言のように黎琳は彼の名を呼んだ。
そして彼女の姿は景色に溶け入って完全になくなった。
残ったのは、彼女の力を結晶化した一つの輝く珠のみだった。