死の森
「き、衿泉!」
たくましい双剣士が紳士的にも黎琳を救ったのだ。
「間一髪だな、全く」
姫を抱えるような抱き方をしたら怒るはずなのに、彼女は顔を肩にうずめ、しゃくり出した。
本当は怒鳴ろうと思っていた衿泉だが、出鼻をくじかれてしまった。
「そんなだったら最初っから一人で突っ走るなよ……。本当に心臓に悪い」
「ごめん……」
そうとしか言葉を紡げなかった。
少しして後の仲間達がこの空間へと入ってきた。
「黎琳!もう、春零達が居ないと駄目なのに無茶して!」
「……そんなに我々の実力が取るに足らないのか」
「そうじゃそうじゃ!子供だって甘く見るでない!」
「本当、失礼な事だよ」
全員口を尖らせて言うものだから、黎琳は居心地が悪かった。
そして更にその後からやって来た一人の人物に目を丸くした。香耀だ。
「香耀!」
「彼らが居なかったら、我らが応龍を失う事になっていた」
香耀の姿を見た黎冥の殺気は更に濃いものとなっていた。もはやあれは妖魔を超越した化け物のようだ。
『珍しい人が来たものだねぇ?』
「溜謎……貴様、その烙印を押されても尚懲りぬか」
普段そこまで高揚しない香耀が敵意を露にするのも珍しかった。
『言ったはず、わたくしは地上に堕とされた事を未来永劫許しはしない。七神をいつか滅ぼす脅威となって天界へ戻る、と!』
黎琳ですら知らない過去の因縁が七神と彼女の間にあるようだ。
「仮に我が身を滅ぼしても、もう七神でない以上復讐は果たせぬ。が、こちらにはお前を殺す口実はいくらでもある……」
『お手並み拝見、と行きましょうか!』
『香耀ぉぉぉぉぉぉ!』
二人がこれから一戦展開しようとした時に割って攻撃を仕掛けたのは黎冥だった。
咆哮し、放った強烈な闇の気は彼女の力をもってしても跳ね返せず、そのまま後ろへと飛ばされる。
「香耀!」
壁にぶつかる寸前で風を起こし、激突を防ぐ。
持ち直そうとした彼女に、その間すら与えずに魔の手が首筋を捉えた。
『お前が!俺の大切なものを奪った!お前だけは、この手で、殺す!』
「やめてくれ、黎冥!」
飛び出し、香耀の背に立つ黎琳。
『何故だ!』
「何が何でも、香耀は死なせない。彼女も一人の、義理でも母親として私を育てた恩人に変わりはない。殺すと言うのなら……私が黎冥を殺しかねない」
今にも飛び掛ってしまいそうだった。けれど、それは香耀のためにも、黎冥のためにもならない事は分かっていたので、何とかその場を堪えた。
黎冥は慄き、その手に込められた力を緩めた。滑り落ちるように香耀は膝をついた。
「私は黎冥と戦いたくない!……怒りに、闇に呑まれるな、黎冥」
『ああああぁぁぁぁぁ!?』
突如その身体が変化し、巨大な龍の姿が現れた。同じ銀の龍であるはずなのに、黒みを帯びて如何にも邪悪な雰囲気を醸し出している。
怒りが、悲しみが、闇が、彼の心をこんなにも蝕んでいるとは。
そしてそれを助長する存在がまた厄介だった。
『黎冥様、さあ貴方様の望む世界をお創り下さいませ!さすれば、本物の――貴方様の可愛い妹が帰ってくるに違いありません』
「戯れ言を!」
怒鳴り声を上げてすぐに咳き込む香耀。
こんなにも救いの手を差し伸べているのに、彼はそちらに目すら向けようとしない。
彼に映るは……一面の闇。そして望む世界、それだけ。そのために何が犠牲になろうとその心が病むことなどない。
『そうだな……さあ、裁きの時間へと参ろうではないか!』
天井が崩れ落ちる。ここへと続く道の中でかなり山を登っていたらしい。天井の崩壊の影響で同じく壊れた横の壁から、この国の姿が見えた。
外の陽の光が照らそうとも、彼の闇が晴れる事はなかった。黎冥は口を開け、気を集中させる。圧縮された黒の気がみるみる集まっていく。
「!!」
巨大な黒の気の塊が天へと打ち出された。それは昼の明かりを瞬時に遮断し、暗闇に地上を閉じ込めた。
雨がぼつぼつと降り出し、遠くで赤黒い稲光が瞬くのが見えた。
何処かで人々の悲鳴が今にも聞こえそうだった。
眼下の黒の森が、緑の森へと伝染していく様子も見えた。地面を覆っていた草花や土さえも黒に染まっていき、枯れ朽ちる。
『さあ喰らえ!堕とせ!魂すらも残さずに!』
黎冥の高らかな宣告に、あちこちから妖魔の気配が感じ取られた。
「黒の森……あれは普通の人間に耐えられる代物ではない」
妖魔の襲撃に加え、あの怪奇現象で逃げ場を失えば、人間達は次々と――。
ここで親玉を叩くのも立派な戦法である。が、このままでは親玉を叩く前に、風琳国民が全滅してしまうだろう。
優先順位は、こっちじゃない……!
「……皆、行こう」
「行こうって、こいつ等を野放しにして!?」
「妖魔並びにその指導者を退治する事が私の責務。しかしそれはこの土地の人間を守るための事。ここで奴等を叩いて、人が滅びてしまっては意義がない。そうだろう、香耀?」
「ほう、随分と言ってくれるようになったものだ」
正解だとも、間違いだとも断言はしなかったものの、それが答えである事は香耀の目に宿る光で一目瞭然だった。
しばらくの間があって、仲間達は黎琳の妥協の案に頷いた。
――私は逃げるんじゃない。すべき事をしてから、万全の態勢で再び戦いに挑みに来る……!
傷ついた香耀の身体に負担をかけないように、風の移動手段は使えない。ならば、黎琳が龍化し、皆を運ぶまでだ。
その身体が光りを放ち、翼持ちの龍の姿へと変わっていく様を衿泉達は呆然と見ていた。彼らの前で本物の応龍の姿となるのはこれが初めてであったせいだろう。
翼を広げ、空へ舞う体制に入る。
「乗るぞ!」
衿泉を筆頭に、次々と黎琳の背へ飛び乗る。
「しっかり掴まっておかないと、風圧に耐え切れずに真っ逆さまになる。まあ我が風の力でそれなりに弱めはするだろうが」
「助かります、香耀さん」
全員が乗ったのを確認し、黎琳は空へと羽ばたく。
『ここで尻尾を巻いて逃げるなんて……肝の小さい応龍だこと!』
「俺達は逃げるんじゃない。先にすべき事をしに行くだけさ」
きっぱり言いのけた衿泉にそれ以上言葉を紡ぐ事の出来ない溜謎。
追ってくる様子がないらしい。それはそれで好都合だ。
眼下で美しき緑を侵食していく死の森が、人里に近づきつつあった。